第41話 立ち上がれ、僕らのヒーロー

 8月14日(金)

 23時30分――。


 煉獄の炎を思わせるオレンジ色の灯りに照らされた道。地獄へ続くかのような薄暗い向こう側へ。


 天安門地下道がつくられたのは九十年代で、地下百メートルを力任せにくりぬき、コンクリートで塗り固め、誘導灯をこさえただけの地下トンネルと表現したほうが分かりやすい粗末な構造だった。


「逃がさんぞ、チェルシースマイル」


 数十分前、人民大会堂にある天安門地下道入り口より、人民解放軍・瀋陽軍区の若い兵士が運転するジープに飛び乗った有働は、現在GPSが示すチェルシースマイルの車を追跡している。


 後続のジープは四台。計二十名の北京軍区兵士が、有働と同行していることになる。


 雑すぎる地下工事の代償。地面の起伏にジープがひっくり返りそうになりながらも、運転席の若い兵士はただひたすらジープを駆り続けた。


 兵士によると、他軍区とも連携し待機させてあった装甲車など、地上からも応援がわんさか着いてきてるらしい。


 内木の仇を討つため、不死研究(プロジェクト・イブ)の全貌を知る周遠源を拘束するため、除暁明の遺した機会を失わぬため、有働は決着をつけなければならない。


 そして――。


「現在、不死の兵士二百人が旅行客を装い、日本各地にいる…日本人絶滅計画のためだ。うち数十名を、都内からK県小喜田内市に行かせる。時間にして数時間か」


 先ほどのチェルシースマイルの発言が有働を不安にさせる。


 有働は地下道に潜るまえ、小喜田内市にいる春日や久住、往訪に住む誉田らに電話したが今日に限って繋がらなかった。


 メールで「緊急事態」と打ち内容も簡潔に入力し、送信した。彼らが有働の話に疑問をもつようなことはないだろうが、チェルシースマイルの発言がこけおどしでなく本物ならば、どれくらいの機動力で不死身の殺戮者数十名に対応できるだろうか。有働は臍を噛んだ。


「小喜田内市襲撃の指示を出される前に、チェルシースマイルをさっさと殺さなきゃな」


 誘導灯によってオレンジ色に染められた車内の後部座席には、チェルシースマイルの愛犬ジェイソンが乗っている。


 ジェイソンはチェルシースマイルが置き忘れた唯一の手がかりだ。アジトへたどり着いた際、このドーベルマンが飼い主までの道を示してくれるだろうと有働は望みをかけている。


 助手席の有働は、止血した左手で鞘に納めたウイグル刀を握り締めた。


 遮るものがなにもない地下道を、ジープで飛ばすこと時速百三十キロオーバー。


 はるか前方を走行するチェルシースマイルの車が、北京市某所へつながる出口へと抜けたようだ。GPSの赤い点滅がそう示している。


 有働らもそれに続く。地下道を限界までぶっ飛ばし、三十ある出口のうちのひとつへ。


「出ます。衝撃に備えてください」


 運転席の若い兵士が声を張る。


 同時にジープの走行を、地下道出口のセンサーが感知し、長方形に切り取られた闇が開けてきた。地下のそれとは違う夜の闇。地上だ。真夜中の世界にジープは突進した。


 地上――、ジープが数度バウンドし飛び出た先は、北京市某区。


 有働はバックミラーを見た。


 山を切り崩した地層が出口となっていた。最後尾のジープが地上に出ると、金属製の扉が静かに閉まる。そこには赤い太文字で「禁止进入」つまり中国語で立ち入り禁止の文字が書かれていた。


 飛び出た先は、夜の闇にしんと静まり返る工業地帯。


 巨大な煙突は天空を突き刺し、灰色の雲と同化している。星は見えない。薄い雲に覆われた鈍い月明かりだけが死んだような町を見下ろしていた。


「やつのアジトはすぐそこだ」


 移動を示す赤い点滅が、停止を意味する緑の点滅へ切り替わる。


 ジープは墓地のような工場地帯を駆け抜け、広大な暗闇にぽつんと浮かぶ建物へとたどり着いた。


 エンジン音がくすぶる黒塗りの外車。間違いなくこれはチェルシースマイルのものだと年長の兵士が証言した。


 ヘッドライトを消したジープを、建物の窓から死角になる位置――、建物の左脇へと停車させる。後続のジープ四台もそれに倣った。


「いくぞ」


 有働は九五式自動歩槍を構え、兵士たちとジープをおりた。


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 それは、灰色に塗り固められた巨大なコンクリートの塊にみえた。


 明確な用途を与えられずひっそりと町を見下ろすだけの建物。もっといえば建物に擬態した怪物かなにか。


 縦並びの窓の数からして、表向きは三階建ての倉庫だろう。


 奥行きはそこそこある。


 有働は、大きさ的に渋谷にある千人キャパのライブ会場の建物を思い出した。


 この建物に部屋はいくつあるか、彼らがこちらに気づき応戦できる環境が整ってはいないか。充分に警戒する必要のある広さといえる。


 他軍区の応援部隊は、地上での移動であるが故、走行スピードや交通の制約に縛られ、到着を待つにはまだ時間がかかりそうだった。


 建物の周辺を確認した兵士が戻ってきた。出入り口は正面にある一つだけで、裏口や非常口の類はないらしい。


 外部からの進入を拒むつくり。同時に、逃走に適さないつくり。


 この国に建築基準法なるものがあるのか、これがそれに適っているのかどうか有働には分からない。


 だが、他者に攻め込まれたときのことを織り込んでいながら、自らが逃走するときのことなど微塵も考えてつくられていないこの建物は、チェルシースマイルという男の「猜疑心」と「傲慢さ」を象徴しているように思えた。


 とはいえ、出入り口が一箇所というのは有働らにとって有利な条件に違いない。


「応援を待たずここは、おれたちだけで片付けよう。すべてをあるべき形で終わらせるんだ」


 有働は二十名の兵士たちに、北京語で言った。


 周遠源は、共産党幹部らも知りえない「不死研究(プロジェクト・イブ)」の全貌を把握する唯一の責任者であるから拘束しなければならない。


 だが、劉水――、チェルシースマイルは拘束せず、射殺しよう。


 そういう意味を込めて。


 皆が頷く。


 日本語でも中国語でも、英語でもない。言葉にならない男たちの決意が、一つの連帯感を生み出していた。


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 建物の外に三名の兵士を残し、影のように有働たちは動く。建物出入り口のドアが微かに開いていた。


 チェルシースマイルの車内に誰ひとり残されていないのを考えれば、部下も総員して建物内に隠してある資金やら何やらを運び出す算段なのだろう。


 チェルシースマイルは焦っている。


 好機。


 有働と二十名の北京軍区の兵士たちは、猫のようにしなやかにドアの細長い隙間から、内部へと潜り込んだ。


 建物内の電気はすべて消えている。


 チェルシースマイルが出入り口前に停めた車のヘッドライトが窓越しに照らし出し、向こうは深い闇に包まれているが、通路に幾つかの扉を確認できた。


 独房のように等間隔に設けられた扉を鑑みるに、扉の数はおそらく五つほどか、それに満たないくらいだと推測できる。


「いきましょう、有働さん」


 先頭はジープを運転していた若い兵士。


 その次にドーベルマンのジェイソンの手綱を握る有働が続く。ジェイソンの口元は千切った布で猿轡がなされ、その獰猛な口元からは夥しい涎が溢れ出している。


 ジェイソンが部屋の一つに反応を示し、低く吠える。


 ヘッドライトが照らすぎりぎりの距離。左端から数えて三つ目の部屋だ。そこがジェイソンの飼い主の居場所か、餌の在り処かは分からない。


 有働はジェイソンの頭を撫でた。


 人肉を食うとはいえ、そこは犬だった。鼻の奥から高い音を鳴らし、はやくそこへ行きたいとばかりにつぶらな瞳で有働を振り向く。


「よしよし」


 九五式自動歩槍を構え、三つ目の扉へと向かう有働と二十名の兵士たち。


 先頭の若い兵士が扉のノブに右手をかける。


 彼のヘルメットと前髪の隙間から、大粒の汗が滴った。若い兵士は九五式自動歩槍を左手で持ち、ドアノブに手をかけたまま、戦闘服の右肩部分でゆっくり汗を拭う。


「あけますよ」


 彼の頷きはそれを意味する。皆も頷き返した。


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 ドアノブがゆっくりと回る。鍵はかかっていなかった。


 扉が開く。皆が銃を構える。


 饐えた臭い。排泄物と汗と血のこもったような臭いがドアの隙間から漏れてきた。ざわざわと黒い影が動く。


 ジェイソンが口を塞がれたまま、低く吠える。


 うめき声。無数のうめき声。甲高いうめき声が部屋の中から漏れてきた。ジェイソンが興奮する。餌を見つけた犬の吼え方だ。


 やがて扉の隙間が、徐々に太い長方形へと変わり、ヘッドライトの灯りが部屋の中まで届くようになった。


 灯りを恐れるようにして、無数の影がもぞもぞと部屋の奥へと逃げてゆく。


「なんだあれは?」


 有働には、暗闇で蠢くそれが四足歩行の動物に思えた。


 豚かなにか、ずんぐりとしたシルエット。


 それらはまだうめいている。ジェイソンが吼える。それに反応し怯えたように細い叫び声が聞こえる。笑い声が聞こえる。


 何かを呟く声、言葉、日本語だった。人間だ、それも女。いや、女たち。


「なんだ…これは…」


 有働は再び似たような言葉を口走ったが、それらがなにかを理解した。


 部屋の中で蠢いていたのは、腹がスイカのように迫り出た手足のない、全裸の女たちだった。二十人以上はいる。


「…して…」


「…がい…」


「…たい…」


「あは、あはは…あはっ、あはははっ…」


 ヘッドライトに怯え壁に向かってぶつぶつ何かをいう者、伸び放題になった髪の隙間から狂気に満ちた目を光らせへらへらと笑う者。


 ドアを開けた若い兵士は、九五式自動歩槍の銃口をおろす。


 有働もそれに倣う。


 背後の兵士たちは何が起こっているのか理解できていないだろう。部屋の中を覗き見しようと背伸びする者もいた。


 有働は、右手で口を押さえ吐き気をこらえた。


「ろ…し、て…」


「ねが…い」


「に…たい…」


 なにかを日本語で呟く声。殺して、殺して、お願い。死にたい。それ以外の言葉は誰も発さなかった。手足のない全裸の妊婦たち。中には目玉をくりぬかれ鼻や唇を削がれた者もいる。


「あの男が日本人のダルマ女を所有し、孕ませては胎児を食ってると聞いたことがある。単なる噂だと思っていたが」


 有働の次に部屋を覗いた年長者の兵士が、小声で呟いた。


 その声が微かに震えている。そして彼は、背後の兵士たちに部屋の中を見るなとジェスチャーした。これから行われる戦闘になにかしらの影響が出ることを恐れているのだ。


「あの、くそ野郎が」


 抗えない殺意と憎悪が噴き出し、有働は発狂しそうになった。傷口を縫い、包帯を巻いた左手上腕部の傷口から血が噴き出る。


 手綱を離されて自由になったドーベルマンのジェイソンは、お気に入りのダルマ女へと駆け寄り、マウンティング、つまり雌犬にするようにして後ろから犯すポーズで腰を振り続けた。


 ここはチェルシースマイルの人肉培養所であり、想像を超える下劣な遊び場だったに違いない。


「あははっ、あはっ、あ~っ、あぁ~っ、いいっ、きぼちぃ~、あははっ」


 女はドーベルマンに犯されながら、膨らんだ腹を地面に押し付け尻を突き出し、感じてる芝居をして笑い転げた。


 ジェイソンの細いペニスが女の陰部から出し入れされるたび、おぞましい粘膜の音が部屋中に響き渡る。


 女の顔はうっ血して腫れ上がり元の人相が分からない。笑いながら目を閉じていた。女は笑い続けるうちに下半身が緩んだのか、陰部や肛門から噴水のように尿と糞を垂れ流しはじめた。


「見ていられない」


 若い兵士がジェイソンの首を背後から締め上げ、頚椎を折る。きゃいんと小さく鳴き憐れなドーベルマンは永遠の眠りについた。


「あははっ、きぼちっ、あっ、あっ、いぐぅ~、はははっ」


 女の笑い声はいつまでも止まなかった。


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 一階にある三番目の扉からダルマ女たちの呻き声が響く中、九五式自動歩槍を構えた兵士たちが通路を移動する。


 しんと冷えた空気。汗ばむ北京の熱帯夜が死の香りを濃厚に放ち始めていた。


 皆で一番目、二番目と四番目、五番目の扉を開けてゆき、何もないのを確認すると建物の右の奥、ヘッドライトの届かぬ闇の中へ。


 若い兵士がライトを照らす。


 二階へ繋がる階段が浮かび上がった。


 まるで魔界へ繋がる梯子のようだ。階上から、左右に揺れながらひたひたと何かが降りてくるのが見えた。


 兵士たちが銃を構える。有働は注意深くそれを見る。


 ずんぐりとした影。それは。


「有働くん。ここからよく見えるよ。息苦しい部屋だろう?私が第二次大戦中、日本兵に囚われていた部屋もこんな様子だった」


 建物内、通路中央のスピーカーから、チェルシースマイルの声が聞こえてきた。


「まさか」


 有働は言ったあと、現実を受け入れたくないあまりに自らの口を右手でふさいだ。


「私の資産が隠してある建物はここではない。ここから少し離れた場所でね。部下たちが私に代わってそれを取りにいってる」


 ここではない、という表現。チェルシースマイルはこの建物付近で、一方的にこちらを伺っているのだ。


「みんな逃げろ…何かがおかしい」


 有働の言葉に頷きながらも、北京軍区の兵士たちは通路の左右、窓の外をしきりに気にし始め、銃を構える姿勢もどこか固くなっていた。


「私はここだよ。君らが外に置いていた見張りの兵士たちは始末した」


 ボールのようなものが建物の出入り口ドアから投げ込まれた。ぜんぶで三つ。真っ赤な血に染まった見張りの兵士たちの首だ。


「てめぇ!」


 生首の一つが、有働の足元へ転がってきた。


 薄目を開け口を半開きにし、自分が死んだことに気づいていないような表情。さっきジープで「ここは任せろ」と男気を見せた体格のいい兵士だった。


「不死研究(プロジェクト・イブ)のキーマンを解放しよう。それでは私は行くよ。あちらで部下が待機しているからね」


 チェルシースマイルの右手だけが、出入り口ドアの隙間からバイバイというジェスチャーをしたあと、勢いよくそれは閉ざされた。


「まずい」


 有働の呟き。


「た…たしゅ、たしゅけて…」


 ひたひたと階段から降りてきたものの正体。


 全裸に銀のガムテープで無数のダイナマイトをくくりつけられた、身長百八十センチの巨漢。


 額に前髪をへばりつかせ自慢のオールバックが崩れた状態で、中華人民共和国の国家主席――、周遠源が現れた。


 細い目いっぱいに涙を浮かべ頭を意味もなく上下に振り、錯乱状態の周遠源。除暁明がチェルシースマイルのポケットに放り投げたと思しきGPSの端末を右手に握らされていた。


 ダイナマイトの導火線が繋がっている電子機器のタイマーが、赤い電子文字で五秒、四秒とカウントされていた。


 三秒。


 やられた。有働は舌打ちする暇もなく、動いた。


 二秒。


「みんな逃げろ…爆発する」


 一秒。


 眩い光に閉ざされ、なにも見えなくなった。


 白い世界。


 音はあとからついてくる。鼓膜を震わす轟音。凄まじい速度で膨張する爆炎。


 有働は間一髪滑り込んだその部屋で、ひしゃげた鋼鉄の扉ごと吹っ飛び、衝撃を食らった。


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 鼓膜を震わす金属音。


 臨海学校の爆発による記憶がよみがえる。有働は右肘で体勢を支え、ひしゃげた扉から這い出た。


 有働が避難した先の部屋では、二十名ほどのダルマ女たちがもぞもぞと動き、痙攣している。


「すいません、お邪魔しました」


 死者はいないようだが気絶している者が多数。有働の軽口に答えるダルマ女はいなかった。


 衝撃によって、ついさっきまで構えていた九五式自動歩槍はどこかへ吹っ飛んでしまった。


 有働はハンドガン――、九十二式手槍をレッグホルスターから抜き、セーフティレバーを操作する。まだどこかに潜んでいるであろうチェルシースマイルを射殺するためだ。


 瓦礫の山。


 火薬と血煙の混ざり合った臭い。


 建物じたいが消し飛んだわけではないが、一階にあった五つの部屋の各ドアと出入り口はそっくりそのまま失われ、吹き抜けになっていた。


「さすがにしぶといな、有働」


 グロック20を構えたチェルシースマイルが、有働を見下ろすかたちで立っていた。


「くそ」


 有働は右手に握っていた九五式自動歩槍を、這いつくばるふりをして自らの胸の下に隠した。粉塵が舞う中、チェルシースマイルがそれに気づいたどうかは分からない。


「周遠源は死んだ…」


 チェルシースマイルは薄く笑う。


 そこかしこに飛び散った肉片と血痕。


 一瞬で消滅してしまった兵士たちと周遠源。命の脆さと運の良し悪しは、その人物の社会的地位や志の高さに関係ないらしい。死神は隙あらば誰にでも微笑む平等主義者だ。


「…不死研究(プロジェクト・イブ)の全貌は闇に葬られ、世界は疑心暗鬼になり崩壊へと向かう」


 狂人はなおも嗤い続ける。


「何が目的だ」


「今となっては目的などない。世界そのものを憎しみに変えるきっかけになれれば、それでいい。裕福な国である日本にもその余波は必ずやってくる。私が待ち焦がれるのは、世界の終焉だ」


「ほざけ」


 チェルシースマイルは左頬の古傷と、つい先ほど除暁明につけられた傷を歪め、能面のような笑みを浮かべた。


「もちろん…私の命が続く限り、できる限りの人間を苦しめ絶望させてやるがね。私の過去や失ったもの。すべては神の計らいといえよう。私はそのために駒として命を投げ出してもかまわない」


 チェルシースマイルの右手に握られたグロック20の銃口は有働を捕らえて離さない。だが狂人はさらなる地獄を夢想し、頬を緩め天を仰いでいた。


 一瞬の隙。


「ならば、今、死ね」


 有働は九十二式手槍のヒキガネを引いた。


 乾いた音。


 弾丸は、油断していたチェルシースマイルのグロック20の銃身を破壊した。


「くたばれ」


 乾いた、音。


「くたばれ」


 乾いた、音。


「くたばれ」


 乾いた音、乾いた音。乾いた音、乾いた音。乾いた音、乾いた音。乾いた音、乾いた音。


 有働は弾倉の中にある9mmパラベラム弾をすべて吐き出す。機械的に。


 近代における殺人とは至ってシンプルな作業だ。剣や槍のように鍛錬は必要なく、ただヒキガネに力を込めるだけ。


 空薬莢が次々に排出され、チェルシースマイルは操り人形のように手足をでたらめに動かしダンスをした。


「くたばれ」


 まだまだ続く、乾いた音、乾いた音…。


 吹き抜けとなった建物の瓦礫の上で仰向けに倒れたチェルシースマイルの上に、有働がよろめきながら覆いかぶさる。


「くたばったな?」


 軽量チタンの頭蓋は数箇所むき出しになり、首の横の肉が削がれていた。


 チェルシースマイルは防弾チョッキを着用しているようなので、有働はやつがノーガードと思しき下半身に重点的に発砲した。案の定、高級スラックスが血に濡れ、右足は千切れかかっている。


「くたばったか」


 有働の言葉に、かっと目を見開き、チェルシースマイルはベルトに手をかけた。


「秘密兵器の弾丸を食らえ、有働」


 パァンと小ぶりな爆発音。


 有働がすっ飛ぶ。


 有働自身も人民解放軍の戦闘服の下に防弾チョッキを着用しているとはいえ、弾丸を至近距離で食らった衝撃はボクサーのボディーブローに匹敵する。


「第二次大戦でナチスが開発したベルトバックル型ピストルだ。オモチャレベルの骨董品とはいえ最後に役立ったな」


 チェルシースマイルはむくっと起き上がった。


 右足のくるぶしから下が千切れかかり、びっこを引きながら、仰向けに倒れた有働に歩み寄る。両端の口が裂け、顔中あちらこちらに銀色の頭蓋骨を剥き出しにした怪物。


 有働は右手を戦闘服のズボン右ポケットに忍ばせ、あるものを握った。


「死ぬよりもつらい痛みを味わったことがあるかね。刺されるより、塞がった傷が開くほうが何倍、何十倍も苦痛らしいね」


 チェルシースマイルが有働の上にのっかり、左前腕の包帯ごと握りつぶす。チェルシースマイルは自らが他者に与えた傷や苦痛を決して忘れない。


「ぐあ」


「油断は禁物だよ。せっかく治療した左腕が台無しだ」


 握る力が強まり、人民大会堂大会議場でサバイバルナイフが貫通した傷口が裂け、包帯にどす黒い血が滲み溢れ出す。


「くそったれ…」


「腕が裂けても、まだ私を睨む元気があるか?ん?」


 チェルシスマイールは、包帯がめくれ裂傷が顕になった有働の左前腕を右手で握り、左手の指先を裂傷に突き立てた。


「があっ」


 裂傷から筋肉、破れた血管、神経、腱などが血液とともに覗き出す。


「この裂け目に私の腕をすっぽり貫通させてみようか。細胞が壊死し君の左腕は使い物にならなくなる」


 ずぶずぶと音を立て、チェルシースマイルの左手の指先が、有働の左前腕に徐々に挿入されてゆく。


「ああがぁっぐ」


 有働は生まれて一度も発したことのない声で呻いた。


「ほら…もうすぐ、私の左手が君の腕にすっぽり収まるよ。筋肉や神経をぐちゃぐちゃにかき混ぜてやろう」


「くそやろう、今日からタマなしだ」


 苦痛に顔を歪めた有働の右腕が、チェルシースマイルの股間に潜り込む。


「なに」


 嗤いながら有働の左腕を陵辱していたチェルシースマイルの動きが止まった。


 ごきゅ…、ぷっしゅううう。ぐぎぎぎ、ぴっぴっぴっ。


「除暁明が、よろしく言ってたぜ」


 冗談のような何かが潰れる音とともに、チェルシースマイルが蹲る。奇声。断末魔の悲鳴。この世のすべてを呪うかのような苦痛の叫び。


「あぎゃぎゃぎゃ、ががが、あああああああああ」


 有働が立ち上がる。


 蹲ったチェルシースマイルの股間から、装飾がきらびやかなウイグル刀の柄が生えていた。


「有働…ぎぎぎぎざま」


 チェルシースマイルが股間を押さえたまま瓦礫の上を何度も転がった。


 高級スーツの内ポケットから、タバコの箱よりも少し大きいくらいの小さな新約聖書が滑り落ちた。


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 有働は向こう側が透けて見えそうな縦長の大きな穴の開いた左腕をぶらぶらさせながら立ち上がった。


 もう左腕は使い物にならないかもしれない。だがそんなことは関係なかった。


「あんたの…日本人に恨みがある理由ってのは、噂に聞いている」


 有働はしゃがみこむようにして、チェルシースマイルを見つめた。


「だ、だだ、がら…何がいいたい」


 額に脂汗を流しながらチェルシースマイルは有働を見つめ返す。


「…半世紀以上に渡る苦しみと憎悪…俺には想像がつかないさ」


「ぞ、ぞうか」


 チェルシースマイルは瓦礫の上を這った。有働の話など聞いちゃいなかった。ここを脱出し、股間に適切な医療処置を施し生命を維持しようという生物的本能だけで這いずっていた。


「あんたが怪物になってしまった責任は、あんただけのものじゃない…なぁ、チェルシースマイル…日本人として、七三一部隊の非道行為は恥ずべきものであり、おれは日本人としてあんたに謝りたい」


「有働…私を逃がせ」


 有働の心の揺らぎを感じ取ったのか、冷静さを取り戻しながらもチェルシースマイルは建物の外へ向かい少しずつ這いずってゆく。


「辛かっただろう…地獄だったろう…なぁ、劉水さんよ…」


 有働はチェルシースマイルに付き添うように彼の向かう先へ一緒に歩いてゆく。


「だが、それとこれとは別だ…」


 有働は哀れな男の乱れた髪を鷲づかみにし、建物の外へと引きずり出した。


 煙を吹かす瓦礫の山。横転したチェルシースマイルの車。周囲に民家がないため消防車がやってくることもなかった。


 爆破で吹き抜けになった建物の中から女たちの呻き声が聞こえてくる。気絶していたダルマ女たちが目覚めたのだ。


「…俺を満足させろよ」


 有働はチェルシースマイルを仰向けにした。


「いい顔つきだ!君はまだ直接、人を殺したことがないだろう?見て分かるさ…さぁ、殺せ!殺して私と同類になれ!二度と戻れない道を彷徨え!」


 狂人は、有働の動揺を誘うかのようなセリフを吐いたあと、嗤った。


 そしてその目から涙の雫が流れた。この男は脳の一部を損傷して感情が欠落しているはずではないのか、と有働は考えた。痛みか。痛みのせいで肉体が涙を流させているのだろう。


「あう…ああぁ…」


 ダルマ女たちが顎と肩を使いながら這いずり、壊れた建物の中から、ひとり、またひとりと出てくる。彼女たちは日本語で何かを呟いていた。


「さぁ私を殺して、地獄へ落ちろ…さぁ、やれ」


 チェルシースマイルはそう言いながら、有働に心の変化はないかと伺っている。


「往生際が悪いぞ、おっさん。俺は心変わりなどしない。人はな…、一線を越えると残虐行為を楽しめるんだよ。あんただって、さんざん悪事を働いてきたろ」


 有働は右手でチェルシースマイルのスラックスを破り、刃が突き刺さったままの陰部が丸出しになる状態にした。


「やめろ…やめるんだ、有働…」


 陰茎は無事だが、陰嚢の中央にウイグル刀が突き刺さり、案の定、破裂している。


「今までやめてくれと言った人間を見逃したか?なぜ痛みを感じる身体をもちながら他人に拷問ができた。そいつらだって、今のあんたと同じように痛みを感じていたんだぞ。七十歳を超えて今日はいろいろ学ぶことが多いようだな、チェルシースマイル」


 陰嚢からウイグル刀を抜くと、鮮血が噴出した。


「ぎょぐえっ!」


 チェルシースマイルは激しい痛みで奇妙な声をあげて白目を剥き気絶した。有働はチェルシースマイルの睾丸に触れ状況確認をする。


「この悪運の強いクズめ。袋はズタズタだが、キンタマは二個とも無事らしいな」


 チェルシースマイルの陰嚢の傷口にウイグル刀の刃先を突き立て、一思いに縦に裂く。


 ぐじゅっという音とともに丸見えになった血まみれの精管と精巣上体――、いわゆる副睾丸。有働はこれを刀で切り離そうと考えた。


「まずは右から。キンタマを切り離すぞ」


 左肘でチェルシースマイルの腰を押さえつけ、左手で睾丸を握り、右手に握ったウイグル刀に力を込め、精管を切り離す。生命を繋ぐための生殖器官を切り離すのはかなり困難を極めた。


 人類の身体の構造は神秘であり、逞しい。管自体は細いのだが、なにせゴムのように弾力があり、刃先が滑る。


 きゅごり、きゅごり、と刃先を何度も前後させることで、有働はなんとか右精管を切断し終えた。


 切り離された血まみれの右睾丸を、気絶中のチェルシースマイルの腹の上に置く。


「そして次は左。もう男じゃなくなるぞ」


「がはっ」


 痛みのあまり意識を戻したチェルシースマイルにそう言うと、有働は左の副睾丸と精管の中央部分をゴリゴリと切断した。二度目は一度目よりもうまくいくものだ、と有働の溜飲は下がる。


「や、やめ」


「さぁ、もうすぐだ」


 チェルシースマイルは狂ったように身体を痙攣させ、ばたついた。有働の顔に血飛沫が降りかかる。


 ぶつん、という鈍い音とともに最後の睾丸がチェルシースマイルの肉体から切り離される。


「ぎょぐえぇいっひっ、ぎょびえあんぎゃぁあ!」


 クリーム色の二つのちっぽけな塊。


 子宮と双極をなす生命の源のうちの一つ。睾丸。精巣。人類の喜びの源であり、また女性を悲しませる暴力の材料としても使われる。


 切り離された左睾丸は往生際悪く痙攣し、精管からは血液が噴出。それを取り出した有働の右手は血まみれになった。


 最初に切り離した右睾丸も拾い上げ、左右二つの睾丸が有働の掌中に収まった。


「これを…食え」


 有働はチェルシースマイルの顔面に左肘をめりこませ、まずは一つ目の睾丸を口の中に押し込もうとした。


「うぶぶぶ」


 チェルシースマイルは口を固く結び、泣きながら首を振る。


「食え!」


 有働の恫喝。


「ぐんむむむ」


 泣き喚くチェルシースマイルをめざし、無数のダルマ女が呻きながら這ってくる。


「なら無理やりにでも食わせてる」


 有働は切断した睾丸二つをいったん地面へ置き、瓦解した建物のコンクリート破片のうち、一番重量のあるものを右手で拾い上げた。


「顎を砕くぞ」


 チェルシースマイルの下顎に、それを思い切り振り下ろす。


 鈍い音。


「ぐぎゃあれいひぃっ、ががんががっ」


 幸い、チェルシースマイルの下顎は軽量チタンではなかった。


「はひっ、はひっ、はしっいい」


 最初はパンチを食らったボクサー程度のダメージ。


 鈍い音。鈍い音。鈍い音。


 二度、三度、四度目から下顎の形は崩れ、骨は砕け、歯はすべて欠け落ち、だらんと口を大きくあけた。


「はうわわわがぁ…あひぃ」


 鈍い音。鈍い音。鈍い音。


「あぎゃはっ、ではがっ」


 鈍い音。鈍い音。鈍い音。


「あひゃがが…がが、がひゃ…」


 壊れた腹話術人形のように、チェルシースマイルの下顎は完全に失われていた。


 ごぼごぼと血が噴出し、呼吸することも困難なほどの重症。だがグルメなこの男にはこれくらいがちょうどいい。


「口が裂けてるくせにこんな大口あけやがって、欲張りだな。この大喰らいが」


 有働は泣きながら痙攣し、意味もなく夜空を見つめるチェルシースマイルの口の中に、血まみれの右の睾丸を押し込んだ。


「んぎょぼごっぐえっ」


「食えよ、世界に二つしかない貴重品だぞ。この食材を手に入れるため俺がどれだけ苦労したか理解して食ってくれ」


 そして咀嚼できないこの男に代わり、右手人差し指を使って喉の奥までそれを押し込んでやった。


「ぐぶんむっ、んぐんぬぶぅ」


「まだもう一つあるぞ。お替りか?この食いしん坊が」


 いつの間にか、腹の膨れ上がったダルマ女たちが有働たちを取り囲み、目をギラギラさせ無表情で成り行きを見守っていた。


-------------------------


「内木は十七歳で死んだ。これからお前の身体を十七等分に切り刻んで殺してやる…内木の、おれのダチが生きた年数分の痛みを思い知れ、クズ野郎」


 そう宣言したのち、有働はチェルシースマイルの左右の指をすべて切り落とし、一本ずつ無理やり食わせた。


 8月15日(土)

 00時00分――。


「すべての指がなくなっちまったな。これじゃあジャンケンもできねぇ」


 顔も戦闘服も血に汚れた有働は、嗤いながら友人の仇をなぶる。


「あがが…ぎぇへぇ…」


 あと七等分。左右の腕と足、陰茎、鼻、そして最後に首を切断すれば終了だ。


「今度は左腕だ。肩から切り落としてやる。しっかり耐えろよ」


 スーツとシャツを剥ぎ取られたチェルシースマイルの左肩を押さえつけ、ウイグル刀を食い込ませる。


「ぎゃんむむぐむぅいやぁ」


 その時だった。


 有働の戦闘服の胸元内ポケットのスマホが振動した。


「なんて時にスマホが鳴りやがる…くそっ」


 有働はスマホを操作する。応援部隊の人民解放軍たちからの連絡の可能性もあるからだ。


 画面に着信の文字はない。通信アプリの表示が「1」とだけ出ていた。


 有働は無言でそれを開く。


 通信アプリのメッセージ受信ということで、人民解放軍らからの連絡という可能性は消えたが、誉田からの連絡かもしれないと有働は思った。


 チェルシースマイルはここで絶命しかけている。日本に散ったという不死兵士たちに小喜田内市襲撃の指示を出せないはずだ。


 もう心配しなくて良いと誉田に伝える必要があるだろうと思いながら、有働はスマホを操作し、メッセージを開く。


 ワーク様、お誕生日おめでとうございます!


 当アプリのお誕生日メッセージシステムは、お誕生日当日の日付が変わった0時にお届けしております。


 ご友人「ウチキング様」よりお祝いのメッセージが届いております。


 そんな画面が表示されていた。


「うそだろ…」


 ワーク――、通信アプリ上での有働のニックネーム。


 ウチキング――、いつか内木が書いていた漫画のヒーローの名前。内木の通信アプリ上のニックネームだった。


 有働は今日が自分の誕生日だと思い出す。


「これは…内木からのメッセージだ」


 震える手で、タッチパネルの開封ボタンをクリックする。


「お誕生日おめでとう☆有働くん(^▼^)いま僕はこれを臨海学校のバスの中で打ち込んでいます。誕生日の日付が変わったときにメッセージが届くらしいんだけど、ちゃんと届いてるかな?あと僕が選んだ腕時計は届いてるかな?あ、今日のお昼に届くのか。プレゼントねたばれしちゃったね、ごめん(^▼^)僕は今でも、有働くんが僕の部屋に遊びに来たときの言葉を今でも覚えてるよ☆去年の秋だったよね――生きていくなら、誰かにありがとう、って言ってもらえる人間になりたいって思うようになったんだ。困ってる人を助けて、苦痛や不安から救ってあげたい。だから俺…お前が言うようにヒーローになりたいと思うんだ――って。僕はあの言葉にすごく感動したんだ(^▼^)有働くん、あれから色んな事件に巻き込まれて大変だったよね。こんな僕に協力できることなんて、たかが知れてるけど有働くん、これからも僕の、みんなのヒーローでいてください。いつも弱者の味方。世界を救うヒーロー。ぼくは死ぬまでずっと有働くんのファンクラブ第一号だよ」


「ち…ちがう…」


 吐き気に耐えられず、有働は瓦礫の上に嘔吐した。


 背筋に寒気が走る。


 地震でもないのに世界が揺れる。


 宜野湾でバスが爆発する数分前の出来事を、有働は思い出した――。


 水難救助訓練を終えたあと、右列の最前列、窓側の席に座った内木は丸い肩を揺らし、スマホに何かを打ち込んでいた。


 腕時計をショッピングカートに入れながら、内木はこんなことをしていたのだ。内木は芸能ニュースとプライベートのブログを毎日更新するマメなやつだった。そりゃそうだ、あいつがプレゼントを渡すだけでは終わるはずがない。


 これは内木からの最後のメッセージなのだ。有働はすべてを理解した。


「俺は…」


 鈍い月明かりがチェルシースマイルと有働を照らし出していた。ダルマ女たちの呻き声。早く拷問の続きをしろと、手足のない日本人妊婦たちは有働を詰った。


「俺はニセモノなんだ…」


 有働の頬を涙がつたう。


 ふと、瓦礫に立てかかった窓ガラスの大きな破片が、暗闇に浮かぶ有働自身とチェルシースマイルを映し出していることに気づく。


 有働は憎むべき男に馬乗りになって、身体中を切り刻んでいる。月明かりは静かに真実をガラスに浮かび上がらせていた。


「ヒーローなんかじゃない…ちがうんだ、内木」


「…ころひぇ、ころひゅんだ、うひょう」


 下顎のないチェルシースマイルが大粒の涙をこぼしながら殺してくれと懇願する。ダルマ女たちがうなり声をあげる。有働は嗚咽を始めた。


「俺は、自分のことしか考えない偽善者だ」


 こんな、こんなはずじゃなかった。


「内木…お前を助けたのだって、俺が得をするためだった…」


 俺はバスで年寄りに席を譲ることさえ躊躇う男だった。人を助けるのも、悪を懲らしめるのも、すべて自分のエゴだった。正義とはなにか。そんなことを考えたことは一度もない。俺はやりたいように、やって自己満足していただけなんだ。だから内木、そんな風に俺をヒーローだと言わないでくれ。


 内木…俺はお前が思うような人間などではないのだ。


 有働は震えながら嗚咽した。


 だが「俺は違うんだ、ヒーローじゃないんだ」と訂正したくても、内木はもうこの世界に存在しない。


「ころひぇええ!」


 叫ぶチェルシースマイルの胸元で、スマホが振動した。


「まだ何かあるっていうのか。あんたのスマホをみるぞ」


 有働は何気なく、チェルシースマイルの胸ポケットからスマホをつまみ出す。


 そして受信メールのプッシュ通知を確認し、その内容を読んだ――。


「劉さん。他の十名と合流しました。計二十名で小喜田内市に向かいます。リストにあるやつらの寝込みを襲って皆殺しにしますから、懸賞金のほう、ちゃんと払ってくださいよ」


 文章は中国語で、差出人はピンク、とあった。


 チェルシースマイルは不死兵士たちにすでに小喜田内市襲撃の命令を下していたのだ。


「そうか…分かったよ、内木。お前の最後のメッセージ」


 有働は立ち上がり、感覚のなくなった左腕をぶらぶらさせながら歩き始める。ダルマ女たちがうなる。


「どひょへ、いくんひゃ!!!」


 下顎を無くしたチェルシースマイルは叫んだ。


「俺は戦う…」


 有働は振り向きもせずに言った。


 内木に、俺がヒーローではないと訂正できないならば、なればいいのだ。内木の最後のメッセージに報いるために。内木に恥じない自分になれるように。


 たとえそれが偽善であろうと、命ある限り精一杯それを演じればいい。


 たとえこの先、世界を破滅させようとする連中が現れたら、ヒーローである俺がそれを叩き潰せばいい。


「俺は戦うんだ。あんたのスマホはもらっていくぞ」


 世界を救えといわれたなら、世界七十億の命だって救ってやる。俺の命を賭けて、自分のもてるすべてを出しきって。


 有働の最後の決意に揺らぎはなかった。


「ひょひょまひぇの、ひょひょを、ひひょいへ、ひょおひゃないのひゃ!!!!うひょう!!!」


 ここまでのことをしておいて、殺さないのか、有働。


 そうチェルシースマイルは叫ぶ。


「その出血ではお前はもう長くはもたない。運よく助かっても駆けつけた兵士たちによって拘束され、死刑にされるだろう」


「うひょう!!」


 泣き声まじりの懇願。チェルシースマイルは子供のように泣き始める。感情のない男が理由のない恐怖と絶望で錯乱していた。


 有働はどこかの脳科学者がいっていた言葉を思い出す。脳は部分的に失われても、機能回復のため少しずつ他の部位がその箇所の代用となる、と。


「俺はお前が蒔いた種を刈り取る。そしてやがて訪れる世界の終焉とやらも阻止する。その時、俺はお前に勝利する。内木はお前に勝利するんだ」


 振り返り、哀れな男を睨む。


「まひぇえええ!!」


「お兄さん、まってよ!」


 有働が去ろうとしたその時、ダルマ女たち数十名のうち、さきほどドーベルマンに犯され笑っていた女が有働に向かって叫んだ。


「あたしたち、こいつを殺すけど、いいよね…こいつを殺すために、狂ったふりしながら毎日毎日、あの部屋のコンクリートの壁で歯を削ってきたんだ。あたしらにとって武器はこれしかないからねぇ」


 女は白内障にかかっているのか、銀色に鈍く輝く瞳を有働に向けてきた。音だけを頼りにここまで這ってきたのだ。


 そして彼女の口元――、鮫のように尖った歯が並んでいた。


 周囲のダルマ女たちも似たような歯をもっている。チェルシースマイルに孕まされスイカのように膨れ上がった腹を地面につけながら、全裸のダルマ女たちは仇敵を取り囲んだ。


 ダルマ女のひとりが、破裂した陰嚢に未練たらしくぶら下がる陰茎を口に含み噛み千切ろうとする。別のダルマ女はその首筋に、眼球に、手首に噛み付く。


「いやべてゆげぇ!!!」


 チェルシースマイルの絶叫。


「好きにしてくれ」


 有働は彼女たちに背を向けた。やがて他軍区からの応援である装甲車がやってきたが、有働は両手を振って彼らを止めた。


「もう終わりだ。数時間してから遺体を回収してくれ」


 兵士たちは目を丸くし、頷いた。


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「オブライアン…頼みがある。一刻を争うんだ」


 有働は米合衆国大統領エイブラハム・オブライアンに国際電話をかける。


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 バベルの塔――。


 それは旧約聖書「創世記」十一章に登場する。


 かつて箱舟をつくり多くの生物を救済した男――、ノアの意思を受け継ぐべく「全人類が一つの場所で共存、繁栄するように」との願いを込め、彼の息子たちが建造した巨塔である。


 だが、その天にも届く高さに、神は怒り狂ったという。


 神は、不遜な人類が一つの場所で結託し、いずれ自分に挑まぬよう、バベルの塔を破壊した。


 さらに、全人類が再び一つにならぬよう、言語を分断するという制裁も加え、ようやくその怒りを鎮めた。


 分断された言語により、民族がうまれ、国がうまれ、様々な文化、思想、軋轢を生み出し、バベルの塔を去っていった人類が分かり合うことは永久になくなった。


-------------------------


 米合衆国・某所――。


 広大な不毛地帯が広がるこの地で、天空を突き刺すような巨塔がある。


 百五十階立て、地上九百メートル。


 この世界一の高層ビルは「新バベルの塔」と呼ばれている。


 最上階に君臨する男の名は、ガブリエル・ホワイト――。


 米国最大手軍事企業のアウグスティン社のCEO、マイケル・ホワイトの実兄であり、会員数五千万人を擁する新興宗教「ノアの救世会」の教祖である。


-------------------------


 8月15日(土)


 新バベルの塔、百階――。


 無機質な部屋で呼吸器に繋がれた老人がいた。心電図の電子音だけが彼の生命活動を証明している。


 彼のベッドを取り囲むようにして並べられたアメコミの正義のヒーローフィギュア。その数は千体はくだらない。


 男の名は、ラファエル・ホワイト。


 アウグスティン社の前CEOであり、脳梗塞が原因で長い間こん睡状態にある。


 ラファエルを見つめる巨躯の男がいた。


 青いガラス玉の瞳に金と黒のツートーンの短髪。両手にはごつごつしたゴールドの指輪がはめ込まれていて、いつでも人を殴り殺せる状態にある。


「オヤジ。ダニエル・ゴッドスピードの爺がついに死んだようだ。大物フィクサーの一人が死んだことで、世界はあの隕石をめぐってさらに揉めるだろうな」


 彼の二人目の息子マイケル・ホワイト――、ドールアイズの問いかけに対する答えはなかった。


 室内に沈黙が流れ続ける。


 死臭を隠すかのような色とりどりの花束の芳香。


「オフクロを自殺に追いやったあんたを、俺は一生許さねぇ」


 屍のような老人の生命維持装置に手をかけようとするが、手を止めた。


「俺が世界一の悪役(ヴィラン)になるまで、あんたを生かし続けておいてやる」


 ドールアイズは部屋を去り、灯りを消した。


 暗闇で、呼吸音と心電図の電子音だけが鳴り響く。


-------------------------


 新バベルの塔、五十階――。


 権堂辰哉はトレーニングルームで汗をかいていた。


 暖色に照らされた黒を基調とした広大な室内に、最高レベルの設備。権堂はランニングマシーンを三時間ぶりにとめ、汗を拭う。


 鏡張りの向こうには、ドールアイズによって引き抜かれた世界中の格闘家たちがスパーリングを繰り広げている。


 ソーシャルトレーナーをつけてやろうか、とドールアイズに言われたが、権堂はそれを断った。自分の身体のことは自分が一番よく分かっているからだ。


 この場所に招き入れられて一ヶ月と少し。


 権堂は、CIAのシンシア・ディズリーの仲介で米合衆国高官らと極秘で対面し、「ノアの救世会」本部である新バベルの塔に潜入。ここでドールアイズによる野望を阻止する糸口を探していたがうまくいかなかった。


 ドールアイズの野望――、それは小型核爆弾を収納した宇宙兵器「神の杖」によって人類の三分の二を殺戮し、三分の一にあたる三十三億人を救済する「ヨハネ黙示録」の再現である。


 この新バベルの塔は「ノアの救世会」が、救済する三十三億の人類を放射能に汚染された地上から保護するための箱舟であり、彼らを一つの場所で共存、繁栄させるためのバベルの塔といえ、広大な地下シェルターへの入り口となっている。


 救済されるべく三十三億人の選定基準は以下の通り。


 宗教宗派は問わないが、神を信じるもので「ノアの救世会」に改宗できる柔軟な思考をもつもの。知能指数は百以上で遺伝的疾患のないもの。過去に一度も微細な犯罪歴すらないもの。同性愛者でないもの。生殖機能に問題がないもの。またその他の不道徳行為を行わないもの、などである。


 ドールアイズは各国政府の「協力者たち」を動かし、いつか来る「審判の日」に向けて世界中の人々の思想調査を進めているという。


「お前も飽きねぇな」


 権堂がミネラルウォーターを飲んでいるとドールアイズがやってきて、権堂の身体中を義眼のサーモグラフィで精査する。


「ほざけ。俺はタダならいくらでも、ここにいるぜ」


 権堂は粗野な風貌に似つかわしくない歯並びで笑った。


「図々しい客人だ。だが日本人らしからぬところが気に入ってるぞ」


 ドールアイズも相好を崩した。両者の関係は良好といえる。権堂は親友とまではいわないが、この異常者の懐に潜るところまでは成功していた。


「そういえば、ここの教祖であるお前の兄貴…ガブリエルにまだ会わせてもらってないな」


「兄貴はヘロイン漬けでまともに喋れねぇ。ここ最近は、顔を兄貴そっくりに整形させた代役に礼拝堂での説教を頼んでいる」


 ドールアイズは天を仰ぐ。


「とんだ救世主様だな」


 権堂は空のペットボトルを五メートル先にある大口のゴミ箱へシュートした。


「信仰のねぇ人間でこの塔に足を踏み入れられる人間は限られている…なぁ、権堂よ。気持ちは決まったか」


「ノアの救世会幹部として、お前の右腕になるって話か」


「そこでスパーリングしてる連中は、もうじき開催されるトーナメントでベスト10に入らねば、新バベルの塔での居住が認められねぇ。それも全世界の高名な格闘家五百人中のベスト10だ。お前はそれをせずここに永住できるんだ。悪くねぇだろ」


 それを聞かされた権堂はふん、と鼻を鳴らす。


「俺はそこじゃ勝ちあがれないとでもいうのか」


「そうじゃねぇよ、権堂。お前は強いし頭がきれる。それに俺と思考がどこか似通っている。俺を地下ファイトクラブで倒した唯一の男だっていうのも得点が高い。自分で言うのもあれだが、俺はティーン時代以降、誰かにぶっ倒された経験が一切ないんだ」


「ああ。たしかにあの地下ファイトクラブで、軍人や格闘技世界チャンピオンでさえ、お前を倒せなかったらしいな。対戦相手がお前に気を遣ったわけではなく、またお前自身も対戦相手を選んでいない。俺が街に繰り出した際、色んな場所でその武勇伝を聞いているから、お前がホラを吹いていないのは分かる。俺はそんな噂を聞くたびに、お前をノックアウトした自分に誇りが持てたぜ」


 権堂は、右拳を天井に突き上げる仕草をした。


「俺は三度以上、同じ提案はしねぇ主義だ。これが最後の口説きだと理解してくれ、権堂。俺はお前に、俺の分身として働いてほしい…」


 ドールアイズは照れくさそうに言葉を続けた。


「…俺が神の杖を使い、この世界の三分の二を殺すとき、お前はその三分の一になれるんだぞ。地上が放射能で汚染され生物が息絶える中、この新バベルの塔で、そしてこの塔の地下に広がる広大な世界で、選ばれた三十三億人のうちの一人として生き続けられるんだ」


「それは、うちのお袋やダチも含めてか」


 権堂は心が揺らいだふりをする。これまで頑なにドールアイズの誘いを拒んできた手前、提案を受け入れるには段階が必要だった。


「ああ、日本人枠としてお前の周囲の人間を優先させてやる。俺は現在、全世界からあらゆるデータを抽出し、ここに招く三十三億人を選出中だが、お前の周囲にいる百人、二百人、いや五百人だろうが、そいつら全員その中に組み込んでやれる」


「そうか。たしかに俺がお前に逆らったところで、お袋や俺のダチは無駄死にするだけだ。俺はお前をノックアウトできても、お前からその義眼と神の杖を奪うことはできない…思うところはあるが、承諾しよう。お前の右腕になってやる」


 演技とはいえ、本心でもあった。権堂とて人間だ。神の杖による最悪の事態を防ぐことが最優先ではあるが、もしもなす術がない状況でこの提案をされたら、同じセリフを吐き、家族と友人の命を優先させただろう。


「権堂。お前は合理的だ。非常にな」


 二人は握手した。


「他の奴らには悪いが、俺は家族とダチを救えるなら何でもする」


 偽りの契約ではあるが、権堂は自分のセリフに吐き気がした。


-------------------------


「うちの女秘書だ。こいつは権堂辰哉。俺の相棒だ」


 トレーニングルームを出たエレベーターホール前で金髪の女とすれ違い、ドールアイズに紹介された。


「シャーロット・デイヴィスです。はじめまして権堂さま」


 女はにこりと微笑む。


「ああ、はじめまして」


 権堂は演技を続ける。


「何か欲しいものがあればそいつに言ってくれ。すぐに手に入る」


 何も知らないドールアイズは言った。


 権堂はシャーロット・デイヴィスと初対面などではない。


 彼女の本名は、CIAに所属するシンシア・ディズリー。彼女は亡き姉の恋人であったドールアイズを止めるため、偽名と偽りの経歴で「アウグスティン社」および「ノアの救世会」に潜り込んでいる。


 架空の人物、シャーロット・デイヴィスの経歴は、ドールアイズによる彼女の個人情報調査をすり抜けられるほどに完璧だった。米合衆国もCIAそれだけ本気であるということだ。


 イニシャルが同じなのはご愛嬌。


 シンシア・ディズリーは整形し、姉のアリシア・ディズリーの面影を残しつつ、シャーロット・デイヴィスを演じている。


 数年前、面接に来た彼女にかつての恋人の面影を見たドールアイズは、即採用し、傍に置くようになったという。そして自身が必要以上に彼女に入れ込まぬよう、他の男と寝るように仕向けた。


 ドールアイズは人を愛することを恐れている。失う絶望を回避するために。


「姉さんが生きていたころ、幼い私と会っているにも関わらず、マイケル…ドールアイズは、まったく私の正体に気づいていない。でも確実なのは、私に執着し始めているってこと。失う恐怖を深く植えつけることで、私が神の杖による殺戮を止められるかもしれない。でも、保険のひとつだと思う程度にしておいて。ミスター権堂、貴方もあなたでドールアイズの義眼を奪うタイミングを伺ってほしいの」


 シンシアは言った。


 権堂は頭を掻くしかできなかったが、こうして今もドールアイズの隙を伺っている。なんとか相棒に認定されたはいいが、この男を組み倒し一秒かそこらで二つの義眼を抉り取るのは至難の業といえる。


 自らに危機が及んだとき、義眼を数秒間、ある一定のリズムで動かせば、それが脳内チップに暗号として伝わり、頭の中で自動的に爆発し、ドールアイズは自殺できる。


 ドールアイズが死ねば、その義眼を通して心拍数モニターが管制衛星に転送され、脈拍ゼロと認識した神の杖のプログラムが全起動、世界は核の炎に包まれてしまう。


 自分の欲望を満たせない位なら全世界と心中覚悟というサイコ野郎を前に、権堂の試練の時間は続いた。


-------------------------


 新バベルの塔、最上階――。


 五千万人の「ノアの救世会」信者たちに神殿と呼ばれる広大な空間。


 天井、壁ともに白を基調としていて、天井中央にはノアの箱舟をイメージした巨大なステンドグラスがはめ込まれている。


 左右、後方の壁を取り囲むようにして、ドールアイズの母親ジュディス・ホワイトと、恋人だったアリシア・ディズリーの銅像が様々なポーズで立ち並ぶ異様な光景。


 床一面は大理石でできたチェスの盤面を思わせる幾何学模様。ヴェルサイユ宮殿の列柱回廊を思わせる荘厳な造り。


 突き当たり前方の壁には、NASA顔負けの巨大衛星モニターが設置されている。


 宇宙科学と神話を融合させた矛盾の世界。未来と遺物の混合。愚者の妄想を大金にものをいわせて実現させた滑稽なデザイン。オモチャ箱。様々な表現ができそうな場所だった。


 教祖のガブリエル・ホワイトはヘロイン漬けで、モニター前の椅子でぐったりしている。自分ひとりでいるときはモニター一面にポルノ映画を流しっぱなしにして自慰行為に耽る。売春婦を呼ぶのはドールアイズに禁止されているため唯一の発散方法といえた。


 ガブリエルは五十代手前だが、薬物の影響で六十代にも見えた。


「中国でクーデターが起きたらしい。首謀者は一部の情報で日本人だと聞かされているが詳しい情報はまだ未確認だ」


 ドールアイズはガブリエルの鼾を無視して、モニターを操作する。中華人民共和国の天安門前の六十万のデモ隊が映し出された。


「どこのどいつか知らんがやってくれたな。これで一件落着か」


 権堂は鼻を鳴らす。


 ドールアイズの「神の杖」ほどでないにせよ、不安要素の一つであった中華人民共和国の野望「不死研究(プロジェクト・イブ)」とやらを砕いた誰かに、権堂は感謝した。世界が崩壊する要因は一つでも減ってくれたほうがいい。


「いいや」


 ドールアイズはにべもなく言った。


「俺の打ち上げた衛星が、複数の隕石の急接近を感知している」


「なんだと」


 ドールアイズは無言で巨大衛星モニターを操作した。


 太陽を中心にした円の中に地球を含む太陽系惑星の公転を示す映像が映し出され、そこに隕石の接近を報せる白い点滅が現れる。


 映像は倍速になり、隕石が地球に突入する予測シュミレーション映像に変わった。一つ、二つ、三つ…まるでタイミングを見計らったかのように白い点滅は「地球(アース)」と英語表記された場所に吸い込まれてゆく。


「見てのとおり、近いうちにいくつかが地球に落下する。もしかすると梅島に落ちたものと同じ隕石かもしれねぇな。だとしたら大気圏で燃え尽きるようなヤワな隕石じゃねぇぞ」


「どこに落ちるんだ」


「精密に軌道と隕石衝突のタイミングを計算したところ、隕石が落下するのは太平洋でもなく大西洋でもねぇ、大陸のどこかである可能性が高いと出た。これは俺の妄想だが、世界中の国境や紛争地域、内戦地域に落ちたら面白いことになるよな。しかも均等じゃ面白くねぇ。話し合いで解決して互いに同じもん分け合って終わりだからな。核兵器みたいによ。だけど、うまい具合に世界が混乱する場所に落ちたら面白くねぇか?」


 他人事のように言うドールアイズ。


「うそだろ」


 権堂は震え始めた。


「かくいう俺もこんな冗談をいってる場合じゃねぇ。俺が手をくださぬうちに、世界は終焉を迎えるかもしれねぇからな。それじゃ意味がない。俺が神の杖を使う日を急がなければならないかもしれん」


 ドールアイズは権堂の肩を叩き、去っていった。


 権堂の震えはおさまらない。絶望のカードが世界に配られ始めたのだ。権堂の母はクリスチャンだった。旧約聖書の内容を話してくれたこともある。


 人類はバベルの塔を神から追われ、言語を分断され、一つの場所からバラバラに散っていったという。


 民族、国家、文化、思想を分断された七十億の人類が、地下資源、領土領海問題など、些細な紛争問題に揺れる世界が、神からの贈り物を受け取ったとき、どのような選択をするのだろうか。


 祝福という名の呪詛か。進化という名の退化か。希望という名の絶望か。


 世界は一つになる準備などしていない。言葉の壁が取り払われつつある近代ですら、人類は殺し合いにとりつかれておる。「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」の格言どおり平和は戦争という喜劇の幕間でしかないのだ。


 人類が、数年、数十年、数百年先まで滅びないと誰が断言できる。形あるものはいつか滅びる運命にあると歴史と自然科学が証明している。


 とうとう世界の終焉がやってきた。その瞬間が今というだけのことだ。震えながら権堂はそう確信した。

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