終 ハッピーエンドロール


 ――かつて夢見た光景が、まさに今、目の前に広がっていた。


 天より零れ落ちる光の粒のような音曲。

 地上のあらゆる寿詞よごとを散りばめた詩歌。

 舞う領巾ひれの翻りは蝶の翅のごとく優美であり、その姿を描き留めんとする筆先は蜻蛉の飛ぶごとくに確かである。

 決して交わることのない内と外が、この日ばかりは一体となって慶びの中に浸っている。後宮妃嬪と群臣王侯がともに居並び、壇上の二人を笑顔で言祝ことほぐ。


 白銀の帝と漆黒の后。


 陰陽を思わせる両者が護国の神獣を背に並ぶさまは、すなわち大いなる和合にも似て、太平の到来を予感させるものであった――





 ――そんな立后の宴から約半年。

 私は今日も、長い人生初めての子育てに奮闘していた。


「いい子ねぇ玉英ぎょくえい。ほら、麒麟さんよ」


 木と綿でできた白っぽい動物模型ぬいぐるみを見せると、小さく愛らしい両手が、元気いっぱいに伸ばされる。


「あー、まあー」

「はいどうぞ。いい子でいてねー、媽媽ママちょっと、ご用をすませてくるからねー」


 永喜にそっと目配せして、席を立つ。一歩二歩まではよかったが、三歩目に卓子テーブルを回った途端、ぱっと上げられた大きな瞳が私を探して潤み始めた。まずい。

 察した侍女頭が抱き上げるのと、乳児がぐずり始めるのと、私が隣の小部屋へ駆け込むのは同時だった。その小部屋にあるのは、上品で清潔なおまる。つまり我が子の隙を伺いつつ私が行きたかった先は、すぐそこにある厠所トイレなのだった。


「まぁまぁああああ!」

「はいはい、お母様はすぐにお戻りになりますからね」


 我が子の絶叫と侍女頭の慣れた対応を聞きながら、思わずふう、と息をつく。母親とは、なかなか難儀なものである。


(父さん母さんも、お父様お母様も、お父さんお母さんも、本当にすごいわ)


 都合三組いる両親に、今更ながら感謝と尊敬を繰り返す毎日だ。

 人の親になるのは本当に大変だ、としみじみ思いつつ、危急の用事をすませて戻り、大泣きする我が子を永喜から受け取る。すると、ぐすぐすと泣いていたのも束の間、私を見上げてにこにこと上機嫌になる赤ん坊。そんな変わり身を見せられたら、こちらも思わず笑ってしまう。


「玉英様は、本当にお母様がお好きですね。……とはいえやはり、他のものにも多少分担したほうがよいのではありませんか? 『乳母を』とはもう言いませんが、遊び相手くらいは、信頼できるものをこの永喜が選びますよ」

「ありがとう。でもいいの。あなたたちにも面倒をかけるけれど」


 高貴な女性は子育てをせず、乳母に任せるのが慣例だ。私自身、この永喜に育てられたのだから、それが悪いことだとは思っていないけれど。


「せめて名前を下賜されるまでは、私がこの子のそばにいたいの」


 どれほど注意していても、幼い命は消えやすい。だから正式に皇子として認められるのは、七歳になってからのことだった。正式な名前を与えられるのもその時で、今の“玉英”というのも、幼児期だけの仮の名だ。

 皇帝から名前を下賜されれば、すなわちこの子は、東宮となる。そうして立場が固まるまでは、せめて私が、この手で守り育てていたかった。

 私の乳母は、呆れたように肩を落とした。


「それでは、それでようございますけれど。どうかご無理だけはなさらないでくださいませ。娘々ご自身も、大切な国の支えなのですから」

「ええ、もちろん。皇后の務めも忘れていないわ」


 息子が生まれて百日で、私は立后の儀を受けた。

 男児の懐妊がわかった時点で話が出てはいたものの、先の皇后によるも踏まえ、産後にしてもらえるようにと願い出たのだ。私にとっての、ある種のけじめだった。それはそれで苦労したけれど、そうしてよかったと思っている。

 皇后の役目は、主に後宮の管理と統括。上級妃の頃もしていたそれらに加えて、皇帝の補佐役として、内廷おもての行事にも参列しなくてはならない。


 その日もまた、政務終わりの珀英様が、私への仕事を携えてやってきた。


「西域からの使節団、ですか?」


 玉英を膝に乗せ、私の隣に腰かけた珀英様は「ああ」と頷く。

 ながいすは他にもあるけれど、出産直後からそうして隣り合って子どもをあやしているうちに、彼の中でこの距離感が染みついたらしい。我が夫は見た目にそぐわず、結構可愛い人なのだ。大好き。


「西域といっても、安加羅あんからなどよりさらに西にある国だ。――そなたなら聞いたことがあるだろう。『星の国』のことを」

「まあ。『星の国』なのですか」


 そこは、地球でいうヨーロッパ諸国がある辺り。桂帝国が統治する大陸東側とは異なり、そちらではいくつもの国がひしめくように存在していると聞く。『星の国』も、その一つだ。

 ちなみにもちろん、正式名称は他にある。先々帝の頃に初めて直接的なやり取りが始まり、我らが月氏皇室と並ぶように星の逸話をもつ王家だとして、互いに『月の国』『星の国』と呼び合うようになったらしい。外つ国の言葉は難しく、実は私も、本来の国名は知らなかった。――この段階では。


公子おうじ誕生と皇后即位の祝いのためにと、特使を派遣してきた。今は鴻臚寺こうろじに留めてあるが、こちらの了解があり次第、宮中に招くことになる」


 鴻臚寺は外国使節を迎えるための街中施設。つまり相手は、すでにこの桂帝国の都に入っているということである。


「ずいぶんとお早いお越しですね。西の砂漠を渡るため、あちらとの行き来は、片道半年ほどかかると聞いたことがあるのですが」

「かねてより交易のあった安加羅の商会が、南海を回る新たな航路を開いたらしい。その船を使えば、これまでの半分ほどの期間で行き来ができるのだと、以前から話が上がっていたのだ」

「あら、そうなのですね」


 その話は聞いていたけれど、すでに一国の特使が使えるほど航路が確立していたとは。この世界も、日々進歩しているようだ。


「公子と皇后のための祝宴ゆえ、そなたらも参席を頼む。もちろん、護衛の数は、常より増やすつもりゆえ」

「ありがとうございます。楽しみに支度しておりますね」


 祝宴の建前があったとして、その実は互いに大事な外交の場だ。皇后として出席するのは当然だし、玉英だけを欠席させるわけにもいかない。それに同じ『星』の字をもつものとして、私自身、の国の人々には興味があった。

 ただ、と私は首を傾げる。


「それにしても“特使”ということは……お相手は、地位ある方なのでしょうか?」


 高官や大臣程度なら、大抵の場合は“使節”と呼ばれる。わざわざ“特使”というならば、王族に連なる相手である可能性が高い。

 それには「ああ」と珀英様も頷いた。


「あちらの国の、王太子夫妻だ。先帝の頃に婚礼の知らせがあったゆえ、こちらからも祝いの使節を送った。その返礼もあるのだそうだ」

「ああ、あの時の。覚えておりますわ。ご夫妻への贈り物を選ぶのを、手伝わせていただきました。確か、それぞれお名前にちなんだものをということで――」


 その瞬間、私の思考は停止した。

 もしかしたら心臓も、一度止まってしまったのかもしれない。


「……まぁま?」

「どうかしたか? 皇后」


 父子の不可思議そうな視線を受け、我に返った私は「いえ」と応じつつ考える。

 考えなくてはならないことが――そこに山ほど積み上がっていた。





 ――それから二日後。

 特使を招いた祝宴の席は、後宮の御花園で開かれた。基本的に皇帝以外の男性に許される場所ではないけれど、何事にも例外は存在する。日中であれば、そして日中のうちに余さず退出するのであれば、を招くのにここほどふさわしい場所はない。

 季節の菊花で満ちた初秋の庭園。それらを背景に、水辺に張り出した露台バルコニーで、私たちは二人の特使を迎えた。

 『星の国』からの特使――王太子夫妻は、私たちと同じく、二人とも二十代半ばだった。精悍な顔つきの王太子は陽に輝く金髪を、凛と美しい妃は闇のような黒髪をして、こちらとも似通ったその色彩に、親近感を抱くものも多いようだった。

 珀英様と相対し、恭しくも威厳ある礼をした王太子の言葉を、通訳の男が慇懃に伝えた。


「お招きへの感謝と、両陛下への喜びの言葉を述べておられます」

「こちらこそ、遠いところをわざわざ足を運んでいただき、ありがたい。此度は先々を見据え、ともに友好の礎となる時を過ごすことができればと思う」


 淡々としながらも穏やかな返答を、通訳が王太子へと伝える。こちらへ向けた時と同じく、かなりの要約が交じっているようだけれど、金髪の王太子は朗らかな笑みを見せて頷いた。

 宴席では皇帝と王太子が隣に並び、皇后と王太子妃がそれを挟む形になった。

 それもあって、歌舞音曲と酒肴を楽しみつつ通訳を介して会話を交わすのは、主催と主賓の男性同士ばかり。なので頃合いを見計らい、私は「大家」と声をかけた。


「王太子妃様を、しばし逍遥そぞろあるきにお誘いしてもよろしいでしょうか? 女性同士、私たちもお話をしてみたく思いますので」

「ああ――いいだろう」


 王太子越しに向こうの妃の許しも得て、それぞれの侍女と護衛を引き連れ、私たちは宴席を後にする。それが許容されるのも、相手が“特使”だからこそだ。

 ひどく緊張した笑顔の王太子妃を案内した先は、露台から見える範囲の菊花園だった。大小、形状、彩色さまざまな菊が咲き乱れる秋の庭園で、私はさりげなく、並んだ彼女へと問いかける。


『王太子妃様におかれましては、我が国の宴席を、お楽しみいただけていますでしょうか?』


 私が紡いだその言葉に、王太子妃は深く息を呑んだ。大きく見開かれた紫の瞳は、わかりやすく彼女の驚嘆を示す。


『――皇后陛下は、わたくしたちの言葉がわかるのですか?』

『通訳に頼んで、教えてもらいました。言葉の勉強は、他の機会にもしたことがあるので、懐かしく学ぶことができました』

『すごい! とてもお上手です! わたくしも少しは勉強しましたけれど、陛下ほど上手には話せませんよ』


 建前ではない手放しの称賛こそ懐かしく、思う間もなく頬が緩む。

 とその時、後ろから声が追ってきた。


「まぁま!」


 永喜に任せていたけれど、やはり宴席に置いてくるのは無理だったらしい。両腕を広げる我が子を侍女頭から抱き受け、そのまま客人へと紹介する。


『私と皇帝陛下の子で、玉英といいます』

公子おうじさまですね。ええと――ハジメマシテ』


 片言の桂国語でのあいさつに、玉英がきょとんと彼女を見返す。

 にこやかにそれを見ていた王太子妃だったが、そこでふと――なにかに気付いたかのように目を瞬いた。


『どうかなさいましたか?』

『いえ……すみません。皇子さまの髪が、とってもお綺麗で。皇帝陛下と同じ銀色かと思ったら、不思議な――真珠のような光沢があるのですね』


 真珠をまとった銀髪と、藍色が交じった黒の瞳。

 私には馴染み深いその色取りを、彼女は懐かしそうに見つめる。


『昔……といっても、数年前のことですけど。同じような色彩を、見たことがあります。とても美しい――神聖なものとして』


 そこで一度、彼女は口を閉ざした。

 玉英を見つめたまま、なにか躊躇うような間を挟み、そうしてそっと尋ねてくる。


『わたくしの国が〈星の国〉と呼ばれる理由を、皇后さまはご存知ですか?』

『星と縁の深い王室が治めておられるから、と聞いています』


 そうです、と頷いた王太子妃は、そこで紫の瞳に不思議な色を乗せ、私を見た。


『わたくしたちの国には星の女神さまがいて、その加護を得た聖女が、王室を守っているのです。女神の眷属である星獣とともに』

『――まあ。なんだか親近感がわくお話ですわ。実は私も、この国の神獣と、御縁を結ばせていただいておりますの』

『〈一角の神獣〉の加護を得た皇后さまのお話は、わたくしもうかがっています。そのお話を聞いた時、失礼ですけれど、真っ先に我が国の聖女のことを重ねてしまいました』

『それは光栄なことです。その聖女――〈星女神の乙女〉は、今代もご健在でいらっしゃるのでしょうか?』

『ええ――ええ。御父上や御学友とともに、王宮で両陛下をお支えしています』


 見つめ合い、言葉を切った私たち。

 ただ互いの瞳の中に、それより雄弁なものを読み取ろうとする。

 そうして私たちは見つけ出す――彼女の瞳には、弾み出さんばかりの希望を。私の瞳には、きっともっと、どうしようもなく溢れ出す喜びを。


 私は一度、目を閉じて、それから思わず笑ってしまった。


『このフラグは、いったいどこにあったのでしょうか?』

『あったのかもしれないし、なかったのかもしれません』

『ご都合主義ですね』

『でも幸せならオッケーです』


 ぽんぽんと飛び交う会話に、周りの侍女や護衛がぽかんとしているのがわかる。

 でもそんなもの、今はどうでもいい。幸せならオッケーなのだ。


『せっかくですのでここで一言、をご一緒にどうですか?』

『ええ、もちろん。では「せーの」で合わせましょう』


 片手を差し出せば、彼女が握る。

 私はそれを握り返して、私たちの故郷の言葉を、懐かしいそれを口にした。


 独りじゃない。

 遠く離れても通じ合う相手がいる奇跡に、感謝して。


『せーのっ』




「「――ブルータス、お前もか」」





 繋がり合った〈物語〉は、その先へと、遥かに広がりながら続いていく。

 私たちは、この世界を生きていく。








                おわり

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一周回ってヒロイン転生 ~最推しは前世の夫です~ かがち史 @kkym-3373

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