第8話 職員室の小暮教諭

 殷画高校の職員室は、分煙ではなかった。


 職員の100パーセントが喫煙者であった事と、誰も分煙にしようと言い出さなかった事、仕事をしながら喫煙できるという便宜上、いつの間にか職員室は、喫煙しながら仕事をできる場所となっていた。

 今のところ、教育委員会から注意は入っていない。そこかしこに置かれた授業に使う資料や職員用の教科書は灰に汚れ、ヤニで黄ばんでいた。


 月曜日の放課後。出来損ないの生徒たちから解放され、ゆらゆらと煙をくゆらせながら、教師たちは雑談に興じている。


 生徒指導担当の小暮泰三は唸り声をあげながらノートパソコンに釘付けになっていた。熱心にマウスを動かす。動かす。動かす。クリック、クリック。そして、また唸り声。


「なにを難しい顔してるんですか」


 同じく生活指導担当の尾中教諭が話しかけてきた。二人の年齢は一回り以上離れてはいたが、小暮は3年生の生活指導、尾中教諭は1年生の生活指導を担当し、お互いに素行不良の生徒には手を焼いていたし、愚痴を聞き合う仲だった。


「権堂たちの件ですか」


 頬杖をついたまま何も答えようとしない小暮に、尾中教諭は反応を促した。


「そうなんだがなぁ。どうやら解決したみたいなんだ」


 小暮は尾中教諭にノートパソコンの画面を向けた。尾中教諭の表情が歪む。


「これ内木のブログですか?」


「生徒の情報は生徒たちから得るのが一番だからね。君の担当する1年生…内木くん。彼が頻繁にブログを更新してるのは君も知ってるだろう。彼は先月から校内のことを記事にするようになった。あまりにも学校の恥を晒すような内容なら注意しないといけないと思って目を光らせてたんだが」


「イヤだなぁ、小暮先生。だったら私にも一言いってくださいよ」


「君は自分の担当する1年生の情報は収集してないのかね?」


 尾中教諭は黙り込んだ。黙り込んだのちに「内木のブログなら、ちょっとは覗いた事はありますけどね」と言い訳にもならない返答をした。


「まぁ、今のところ彼は問題になるような記事は書いていない。イジメが解決したとか、校内のトラブルが解決したとか。問題を指摘したり、糾弾する内容なら学校の評判に関わるから彼を呼び出し、話を聞く必要があるが、彼が書くのはすべて"解決した"という事後報告ばかりなんだ」


「はぁ、校内トラブルの…事後報告ですか…」


 尾中教諭の表情が曇る。何かと何かが引っかかり、何かの結論を導き出そうとしてる者の表情だった。


「どうやら、この学校には"お助けマン"がいるらしい。もしくは正義のヒーロー。内木くんはヒーローと位置づけたいようだがね。どうやら、学校内のトラブルを解決すべく動いてる生徒が、1年生にいるらしい」


 尾中教諭の視点が定まった。


「有働ですか」


「そう。その有働くんが、権堂と他校の生徒のトラブルを内々に和解させたらしい。2年前の往訪高校とのトラブルを君も覚えているだろう?私としては、今年あたり権堂が彼らと、またぶつかり合うんじゃないかと、警戒していたんだがね」


 これ、見てくれ、と小暮は内木のブログの"ある写真"を拡大した。


 写真。


 それは、権堂辰哉とその仲間、そして権堂と因縁があったとされる往訪高校の生徒―たしか誉田と言ったか、彼らが仲良さげに肩を組んでるものだった。そして2枚目には有働と内木、春日、久住らも加わり、コメントがこう付け加えられていた。


≪いがみ合ってた権堂センパイと誉田さんが和解した。ヒトって、ほんの少し勇気を出して歩み寄れば、お互いを理解できるし仲良しになれるんだ。有働くんが、カラダを張ってこの2人の架け橋になったんだ。顔はボコボコに腫れ上がってるけど最高にイケメンだと僕は叫びたい!11月4日の生徒総会で生徒会長に立候補する有働くんをヨロシク(^▼^)≫


 "有働くんのテーマソング"と銘打って変身ヒーロー物のテーマソングの音楽動画が貼り付けてあったが、小暮はさすがにそれまではクリックしなかった。


「有働くん…彼はいったい何をしたいのだね」


 小暮は尾中教諭に尋ねた。


「有働は、どういう理由があるのかは分かりませんが、先月辺りから急に変わりました。先述の校内トラブル―イジメなんかの件もそうですが、校外でひったくりを捕まえたこともありましたし、おそらく有働なりに、この学校をよくしたいのだと思いますが…以前はそんなタイプの生徒ではなかったですよ。何を考えてるか分からない部分もありましたしね。なぜそうなったのかと言われると…有働が何をしたいのかと聞かれますと…お恥ずかしいですが…私には分かりません」


「ふむ」


 学校をよくしたい―果たしてそんな思いを胸に抱く生徒がこの学校にいるのだろうか。小暮は懐疑的になった。人間とは環境に適応する生物だ。美麗な海面が広がる砂浜で、景観を損ね、海を汚すおそれのあるゴミが散乱していれば、それを取り除きたいと思う心理が働くのは、まだ理解できる。だが、深く澱んだ泥沼に腕を突っ込み、腐臭に耐えつつヘドロを取り除きながら、ここをいつの日か湖へ変えたい、と願う者は、なかなかいないだろう。人間とは冷厳たる現実を前にすれば環境を変えようと思うよりも先に、環境に慣れようと選択する生き物ではないか?この職員室がタバコの煙に汚れているように。


 政治家が世の中をよくしたいと喧伝する方便は、それに対する見返りが用意されてるからで、この学校の腐敗を正したところで、大した見返りはない。むしろ、トラブルに巻き込まれるリスクの方が高い。


 有働という生徒は、何のためにある日、突然、理想主義者へ転身したのだろうか。小暮は内木のブログを眺めるだけではその答えはつかめないと確信し、ブラウザを閉じた。

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 翌日。

 ホームルームが始まる1時間前、早めに学校に来る何人かのマジメな生徒たちのため、すべての教室の鍵を開けておかなければならず、小暮は3年の教室が並ぶ廊下を歩いていた。

 そこでは、驚愕の光景が起こっていた。


 素行不良―そう小暮が査定した生徒たちが、教室や廊下に書かれた無数の落書きをベンジンなどを用いて消していた。

 個性的な髪型、かつ乱れた制服の着こなしはそのままではあったが、彼らに似つかわしくない行動を目の当たりにして、小暮はしばし立ち尽くしていた。


「あ、小暮センセ。うぃっす」


 生徒たちから挨拶をされたのも初めてだった。


「あ、ああ」


 曖昧な返答をした小暮を尻目に、生徒たちは黙々と落書きを消す。


「なんだ、これは」


 小暮はすぐさま職員室へ引き返し、ノートパソコンを開いた。内木のブログに繋ぐ。そこにある文字、有働、有働、有働…。


≪有働くんが生徒会長になったら、校内の乱れた風紀をぜんぶ正します!≫


≪11月4日の生徒総会まで、あと1週間!有働くんは校内にラクガキをした生徒たちにラクガキを消すように説得中≫


 さきほどラクガキを消していた3年生が、1年生を前にお説教されているポーズで写真に収まっていた。茶番だった。しかし、現実、彼らはラクガキを消し始めている。


「なんだ…何が起こってる」


 その時、ノックをして職員室に入ってくる生徒がいた。権堂辰哉だった。


「先週の金曜に、窓ガラスを損壊したのは僕です。弁償したいので金額を教えてください」


 校舎の損壊は日常茶飯事だった。その都度、被疑者不明で始末書を書いて補修していたのは小暮だった。先週末に損壊した3年B組の窓ガラスについてもそう処理するつもりだった。


(なぜ今回は名乗り出た?当たり前のことを、当たり前にできないのが、お前らだったんじゃないのか?)


 小暮は、権堂を座らせ書類を書かせた。権堂は顔を腫れ上がらせ、右手に包帯を巻いていた。何かがあったのだ。何があった。小暮は得体の知れない不安に襲われた。


 教師生活30余年―。不測の事態に、ただ動揺するだけだった。


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 尾中教諭を通して、1年E組に在籍する有働努を生徒指導室へ呼び出した。


「俺、呼び出されるような何か悪い事やったかなぁ~」


 有働も権堂と同じく顔を腫れ上がらせていたが、悪びれる様子もなく着席した。


「内木くんのブログを見て、君の一連の行動は把握してる。今日は君と腹を割って話がしたいと思い、来てもらった」


「先生方、今まで何人の生徒と腹を割って話してきましたか」


 有働の目つきが一瞬、険しくなった。小暮の中にある怠惰な教師の一面を揶揄されてるようで、小暮は据わりが悪くなった。


「そんな顔しないでくださいよ、小暮先生」


「君が言いたい事は良く分かっている。私は30年以上教師をしているが、ここ数ヶ月で君がなしえた事を、私たちはできていなかった。生徒を卒業させるだけが教育者の務めだと、そこに頼っていた部分は大きい。君がとった方法については言及しないが、結果論として言えば、君はこの学校の、生徒の改革に成功したと言える」


「まだまだですよ」


 有働は言った。


「来月で真田さんが生徒会長の任期を終えます。全校生徒から小暮先生や尾中先生の任命で、生徒会長が選出されるわけですが、今年は僕が立候補させていただきます」


「という事は信任投票になるな」


 有働努くん生徒会長を任せますか。任せませんか。立候補者が出るのは何年ぶりだろう。信任投票が行われるのは何年ぶりだろうか。


 殷画高校では信任する、しないを○×形式ではなく「信任します」「信任しません」の記述で回収していた。あえて文字で書かせることで生徒たちの意識を自分たちで再認識させる―この案を出したのは小暮だった。


「僕が当選したあかつきには、全校生徒の髪型の乱れ、服装の乱れを正し、校内暴力、破壊行為の一切を禁じます。また、出席日数が足りない生徒は補習に参加させ、僕がこの学校にいる3年間は退学者を出させません」


「風紀に関する事は、まだ分かるが…退学者を出さないとは、自主退学も含むと思うが、自由意志の尊重は蔑ろにされるという事かね」


「退学の原因は、学校がつまらない事、学校でトラブルがあることにあります。経済的事情のある生徒は今まで通りアルバイトを認め、本人の同意を得た上で、父兄も絡めた"カンパ"という方法でできる限りの金銭的援助をしたい。それ以外の退学理由がある生徒は僕と1時間ほど話し合いをしてもらい、それでも退学を希望するならば仕方がありません。しかし、それはあくまで想定外であり、退学者を出させないという目標は変わりません」


「ずいぶんな自信だね。そうやって君が主体となって学校づくりに取り組めば規律正しい生徒たちだけの学校になるというのかね?」


「僕の父は警察官です」


「ほう」


「父は多くの日々、犯罪者と関わっています。彼らの多くは幼少時代、学生時代に問題を抱えていました。どんな問題だと思いますか?」


「彼らは抑圧されて非行にはしったのではないかね」


「むしろ逆です。甘やかされていたんです。親や学校を含め彼らの反社会的な素行を咎めるものはいなかった。いずれ潜在的な犯罪の種は発芽し、それを見咎めた警察は少年時代の彼らに罪に罰を与えましたが、彼らの甘えに対して断罪する事はできない。彼らは上辺だけの罪滅ぼしで社会に戻り、二十歳を過ぎてもティーンエイジャーの感覚で犯罪行為に手を染める。犯罪者は、事後に警察や司法だけに任せておけという社会の風潮によって犯罪者は完成されるんです」


「学校を人格強制施設に改造するのかね」


「それが本来あるべき学校の組織図でしょう。勉強を教えるだけでヒトとしての道徳をないがしろにしてきたツケがやってきたんです。体罰だって時には必要なんです。ヒトに迷惑をかければ痛い目に遭う。嫌な事をすれば他人に憎悪され、自分に返ってくる。そういった基本レベルの構造を理解させないから、生徒たちが自分だけの王国をつくり、他人の痛みを理解できなくなるんです。自分だけが人間で、周囲は背景に過ぎない。そういう感覚が学校で養われれば、社会に出て犯罪者になるのもムリはないでしょう」


「私に君の持論を否定する権利はない。君の言いたい事は理解できた。おそらく君は内木くんのブログ効果で、信任投票の結果、生徒会長に選ばれるだろう」


「含みのある言い方ですね。小暮先生。腹を割って話すといいながら、君は君だし、私は私だ、という体裁で濁すんですか?小暮先生の本当の気持ちを話してください。教師としての持論を展開してください。小暮先生なりの指針を示してみてください」


「私もかつては君のような理想をもっていたよ。私の世代の教師は皆、君のような感覚で生徒と接してきた。それが正しいか間違いかは分からないが、君の感覚はむしろ懐かしいとさえ感じる。私は年をとりすぎてしまった。急に自分を変えることは難しい。だが、徐々に変えていくことはできるかもしれない。体罰を肯定するわけではないが、あと一歩生徒たちとの距離を縮める必要はあると考え直せた」


「僕を支持してくれますか」


「生徒による生徒の補正、というのは画期的かもしれない。自治システムのように生徒と教師が連携して問題に取り組めば、思いのほか負担も軽減された状態で、問題解決できるかもしれない」


 小暮は有働の言葉を頭の中で反芻した。有働は泥沼を湖に変えようとしている。巨大なろ過装置を設置しようとしている。小暮が抱いた不安の正体、それはかつての理想に燃えていた自分を見たからだった。そしてそれに敗北した自分を知っていたからだった。


 教師が生徒を変えられないなら、生徒が生徒を変えます。有働はそう言いたいのだ。彼がリングで戦う様子をコーナーで見届けてもいいのではないか?かつて勝利への扉を放棄したボクサーがセコンドについて「私のようになるな」と叱咤激励してもいいのではないか。


「有働くん。君が求める見返りはなんだね?」


「見返りですか。それは皆に愛されることです」


 有働の目は澄み渡っていた。


「生徒会長のはじめての仕事は11月の学園祭だ。自主性を重んじるうちの学校では昔からそう決まっている。私も関わるし、真田くんから引継ぎもあるだろうから、そんなに難しい話ではない。ただ一つ、新生徒会長になった場合、学園祭を前に君に頼みたい事がある」


「なんでしょうか」


「とある新興宗教に入信している生徒がいる。彼女は、その信仰の理由から3年間のうち、数日しか登校していない。学校としては無理やりにでも卒業させる方針だったが、君の話を聞いて私も目が覚めた。彼女をきちんと登校させて卒業させてあげたい。私もできる限り動こう。君も力を貸してくれないか?"学ぶ事は罪だ"というのがその宗教の方便らしいが、学校へ行くことを禁止する神なんて…私から言わせてもらえば…"クソくらえ"だ」


「やっと本音で話してくれましたね。小暮先生」


 有働は目を細めた。


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 11月4日。

 過半数で有働努の生徒会長就任が可決された。


「"信任(支持)"の投票数はどれくらいでしたか」


 生徒指導室で開票と集計を終えた小暮を訪ね、有働が聞いてきた。


「8割弱だ。君の圧勝だよ」


 小暮は答えた。


「みんなの声を手元においておきたいんです」


 そう言って400枚以上の投票用紙を、有働は回収した。

 本来、教師が責任をもって破棄するものだったが、小暮は有働を信頼し、それらを託した。

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