第3話 お願い

抜けるような青空に、穏やかに降り注ぐ日差し。

池の畔には長い桟橋が掛けられていて、その最奥には日傘の女がいる。

彼女はまだこちらに気付いていない。

白い日傘をクルクルと回しながら、陽射し照り返す水面を楽しそうに眺めていた。


「まさか、本当に来ちゃうなんてね……」


私は溜め息をついた。


「ふふ。言ったろう?普通ではないと……」


「普通の方が良かったわ……まぁこうなったら、何とかしないとね……ていうかさ、ヨキだけでなんとかなるんじゃないの?」


「無理だな。誰だって聞いて貰えそうにない相手より、聞いてくれそうな人に話すだろ?」


呑気に言いながら、ヨキは桟橋の方へと歩いて行った。

暗に私、チョロいって言われてるのでは?

と、少し頭にきたけど、その怒りは抑えておいた。

ここは理解を越えた世界の中。

ヨキとケンカでもして置き去りにされたら困る。

そうして、トコトコとリズミカルに歩くヨキの後を、私も慎重に付いて行ったのだ。


絵の中の池は、エメラルドグリーンに輝き、底まで透き通るほどの透明度である。

所々に浮くオニバスは鮮やかなグリーン。

池の緑とオニバスの緑は、同系色ながら互いに引き立て合い、日傘の女の存在感を際立たせていた。


「気付いたようだ」


ヨキが立ち止まる。

すると、女がクルリと振り返った。

絵の中で見る女は清楚で可憐。

深層の令嬢という言葉がピッタリな美しい人だった。

女は笑みを湛え、私とヨキを交互に見た。


「あの……何か、私に……ご用?です、か?」


「くくっ、怯えすぎだ」


足元でヨキが笑う。

だって怖いんだから、仕方ないでしょ!


「……」


女は何も言わず、微笑みを絶やさぬまま私をじっと見つめた。

伝えたいことがあるのなら、早く言えばいいのに。

と、思いつつ、私も女を見つめ返した。

一分、二分、三分……。

カップラーメンが出来上がる時間が過ぎても、その見つめ合いは終わらない。

視線を逸らしたら負けなような気がしていた私は、女を見据えたまま、ヨキに話しかけた。


「ね、ねぇ……ヨキ?」


「うむ」


「この人、私に話があるんじゃなかった?」


「うむ」


「何も言わないんだけど?」


「にゃーん」


は?

突然猫の鳴き声が聞こえた。

いや、ヨキは猫だから、猫の鳴き声がしても何もおかしくない!

おかしいのは、なんで?今!?ということだ。

私は女から目を逸らしヨキを見た。

すると、足元で暇そうに転がって近くのオニバスにじゃれているヨキが目に入った。


「ちょっと!ヨキ!遊んでるんじゃないわよっ!今大事な……」


その時である。

目の前に何かの気配を感じ、私はハッと視線を戻した。

すると。

そこには、あり得ないくらい近い距離で女が私を覗き込んでいたのだ。


「ひっ……」


出たのは小さな悲鳴だけ。

本当に恐怖を感じた時には、大きな声なんて出ないと思っていたけど、どうやらそれは正解らしい……。


「探して……」


至近距離で女が言った。


「えっ?」


「探して……」


もう一度言うと、女はスッと指差した。

思わずその指先を追うと、水面から突き出た大きな岩がある。

池の中に、ポツンと一つだけ見える岩の周囲はほんのりと白い。


「あそこを探すの?」


問いかけて、また死ぬほど驚いた。

さっきまで至近距離にいた女は、日傘だけを残して、姿を消していたのだ。


「え……は?何、何なの!?もう、ワケわかんない!」


叫ぶ私の足元にヨキがじゃれ付いて来た。


「願いを聞けただろ?」


「聞けたけどもっ!あ……ちょっと!さっきのアレはもしかして?」


「くくくっ。芙蓉があまり睨むから、向こうが怯えていたぞ?だから、話しやすい状況を作ってやったのだ。感謝してくれても良いくらいなのだがね」


「感謝……ね……」


お陰で寿命が三年は縮まったわ、と、心の中で悪態をつく。


「あの人、あんなに微笑んでたけど、怯えてたの?」


「お前な……向こうは《絵》だぞ?表情なんて一緒だろ」


「はっ、そうか!あー……ほんとだ。道理で瞬きもしないと思った」


言われてみれば、まさにそれ。

私が女を怖いと思っていたのは、どこか無機質な気がしたからだ。


「それはいいとして。探せ、と言っていたな?」


「うん。あの場所」


私とヨキは女の指差した所を見つめた。

そこを探すにしても、船も何もないんじゃどうしようもない。


「改めて来る?ゴムボートでも持参して……」


「探すのはこの場所ではないぞ?」


「へ?」


「はぁー……絵の中を探しても何もない。探すなら、現実世界のだ」


「あっ、そうか。でも、それ、大変じゃない?」


ようやく理解した私は、同時にその面倒臭さにも気付いた。

まず場所の特定が難しい。

作者不明の絵画なので、どこから手をつけていいかもわからない。

一つだけ手がかりがあるとすれば、絵の売買を頼んできた不動産会社の人だ。


「何かアテがあったようだな?」


ヨキは私の顔を見て言った。


「まぁね」


「……やはり、お前は普通ではないな」


「普通よ?」


「まだ言うか」


ヨキは笑いながら、池の畔へ向かって歩き出す。

普通よ、普通だったらー!と、後を追いかける私を、嘲笑うかのような華麗なステップで。


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