第15話 このままじゃ1000人が死ぬよ

 往訪のラブホテル「インソムニア」


 お互いの衣類や荷物をバスルーム一箇所に集め、有働とエミは一糸纏わぬ姿のまま、ベッドをはさむ形で向き合っていた。


「考えたな。お互いに裸になれば、会話の録音はもちろん、カメラや盗聴器を仕込む事もできない」


 室内調光を薄暗がりにしていたものの、有働はエミの方を向かず、天井を眺めながら言った。


「なんでこっち見てくれないのよう。恥ずかしいの?女の子の裸みたのはじめて?」


 エミがベッドに倒れこみ、有働を見上げるようにして言った。莉那とはまた違った種類の甘い香りが鼻腔をくすぐる。


「そんな事より、あの3人組はどうなった?」


 有働は前を隠そうか迷ったが、今さら隠すのも妙な空気になりそうで、直立のままだった。


「もう、お空の上だよう」


 エミは有働の腹筋を見つめているようだった。


「まさか、殺したのか?」


「うん。だってさ、あの3人は、2桁の強姦事件と、数件の殺人に関わってたよ」


「だから殺したのか?」


 有働は頭を掻き毟った。(裸で話し合おうと段取りをしたり、あの路地裏での態度を見て、薄々感づいてはいたが、やはりこの女は異常者だ。不破勇太と同じ種類の人間だ)そう思った。


「悪人の命なんて価値がないもん。もうひとり仲間がいたんだけど4人とも、もうお空の上だよう」


 ベッドの上で折り曲げた左右の足を前後にパタパタさせながら、エミは悪びれもせず、犯罪告白をした。


「警察に追われるのはお前だぞ」


「年間あたり行方不明者、事故死、自殺…どれだけいると思う?」


 エミは有働の腹筋を見つめながら、他人事のように返す。


「遺体を調べれば事故か自殺か、他殺なのか分かる」


「検視ってやつ?その辺の根回しは、パパがK県警と仲良しだからうまくやってくれるの。殺す場所はいつも県内だし」


 そう言いながら、エミが手を伸ばす。


 人差し指が有働の左わき腹に触れた。長い睫毛で縁取られた猫のように大きな目が、興味ありげに傷跡を凝視していた。


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「それはそうと…直視してないとは言え、裸の女の子がそばにいるんだよう?全く反応がないって、どういうワケ?反応させてあげようか?」


 ようやく有働は、エミに視線を向けた。


 全裸ではあるものの、ベッドに倒れこんでるため、重要な部分は見えないと判断したのだ。エミの引き締まったウエストと、形の良い臀部は丸見えだったが、芸術的なラインはいやらしさを通り越して、陶器のようだった。


「女の子としてカウントしていない。お前の裸は、道端のエロ本と同じだ」


 ふんと鼻を鳴らし(それに殺人者だしな)という言葉を呑み込んだ。なかば脅迫されて、ここまで連れて来られた怒りと屈辱が、今も腹の底で滾っている。


「高校生だったら道端のエロ本にすら反応するのが常識でしょ?」


 エミが頬を膨らます。あどけない少女のような仕草を前に憎悪の火種は萎えていく。(なんだよ、この女は)有働は溜息を漏らした。


「変な動画を送りつけてくるババァが知り合いにいるんだが、そういった変態女の裸には価値がない」


 先週送られてきた、りんこの動画を思い出し、寒気を堪えて有働は言った。


「そのババァ…おばさんは有働くんのことが好きなんじゃないの」


 エミの声色が低く、粘着質なものへと変わる。


「ただの変態だろ」


 勘弁してくれよ。天を仰ぐようにして有働は言った。


「好きな人の前では誰だって変態になるよう」


 有働の左わき腹に滑った感触があった。塞がったばかりの傷の箇所だった。わ!と驚き見た先―。


 唾液で光っていた。


 傷跡から、糸をひくようにしてエミの舌先が離れていった。


「うふふ」


 エミは子供のように笑っていた。


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「このお腹の傷」


 玩具に興味を示した幼女のような声でエミが言う。


「お前、今なにやった」


「毒殺の犯人にわざと刺されたんでしょ?一歩間違えたら、死ぬとこだったんだよ。なぜそこまでしたの?」


 有働の問いかけには答えず、エミは質問を繰り出した。


「なんでなの?」


 その大きな瞳には、うっすら涙が滲んでいる。有働は答えに詰まった。


「その選択が最善だったからだ」


 有働の返答に、数秒間の沈黙が流れる。


「きっとエミと同じだね。エミもね、時々、死んじゃってもいいやって思うときがあるよ」


 どう解釈したのか分からないが、エミなりに納得し、頷いていた。

 その頬に落涙の筋がある。薄暗がりで有働に見えないと思っているのかもしれない。有働は再び視線を天井へと向けた。


「お前は何なんだ?」


 心のまま、言葉にした。エミはベッドから身体を起こし、有働の立っている側へと立った。


「有働くん、こっちみて」


 誘うような声色ではない。からかっているようでもない。何かを覚悟したような響きがあった。


「ふざけるな」


 エミの甘い香りが濃密になる。そんな距離で有働はたじろいだ。


「いいからみて」


 声に有無を言わさぬ響きがあった。


 思わず一糸纏わぬエミの姿を見た。張りのある乳房から腰、太股にかけての芸術的な曲線。


 だが、有働の目に飛び込んだのは想像を絶する現実だった。


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 エミの裸体には無数の傷があった。


 その傷の数々が、事故によるものではなく、作為的につけられたものであると判断するのに時間はかからなかった。


 首筋から鎖骨、乳房にかけての傷は執拗に集中してあり、続けて腰まわりから太股にかけても傷があった。


 傷―。鋭利な刃物でつけられたものに違いなかった。

 直線と直線で、文字が刻まれている。

 文字―。誰か男の個人名。卑猥な単語。ふざけて書いたラクガキのように意味のない文字の羅列。


 他にもぐるりと円を描き、女性器をあらわす卑猥な記号が腹部に刻まれていたり、何かアニメのキャラクターの顔を途中まで刻んで止めた形跡があったり、エミの身体は無秩序な落書きのキャンバスにされていた。


「誰だ」


 自傷行為によるものではないのは明白だった。誰か第三者が、暴力をもって、裸の彼女にこうした仕打ちをしたのが、まざまざと浮かび上がった。


「誰が…」


 有働は言った。


「パパがアニメ会社の社長でね、中学2年生の時、エミをモデルにしたアニメを作ってくれたの。それが魔法ガール★マジックえみりんなんだけど…知ってるかな?」


「ああ。俺のダチの内木ってやつが観てるよ」


 有働は、握り締めた手のひらに血が滲むのを感じた。


「そのアニメに異常なくらいハマり込んだ一人の変態に、拉致されて2週間、オモチャを壊すように色々されたの。この傷が、一番最初の傷」


 エミは左右の乳輪の周囲をぐるりと抉ったような傷跡を指差して言った。


「おかしなもので、最初の傷以外はどんな時に、どんな風につけられたか覚えてないの。幸運だったのが中学2年で初潮がまだだったから、妊娠しなかったことくらいかな」


 どこか他人事だった。エミの大きな瞳は乾いていた。先ほど、有働の傷跡に涙していたエミは、そこにはいなかった。


「その日会った男の前で裸になるのはもう、やめろ」


 有働は太い息を吐いて言った。


「さっきは悪かったな…お前は道端のエロ本なんかじゃない。撤回する」


 バスタオルをエミに渡す。エミはそれを不思議そうな顔で受け取ると、ただ、握り締めていた。


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「優しいね」


 エミの唇が、有働の耳元で言葉を紡ぎだす。


「エミを抱いて」


 だだをこねるように言った。


「経験がないならエミが教えるから」


 エミはすべてを見透かしていた。


「好きな子がいるんだ。別に付き合ってるわけじゃないんだけど…そういう相手がいるのに、そういう事はできない」


 有働は答えた。エミに対して、いつの間にか言葉に棘がなくなっていた。


「有働くんにそういう相手がいるの知ってたよ。エミ…最低でしょ」


 エミが背を向けてベッドに入る。


「どうすればいいの…たすけて」


 エミは枕に顔を押し付けて、シーツを被り、そう呟いた。


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「もう帰る」


 有働は言った。


 バスルームに放り込んだ制服。エミの衣服や下着も一緒に入っていた。

 床にはお互いの鞄の中身がぶちまけられている。


 有働はシャツを羽織りながら、エミの言葉を反芻していた。


(悪人の命なんて価値がないもん)


(有働くんはエミときっと同じだね。エミもね、時々、死んじゃってもいいやって思うときがあるよ)


(どうすればいいの…たすけて)


 時折、エミの嗚咽が聞こえてくる。

 それ以外、ベッドルームは静寂に包まれていた。


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 エミは泣いていた。有働に聞こえないように声を押し殺して泣いていた。


「なぁ。お前が望むならば、だけど」


「なに」


 声が震えている。


「さっき、盗聴器や録音機がないかどうか、お互いの鞄の中身、見せ合っただろ」


「うん」


 洟を啜る音。

 エミは、たったひとり世界に取り残されていた。


「さっき見せてもらったろ…その、電動式のあれを」


「うん…」


 バスルームでのお互いの「持ち物チェック」の際、恥ずかしがるそぶりも見せず、エミは有働の前で起動してみせた。カレシがいないからたまに使うの。そう言っていた。


「お前が望むような事はできないけど。あれを持ったまま、スイッチを入れることくらいは…できる」


 有働はこの提案が良いものなのか、悪いものなのか判断し兼ねた。だが、エミをこのままひとり取り残すのはどうも躊躇われたのだ。


「ほんと?」


 エミはシーツから顔を出して、制服姿に電動式のあれを持ったままの有働を見つめた。涙で瞳が輝いている。


「その代わり…もう二度と殺すな」


「うん」


 子供のように素直な言葉が返ってきた。


「悪人の命の尊さを言ってるんじゃない」


「じゃあ、なに」


 先ほどまでの大胆さと打って変わって、エミは胸の位置までシーツを伸ばし、有働を見ていた。


「自分にしか守れないものをもっと大切にしろ」


「うん」


 声が涙で湿り始める。


「約束できるか」


「うん」


 エミは嗚咽していた。


「有働くん…有働くんが…エミのことを好きじゃなくても…ずっと大好き」


 有働は呆然と立ち尽くしていた。


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 12月23日。

 火曜日、祝日―。

 正午すぎ。


 有働は、エミの父、遠柴博識に呼ばれ刈間市内の健康ランドへ赴いた。

 健康ランド―。

 祝日にも関わらず、貸切状態だった。


(エミの父親が根回ししたのか)

 有働はがらがらの館内を見て思った。


 ホールスタッフは、エミの父親―遠柴に、深くお辞儀をしている。


「君が有働くんかぁ。エミから聞いたぞ!ヤらなかったそうだな!感心、感心」


 貸切の男性用サウナルームの更衣室で、遠柴が服を脱ぎながら言った。


「お・も・ちゃ・な・い・しょ」


 同じく服を脱ぎながら、エミの唇がそう動いた。有働はギクリとして遠柴を見たが、それには気づかず先にサウナルームへ入っていった。


 3人は裸になり、左から順に、有働、遠柴、エミと等間隔で檜の椅子に腰掛ける。


「おまけにエミにもう殺しはさせない約束をさせたそうじゃないか。こう見えて、この子はものすごく頑固でね。決意は固いみたいだ」


 遠柴の筋肉質な身体には、あちらこちら無数の深い切り傷や、銃創のようなものが刻まれていた。


「すいません」


 謝る必要はないものの、有働はとりあえず頭を下げた。


「娘というのは好きな男ができれば父親よりも、そちらに従う。仕方がないことだよ。寂しくはあるがね」


 遠柴は笑って答えた。

 人の命について語っている。しかし、この父娘にとっては来週の旅行計画を断念した程度のことでしかないのだろう。


「お父さんは、まだ殺したりないですか」


 有働は遠柴の左胸付近の銃創―致命傷からの生還の証を見つめて言った。遠柴はその視線に気づき、心臓のあたりを左手のコブシで叩くふりをして目を細めた。


「エミの母親は、エミを身ごもっている時に、飲酒運転のトラックに撥ねられてね…植物状態のまま、この子を出産したんだ」


 遠柴が遠い目で室内の湯気を眺める。


「エミという新しい命を授かったとき、私は妻の生命維持装置を外す決意をした。そして、思ったんだ。この子の新しい人生のためにも、犯人への憎しみは捨て去ろうと」


 エミは俯いていた。

 エミの身体のあちらこちらの傷を、遠柴が悲しそうに見つめた。


「しかし、私たちに起こった現実と言うのは…君も知るように、残酷なものだった」


 有働は何も言えなかった。安易に頷くことも躊躇われた。


「君はエミとどういう関係を望んでいるのかね」


 遠柴が訊ねる。今度は有働の左わき腹の傷跡を見つめていた。


「パパ。別にそういうんじゃないよ。有働くんには好きな子もいるの」


 エミがクチをはさむ。

 父娘の間で、有働という存在に対する議論は何度かされたのだろう。遠柴はうんうんと頷いたものの、相変わらず有働の言葉を待っていた。


「エミは自分の命を蔑ろにしているように思えたんです」


「ふぅむ」


 遠柴が考え込むような仕草で俯いた。心当たりがないわけではなかったらしい。何度か頷いた。遠柴の額から汗の雫が落ちる。


「エミ…これまでアホな男ばかり追いかけてたようだが、今度からは、こういう男をつかまえるべきだぞ」


 遠柴が父親の顔になった瞬間だった。それは、父娘の中で世界が変わってしまう前の、思慮深く愛情深かった頃の姿に違いなかった。


 遠柴は汗を拭う仕草で顔を覆った。


「エミが裁きをやめるなら、私も活動はできなくなるな。今日で引退だ、ははは」


 声が震えている。泣いているらしかった。寂しさのためか、後悔のためか。有働には判断できなかった。


「しかしそのせいで、大勢の人間が死ぬことになるかもしれないのも事実だ」


 何かを葛藤しているかのような口調だった。相変わらず声は震えている。


「どういう意味ですか」


「おそらく、大規模なテロないし殺戮が起きる」


 有働の言葉に、遠柴は答えた。


「詳しく聞かせてください」


「ニュースで知っていると思うが、密造銃だ。私たちが悪人から回収したそれらの銃には、3桁のシリアルナンバーが刻まれていた。最高で999丁、出回っているかもしれない」


 エミが、二人の男の会話を大きな目でキョロキョロと見ていた。


「悪人たちをこらしめて、密造銃の流れを追っていたんだが…私もエミも犯罪行為からは一切、足を洗う以上、この件を追求できないという事だよ」


 遠柴は娘―エミを父親の目で見つめながら、言った。声の震えは止まっていた。残念、というよりも何かから解放されたというような響きがある。


「警察はどこまで辿り着いているんでしょうか」


 有働は、鋭い視線を遠柴に投げかけた。遠柴は首を振った。


「最初に発砲した小学生のほか、4丁が犯罪に使用され、すでに押収されているが…すべてを回収するのは困難だろう。私たちの悪人裁きが、結果として捜査妨害になってしまった可能性もある。私はこれまで3人を殺し3丁を回収した」


 俯く遠柴。自分たちのした過ちの重大さは、承知しているようだった。


「密造銃をばら撒いた連中の意図は?」


 有働の問いかけに、遠柴は天井を見つめた。


「この銃でキライな人を殺してください。私たちも数ヶ月以内にこの国を変えるためにヒキガネをひきます、という声明文だけが、密造銃に同封されていたようだ」


 それに、と遠柴は言葉を続けた。


「なぜか今年に入ってから激化している隣国との領土問題…梅島問題で、及び腰の与党に政治不信を抱いてる右翼や愛国者も少なくはない。そういった連中が密造銃をバラ撒いてると主張する専門家もいる」


「いつ、どこでテロが行われるかは分からないんですか?」


「それがいつなのか分かっていれば、私だってしかるべき知人たちに動いてもらっていたさ」


 しかるべき知人。裏社会の住人たちか。やぶ蛇になり兼ねないので、敢えて訊かなかった。


「国家を変える為にヒキガネを引くという意味についてはまだ分からないが、声明文を額面どおり国家の目を覚まさせる為の殺戮行為と理解し、出回ってる銃の数や殺傷能力を鑑みると、1000人…いやそれ以上の人間の命が奪われても不思議ではない」


「1000人」


「君が気にする必要はない。聞かなかったことにすればいい。というよりも、聞いたところで君にできることは何もないだろうけどね」


 遠柴の表情は一気に老け込んだように見えた。悪人退治の枷から解放され、その瞳に宿っていた強さは消えていた。


「俺に…なにかできるでしょうか」


「ひとつ忠告してあげよう。傍観者になりなさい。上手に生きるんだ」


 遠柴は朗らかに笑いながら、有働の肩を叩いた。


「中途半端に関わってしまえば、傍観者から、1000人の命を救えなかった人間、という立場に摩り替わってしまう。君はその重圧に耐えられるかね」


 遠柴は言った。彼も彼なりに、様々な葛藤や苦悩、恐怖や重圧と戦いながら、悪人を裁いていたのかもしれない。


「君は500人を救った英雄だ。その名誉を汚す事はない」


 決定打。遠柴のこの言葉は、有働の胸に深く突き刺さった。


 不穏。空間が歪みはじめる。


(俺は…500人を救ってなんかいない…)


 有働の視界から、遠柴とエミが消えた。


(君のおかげで500人…いや、間違えたかな。499人が救われたよ)


 有働たった一人の世界に、納谷警部補の言葉が蘇った。


(君のおかげで500人…いや、間違えたかな。499人が救われたよ)


(君のおかげで500人…いや、間違えたかな。499人が救われたよ)


(君のおかげで500人…いや、間違えたかな。499人が救われたよ)


(君のおかげで500人…いや、間違えたかな。499人が救われたよ)


 何度も繰り返されるうちに、納谷警部補の声が、不破勇太の声に変わる。


(有働くん…君のおかげで僕は1人を殺せたよ)


 不破勇太が微笑みかけてきた。


(有働くん…1000人が死ぬんだね)


 不破勇太が嬉しそうに言う。


「黙れ…」


 有働の声は不破勇太には届かない。


(1000人の中には、有働くんの家族、吉岡さんや、内木くん、戸倉くんに、白橋さん、春日くんに久住くん、権堂センパイや誉田さん、他の生徒たち、バスで一緒になるお婆さん、そこにいる遠柴父娘、誰かが含まれてるかもね)


 不破勇太は嗤う。


「やめろ…」


 有働は耳を塞いだ。


(誰かが死ぬ。明日を生きたかった皆が死ぬ。その家族は一生悲しむんだ)


 耳を塞いでも、頭の中に不破勇太の声は響いていた。


「やめてくれ」


 涙が溢れ出す。


(しょせん君は偽善者さ)


 不破勇太は執拗だった。


「黙れ!!!!!黙れ!!!!!黙れ!!!!!!!!」


 有働は叫んだ。


 有働は叫んだ。叫び続けた。涙が止まらない。気が狂いそうだった。何度も叫び続けていた。何度も、何度も。「おい、どうした!大丈夫か!」遠柴の声は有働に届かなかった。「有働くん!有働くん!」エミの声も届かない。


 誰の声も届かなかった。ただ、ただ、有働の頭の中には、不破勇太の言葉だけが繰り返されていた。


-------------------------


「遠柴さん。これまでに得た情報を聞かせてもらえますか」


 遠柴によってサウナルームから運び出され、ロッカールームの椅子に横たわっていた有働は、起き上がるなりそう言った。


 もう、不破勇太の声は聞こえなくなっていた。


「何をするつもりだ」


 遠柴が悲しそうな目で有働を見つめる。

 エミはバスタオルを巻いた状態で、心配そうに、有働の傍に寄り添っていた。


「僕は…好きな子を振り向かせるため…偽善者になろうとしました」


 有働の言葉にエミが反応した。


「いや、そんな事はどうでもいい…」


 有働は震えていた。


 エミが震える有働の肩に頭をくっつけてきた。


「はっきりと言えるのは…」


 震えは止まっていた。


「僕は調子にのってる奴らが嫌いです」


 遠柴は、有働を見つめたまま、頷くこともせず、ただ腕組みをして立っていた。


「いいのか。つらいぞ」


 有働は、遠柴の視線をまっすぐ受け止めた。


「私のように道を踏み外すな。そして、自分を責めるな。君はヒーローじゃない。ヒーローになんて誰にもなれないんだ」


「その通りです。僕がなりたいのは…、僕がなれるのは…」


 有働は立ち上がる。


「偽善者です」


 有働は言った。

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