一周回ってヒロイン転生 ~最推しは前世の夫です~

かがち史

一周回ってヒロイン転生

序 ハッピーエンドロール



 ――かつて夢見た光景が、まさに今、目の前に広がっていた。



 天より零れ落ちる光の粒のような音曲。

 地上のあらゆる寿詞よごとを散りばめた詩歌。

 舞う領巾ひれの翻りは蝶の翅のごとく優美であり、その姿を描き留めんとする筆先は蜻蛉の飛ぶごとくに確かである。


 決して交わることのない内と外が、この日ばかりは一体となって慶びの中に浸っている。後宮妃嬪と群臣王侯がともに居並び、壇上の二人を笑顔で言祝ことほぐ。



 今日という日は、晴れやかにて鮮やかな吉日だった。







「――せい徳妃とくひさま」


 華やかな壇上を見上げていた私に、ふと声がかかる。

 振り返れば、涼やかな立ち姿の女性がそこにいた。銀糸の刺繍が施された浅緑と縹色の襦裙姿――先日までは私と後宮を二分していた有力妃嬪であり、今となってはよき茶飲み友達である潭淑妃たんしゅくひだ。

 大勢の侍女を連れた彼女は、緩やかに拱手えしゃくをして隣に座る。


「盛大な宴席うたげになりましたわね」

「ええ、まこと。大家ターチャのお喜びが表れ出たかのようで」


 私たちが見上げた壇上に並ぶのは、この国の主である月珀英げつはくえい皇帝陛下と、今日この日に国母となった、陽花鸞ようからん皇后陛下である。

 じきに治世一年を迎える皇帝陛下が精悍な雰囲気をまとう青年である一方、その隣に座る皇后陛下はあまりに幼く、ともすれば少女にすら見える。とはいえそこに忌避すべき類いの印象はなく、若々しい両陛下の御姿は、この国の前途の洋々たるを示すかのようで快かった。


「……それにしても、市井から出たあの子が、本当に皇后陛下になるなんて」


 ぽつり、と呟いた潭淑妃に、私は笑う。


「私はわかっておりましたわ。あの子が大家を照らす陽光ひかりとなると」

「星徳妃さまは、早くからそう仰っていましたわね。徳妃さまこそ、大家のお隣を強く望んでいらっしゃると思っていたのですけれど」

「私が望むのは、大家の御心の安らかなることだけですわ」


 真意を窺うような目に微笑むと、潭淑妃もやがて肩を竦める。私が本心からそう言っていることを、ちゃんとわかってくれたのだろう。


(そう――)


 私は、皇后の位なんて望んでいない。


(だってそれは)





 後宮の最上位それは最初から、陽花鸞ヒロインのためのものなのだから。




 

 ――ここは、中華風世界の後宮を舞台にした、超人気乙女ゲーム『日月にちげつの契り』の中の世界。


 そんなことを知っている私は、もちろん、初めからこの世界の住人だったわけではない。もともとは、二十一世紀の日本に暮らす、実に凡庸な大学生だった。

 彼氏もできずサークルにも入らず、家と大学とバイト先の本屋を行き来するだけだった私の干物生活。それを華やかに彩り、豊かに潤してくれたのが、この『日月の契り』という乙女ゲームだった。


 舞台となるのは、中国唐代によく似たけい帝国。その後宮。

 超絶イケメンな皇帝陛下に選ばれるため、権謀術数、女同士の怨み妬み嫉み絡みを潜り抜け成り上がっていく――という言葉でまとめればよくあるやつだが、イラストの精緻な美麗さと、意外にもやり込みがいのあるシステムで、一大ジャンルにまでのし上がった乙女ゲームアプリだった。


 余談ながら、個人的に面白かったのは、主人公ヒロインの得意分野を四つの中から選べるシステムだ。

 ゲーム開始時、ヒロインはとある屋敷に所属する妓女ぎじょである。妓女、と聞くとなんとなくいかがわしいイメージが湧きがちだが、実のところは「芸は売れども身は売らない」、純然たる芸能従事者だ。プレイヤーは、その『芸能』の種類を選べた。


 ――言の葉で酒より甘美な酔いをもたらす『詩』。

 ――物語よりも遥かに雄弁な音曲を奏でる『楽』。

 ――春の日の蝶のごとく華やかに身を翻す『舞』。

 ――刹那の美しさを筆墨で永遠へと変える『画』。


 どれを選ぶかによって部分的とはいえイベントや台詞、シーン、スチルも変わり、そしてそのどれもが、溜め息をつきたくなるほどに素晴らしいものだった。

 当然、シナリオやデータも凄まじい量になっていたはずだ。それをひとまずでも滞りなく世に出してくれた中の方々には、本当に脱帽せざるを得ない。尊敬。


 そんな素晴らしいゲームの世界に――

 私が転生したのは、早くも二十四年前のことになる。


 向こうで死んだ時のことは、正直あまり覚えていない。バイト帰りの事故だった、という認識があるくらいだ。気がつけば私は自力で歩ける一歳児で、そう間を置かず、自我のハッキリした二歳児として裕福な家庭で育てられていた。

 そして成長する過程で、ここが大学生の自分がいた世界ではないこと、それどころかドハマりしていたゲームの世界らしいこと、おまけに自分の父親が、ゲーム内に腹黒宰相として登場する星陶哲せいとうてつであることを知って、まあ驚いたし混乱したし、正直めちゃくちゃ絶望した。


 なぜなら彼の次女である星光眞せいこうしん――つまり私は、後宮にてヒロインを虐げる『稀代の悪女』キャラだったからだ。


 世に見る悪役の常として、星光眞に用意されていた末路も、到底ろくなものではなかった。一族郎党を巻き込んだ没落か、悲惨で孤独な死だけである。

 もちろん私は、どちらも御免だ。

 せっかくの転生なのだから、できることなら幸せになりたい。いずれヒロインにすべてを持って行かれるとしても、最推しである月珀英のそばに少しでもいたいと腹をくくって、それからの人生を歩んできた。


 幸い、悪女として名を馳せるだけあって元はいい。多少キツめな顔立ちではあるものの、美少女から美女へと育つ素養は十分あった。外見と家柄は申し分なく、実際に後宮入りした身なのだから、あとは己の努力次第だった。

 同じ素養を持つ姉妹を前世から引き継ぎの知識と精神年齢で引き離したり、腹黒宰相な父親のお眼鏡にかなう努力を重ねたり。かつてなく美意識を磨いたし、かつてなく人当たりいい人間を目指してもみた。


 ――そうして見事、私が東宮妃の一人に選ばれたのは、十九歳の時。


 その日のことを思い出して、私はそっと、胸元を押さえる。


 前世からの累計四十路になろうかという歳で迎えたあの夜のことを、私は今なお、忘れられない。

 どんな宝玉でも敵わない、私の大切なたからものだ。


 それだけを我が身の宝として――私は、彼のになろうと決めた。


 当然それは、とても苦しい選択だった。

 けれど破滅よりは、よほどマシだった。


 かつて別世界で狂おしいほど愛した人だ。その手に触れることも、言葉を交わすこともないと諦めていた男性ひとと相まみえ、夫婦にまでなれたのだから、固執と嫉妬で心を狂わせる必要はない。近くで見守れるなら、それでいい。


 幸いにして、年若い皇太子が欲していたのは、対等な話し相手だった。見た目以上の精神年齢である私はその役にぴったりだったようで、夜伽抜きでも、気軽な時間を過ごせる関係を築き上げることができた。聡明な彼と語らうひと時は、私にとって、これ以上なく幸せなものだった。



 そして光陰は矢の如く流れ去り――



 先帝が病により崩御して、我が友にして夫が帝位に着いた春のこと。

 即位祝賀の宴席で、とある美しい少女が見出された。



 平民の妓女という身分を飛び越え、彼女が後宮入りするだろうことは、一目見ただけですぐにわかった。なぜなら、西域の血を引いた金髪碧眼のその姿は、かつてゲームの画面上で見た、まさにそのままだったから。


 この『日月の契り』のヒロイン。陽花鸞。


 ついに彼女が現れて、そして私にとっては、そこからが本当の本番だった。





 ――破滅したくない。悪女にはならない。


 そう心に決めた私がとった行動は、ただひとつ。

 彼女を皇后位へと導くことだった。


 後宮入りした彼女に対し、いびり過ぎない程度の試練を課すことで陛下の目を向けさせ、物慣れない少女が行き詰まらないよう手配もしつつ、上手く乗り越えられれば褒め上げて周囲の評価を上げていく。その繰り返し。

 現実とゲームの差異だろうか、時に思わぬ言動をするヒロインを導くのは大変だったが、もともと彼女の後ろ盾要員だった潭淑妃とも事前に交流をもっていたおかげでなんとかなった。


 私を友人として訪ねてくる陛下の相談にも親身になって応じ、金髪碧眼の美少女はみるみるうちに成長を遂げ――


 そうしてようやく、この日が来たのだ。



「本当に――めでたきこと」



 唇を綻ばせ、私は壇上の二人を見上げる。

 彼らがまとう、白銀と黄金の輝きを。


「はあ……お二人がともに並ばれると、ほんにお美しいこと」

「まるでお生まれから対として、天帝の御手でしつらえられたかのようだわ」


 周囲の妃嬪たちがうっとり囁く通り、若き両陛下は、まさに神が作り給うた一対の宝飾品のようだった。


 御年二十六におなりの珀英皇帝陛下は、月氏皇室特有の銀髪に、怜悧な印象の整った顔立ち。一見ただの黒にも見えるその瞳が深い藍色をしていることは、間近に接したものしか知り得ない。私がそれを知っているのは、前世でこのゲームを相当にやり込んだからと――身を引いても有力な妃嬪の一人。彼の褥に侍った夜が、それ相応にあったからだ。

 一方、十七歳で後宮に入ったヒロインこと新皇后・花鸞は、柔らかに照らす春の陽のような金髪と、淡く澄んだ空のような碧眼を持つ美少女だ。彼女は四つの才能のうち『舞』を選んだ花鸞ヒロインらしく、しなやかに弾む肢体を持ち、内から輝くような笑顔を見せる素敵な子だった。


(……芸のない黒髪黒目の私では、あれほど見映えはしなかったわね)


 桂国の標準的色彩とはいえ、らしい自分の色味を思い、ちょっと苦笑。


(なにはともあれ)


 陽花鸞ヒロインが後宮に入って一年。

 これは今、ようやく迎えたハッピーエンドロールなのだ。


 私は悪女にはならなかった。珀英や花鸞との関係も良好だし、潭淑妃を味方につけた後宮の雰囲気も悪くない。腹黒な父親が余計なことをしないようにも気をつけたし、私が破滅する要因は、これですべてなくなったはずだ。


 この世界に『稀代の悪女』として生まれ変わり、けれどその運命を変えてみせた。

 改めてそれを思い、やり遂げた充足感が胸に満ちる――。


「星徳妃さま。そろそろご挨拶に」


 侍女頭に促され、臣下の言祝ぎがじき途切れることに気付く。潭淑妃との協議の結果、後宮筆頭として先に立つことが決まっていた私は、頷いて席を立った。

 壇の下で緩やかに一礼すると、夫であり友である人の声が降ってくる。


「――星徳妃」


 快い声音で名前を呼ばれ、私は礼節を守って頭を上げる。

 微かに親しげな色を帯びた藍色の瞳に、つきん、と胸が痛むけれど、それを無視して私は微笑みを向けた。


「この嘉き日を迎えられたこと、内官一同、心よりお慶び申し上げます。大家、娘娘にゃんにゃん


 いくつも年下の新皇后に、私は深く礼をする。未だ面差しに幼さを残す彼女は、無垢な中にも真摯な眼差しで、真っ直ぐに私を見下ろして頷いた。


「ありがとう、星徳妃。後宮での日々、あなたのお力添えがあったこと、わたくし決して忘れませんわ」

「ありがたきお言葉にございます」


 再び優雅に一礼すると、珀英が心地良い声で「酒盃さかずきを」と促す。この桂国では、祝いの席で、祝うものと祝われるものとが朱塗りの酒盃を交わす習慣があるのだ。挨拶に筆頭が必要なのも、それが由来だったりする。

 最初に皇帝陛下、次に皇后陛下が口をつけた酒盃が、側仕えの手を経て私のもとへと下される。この国の最上位に位置する二人へ、目礼で酒盃を捧げ持ち、私はそっと唇をつけた。


 祝いの酒盃に満たされるのは、北方から取り寄せられた神酒である。これまでも何度か口にしたことがあったが、この時のそれは、なんだか妙に甘い気がした。

 少量を嚥下した私は微かに首を捻り、


「ぐっ……!?」


 直後、身の内に起こった焼け付くような強い痛みに、思わず酒盃を取り落とした。


(……痛い! 熱い! なに、これ……!?)


 大袖きものの胸元を握り締め、堪え切れずに倒れ込む。

 異変に気付いた周囲から悲鳴が上がるけれど、構う余裕などあるはずもなく、焼けた喉奥からこみ上げる血をただ吐き出す。


「どうして! わたくしと陛下は平気だったのに!」


 ひときわ高い悲鳴とともに、誰かが私のそばに駆け寄る。「徳妃さま! 星徳妃さま!」と泣きそうな声音で私を呼ぶのは、陽花鸞だ。

 彼女はもう皇后なのだから、私に敬称はいらないのに……じくじくとした身内の痛みに焼かれたまま、目を上げると、彼女の美しい色彩が見えた。


 輝く金の髪と、澄んだ青い瞳。


 どこかで、珀英が典医いしゃを呼ぶ声がする。珍しく切迫したその声音が、場違いにも嬉しく思えてしまう。

 ……間に合えばいいな、と微かに願う。

 でも、あまり期待はできなさそうだ。痺れ始めた手足の先に、広がり続ける痛みの範囲に、この世界への諦めを促されているようだった。


(やっと、ここまできたのに)


 推しの幸せを間近で見守る、私の穏やかで幸福な日々が、すぐそこに待っていたはずなのに。


 彼の幸せとなる人が、私を覗き込んで、泣きながら呟く。


「ごめんなさい……ごめんなさい、星徳妃さま」


 あなたが謝ることじゃない。

 そう返したいのに、唇は上手く動いてくれない。

 苦痛に喘ぐだけの私に、泣き濡れた声音で、彼女はそっと囁いた。


 私にはとても、信じられないことを。



「――やっぱりわたし、あなたのことは信用できないの。たくさん役に立ってくれたけど、これ以上はいらない」



「っえ、……」


 この子はいったい、なにを言っているんだろう。


 涙で潤んだ空色の瞳が、紅を掃いて鮮やかな唇が、ひそやかに笑みの色を浮かべているように見えるのはなぜだろう。憂いと悲しみが滲む声音の奥に、勝利の気配が聞こえるのはなぜだろう。


 そんなはずはない、と打ち消す私を、彼女はその大袖で抱き寄せた。命尽きるものを労わるように――周囲の視線から断ち切るように。


 そして彼女は、まるで歌うように。



「だってあなたは――『稀代の悪女』なんですもの」



 そう、言った。



「な……!? かはっ……」


 なぜそれを、と吐き出しかけた言葉の代わりに、せり上げた鮮血が口から溢れ出る。烈しい痛みが鈍くなるにつれ、息も途切れて、視界が霞む。


 薄れゆく世界。

 遠ざかる身体。


 美しい髷から零れ落ちた金の髪が、きらきらと、まばゆく輝いて――。





 そして、私は途切れた。








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