第45話 御花園での裁き
その知らせは、夜半過ぎに私のもとへと届けられた。
「徳妃様。大家からの遣いが来られています」
すでに寝台に入っていた私は、侍女頭にそう声をかけられる前から目が覚めていた。騒がしさが耳についたのかもしれないし、あるいはなにか、勘のようなものが働いたのかもしれない。
「なんのご用?」
「大家がお呼びなので、
「――わかったわ。支度をお願い」
珀英様が今すぐと言ったのなら、今すぐに行かなくてはならない。衣装や宝飾品、化粧で飾り立てている暇などなく、寝間着に長衣だけを着付け、髪も紐と
紫微殿は、後宮内にある皇帝の私室である。永喜も連れて遣いの宦官について行くと、そこでは同じく長衣姿の珀英様が待っていた。平服の袍衣でないところを見ると、彼にとっても緊急の用件らしい。
「夜半に呼び立ててすまぬ。そなたにも同席してもらいたくてな」
「大家のお召しでしたら、いつ
生死を伏せておくはずの私を、こうして玄晶宮の外に呼び出したのだ。
それに関わることに違いないと覚悟して尋ねたけれど、珀英様から返った答えは、私の想像を越えていた。
「
「…………え?」
宮闈局。
そこは
「とある下女より脱走者の報告があり、宮闈局が捜索を行った。すると
私は、開いた口が塞がらなかった。
(まさか……隠しキャラに手を出したってこと?)
潭淑妃の従兄、後宮医官である潭遼元の他にも、『日月の契り』には隠し攻略対象がいる。彼らはこの朝廷の武官と文官、そして市井時代の知人で、それぞれ恩賞として下賜されたり、盗み出されたりして結ばれる。
けれどそれは、陽花鸞が皇后にならなかった場合だ。
あの子はもう、とっくに立后しているというのに。
(いったいどうして、そんな真似を)
混乱する頭を抱えながら、私は珀英様たちとともに御花園へ向かった。
御花園は、後宮の中心にある広大な庭園だ。岩山や蓮池、小川と季節の花々を愛でるために、小さな
冷たい床に跪かされ、後ろ手に縛られて窮屈そうに、なにより悲しげに俯く彼女の横には男が二人――幸か不幸か、どちらも見知らぬ顔だった。攻略対象の誰でもない男たちと、ヒロインであるはずの娘が並ぶ情景に、より一層の戸惑いに襲われる。
――これはいったい、どういうことなのか。
珀英様を目にした途端、陽花鸞は、今にも泣き出しそうに顔を歪めた。
「大家……――!」
哀切を訴えるように潤んだ瞳が、彼の後ろにいる私に気付いた瞬間、驚愕に見開かれた。その一瞬、燃えるような憎悪が覗いたのを私は見逃さなかったけれど、それはすぐに、花咲くような笑みに取って代わられた。
「ああ……ああ、ご無事でしたのね、徳妃さま。誰もなにも教えてくださらないから、わたくし、とっても心配していましたの」
よかった、と無垢を装って微笑む姿にぞっとする。
返す言葉も定まらず、ただ黙ってそれを見返した。そんな私を庇うように珀英様が間に入り、三者を見下ろして口火を切った。
「陽皇后の不義密通の現場を捕らえたと、そう報告を受けているが。そもそもこの後宮に、宦官でないものが入り込んでいるとは、どういうわけか」
それまでなぜか余裕めいた顔をしていた男の片方が、その問いを耳にした途端、みるみるうちに顔色を失っていく。
一方で、直接問われた宮闈局員は、もう一人の男のほうを指差した。改めて見れば、そちらが着ているのは宦官の袍衣。しかも、捕らえている側と同じ肩章をつけている――宮闈局のものだ。
「こちらのものが、賄賂を受け取って通していたそうです」
「通していた? 此度だけではないということか?」
途端、跪いていた宦官が床に額を打ち付ける。
「も、申し訳ございません大家! わたくしは、大家のお許しがあるからと言われ、どうしようもなく仕方なく……!」
「どうしようもなく仕方なく――賄賂を受け取り不正を許したのか。一度ならず」
珀英様の静かな指摘に、宦官の喉から絞め殺されたような息が洩れる。残念だろうが、今回のことが発覚した時点で、彼には言い逃れできる余地はない。諦めて罰を受けるほかないだろう。
詳しい取り調べは後に回し、珀英様は本命の二人へと声を向ける。
「そなたらは、この件についてなにか弁明があるか」
「大家」
途端、身を乗り出したのは陽花鸞。
彼女は見るも哀れな表情で、一心に珀英様を見つめて言い募る。
「これはなにかの間違いですわ。わたくしが愛しているのは、これまでもこれからも、あなたさまだけ。このような男のことなど、どうでもいいのです。どうか信じてくださいませ」
(それはいったい、なんの弁明なの……)
目を潤ませているこの娘は、なにか盛大にはき違えているのではないか。
呆れて指摘するより前に、男のほうも負けじと身を乗り出してきた。
「わ、わたくしは、わたくしは騙されたのです。主上のお許しがあるからと、この方に言われて仕方なく。そうでなければ、このような大それたことはいたしませんでした。すべては、すべてはこの方が――」
「わたしのせいにするの!?」
突如激昂した陽花鸞が、眦を吊り上げた。
「そもそもあなたが情けないのがいけないんじゃない! 絶対バレないって言っても煮え切らないし! そんな嘘でも言わなきゃ、あなた、わたしを抱いてくれなかったでしょ!?」
「――…………」
絶句した。
今の発言が致命的だと、気付かないのは本人だけらしい。
憤然と瞳をぎらつかせる花鸞に対し、男のほうは血の気が失せている。私は片手で頭を抱え、周りの宦官たちは白々とした目を向けていた。
凍った空気を、さらに凍てつかせたのは月珀英だった。
「それで」
平淡に紡がれる言葉は、鉛よりも重々しい。
「いかな理由があれば、朕が己の后妃の貞節を、他の男に許すと思ったのか?」
「そ、それは……」
問われた男は、もはや死人のような顔色だが、だからといって沈黙は許されない。
だらだらと冷や汗を流しながら、男は答えを絞り出した。
「……しゅ、主上におかれては、その……
あまりの怒りに眩暈がした。
最悪だ。不貞を働く理由として、これほど下劣な話を持ち出すなんてありえない。いったいどういう神経をしていれば、ここまでのことを口にできるというのだろう――よりにもよって、この後宮という場所で。
(私は本当に、間違えていた)
こんな女を皇后にしていたら、国が滅びるというのも当然だ。
神獣の憂慮こそが、正しかったのだ。
「痴れ者め」
滅多と聞かない悪態を、珀英様が吐き捨てる。
「たとえまことにそうであれ、なにゆえ皇統でもないおまえなどに、それを許すと思うのか。思い上がるのも大概にせよ」
国の後宮とは、皇統を継ぐものを生み出す機関。血統の管理は、すなわち
――加えて、もしもそれと知りつつ周りを騙し、皇帝の子だとしていたら。
「そなたらの行いは、大逆にも等しいものと心得よ」
皇位
この愚かな二人を見るに、はなからそれを意図していたわけではないだろう。しかし、それらと同等の罪であると、色欲に現を抜かす前に気付いておくべきだった。
呆然としていた男が、空気が抜けるように深々と叩頭した。
「……いかなる処分でもお受けいたします」
「えっ!」
驚いたのは花鸞だけだ。
「ちょっと、なにふざけたこと言ってるのよ! わたしを連れて逃げてよ! ここはそういう場面でしょ!?」
「――おまえこそふざけるな! この売女が!」
皇后位にある娘へ男が吐き捨てた罵倒を、不敬だと咎めるものはいなかった。楼閣内には冷え冷えとした空気だけが満ち、その場の誰も、不貞の皇后に同情を寄せることはない。
陽花鸞は、自分に向けられた軽蔑の視線に、ようやく気付いたようだった。わなわなと震え出しながら、悲痛に叫ぶ。
「なんでよ、わたしを誰だと思ってるの!? 陽花鸞は主人公よ!? 主人公を破滅させる馬鹿がどこにいるっていうの!? みんなわたしを愛しなさいよ!!」
みっともなく喚くその姿は、あまりに見苦しく、情けなかった。
その気持ちは、同じ転生者としてのもの。〈リディアーヌ・リオン〉となったあの子と得られた深い共感を、この〈陽花鸞〉との間には、決して得ることができないという虚しさにも似た感情だ。
あまりの情けなさに、気付けば口を開いていた。
「あなたがなんの話をされているのかは存じませんが」
射殺すような空色の双眸を、私は見返す。
かつて私が最期に見たその色には、今はもう、哀れみの他なにも覚えない。
「人を何者かに為さしめるのは、その人の思想と言動です」
「はあ? なにを……」
「あなたはこの後宮で、いったいなにを思い、なにを口にし、なにを行ってきましたか? あなたは今、なにを思い、なにを口にし、なにを行いましたか? ――それは主人公と呼ばれ、みなに愛されるに足るものだと、本気で思っているのですか?」
人間は、生まれながらにして何者かであるわけじゃない。
どんな生まれでも、どんな育ちでも、最後に自分を決めるのは自分自身だ。
別世界で悪役と呼ばれた少女は、その思いやりで周囲の愛情を勝ち取った。家名の大きさに溺れた男は、己を過大評価して悪に堕ちた。彼らを分けたのは血筋ではなく、それぞれの心根と行いなのだと私は思う。
――けれど私の言葉は、彼女に届くことはなかった。
「えらそうになによ! 珀英さまの子どもを産むのはわたしなんだからね! あんたみたいな不妊女とは違うんだから!」
なおも喚く陽花鸞には、もうなにを言っても無駄だと思った。
今となってはその妊娠すらなんの保証にもならないことを、どうして理解できないのか不思議なくらいだ。
「だいたいあんた、なんでまだ生きてんのよ! 死んだんじゃなかったの!? これ以上わたしの邪魔をしないでよ――〈稀代の悪女〉のくせに!」
「星徳妃」
静かに呼ばれて、はっとする。
隣を見れば、氷像のように冷たく鋭い美貌の皇帝が、喚く女を見下ろしていた。
「そなたはもうよい。戻っておれ」
その断固とした声音に、彼がなにをしようとしているか、わかった気がした。
皇帝の指示に逆らうべきではない。逆らう必要もないと、私も思う。けれどやはり、私も女として、これだけは言わずにいられなかった。
「大家――子どもに罪はございません」
「わかっている」
そう返す彼は、けれどこちらを見ようともしない。
(ああ)
私の声は、ここでもたぶん、届かない。
それでも珀英様がそう決めるのなら、私もそれに従おう。それが星徳妃として、桂帝国皇帝とともに生きるということなのだから。
私は静かに礼を残し、侍女頭と宦官を連れてその場を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます