第二部 星々の学び舎
第15話 出発の日
そういうわけで、ひょんなことから私ことステラ・シャリテは、生まれ育った森を離れて、父とともに王都へ向かうこととなった。
引っ越しの準備は簡単である。家財道具はすべて燃え、唯一の大型家畜である馬は弔った。数羽の鶏はトロー家に譲ることにして、以上、後は焼け出された着の身着のまま、花の都へと向かうだけ。
……とはいかないのが、現実である。
「そりゃそうよぉ。ステラちゃんは可愛いんだから、しっかり磨いておかないと」
そう言って私の髪を石鹸で洗ってくれるのは、事情を知ったその足でついて来てくれた、トロー家のおかみさんことユゲット・トロー。私は単に「おばさん」と呼んでいるその人は、たいそう恰幅が良くのんびり屋でありながら、非常に目端が利く働き者である。こちらが「一人で大丈夫」と言うのも聞かず、お風呂場にまで一緒に入ってきて、あれこれと世話を焼いてくれている。
(そういう扱いに慣れていて、拒み切れない私も私だけど)
なんせ前世は後宮妃である。実家の権勢のおかげで、浴室にはいつでも専用の侍女が五人はいて、いわゆる「寄ってたかって卵肌」状態が日常だった。同性に肌を見られることへの羞恥も、他人に身をゆだねることへの抵抗も、あの頃を思い出してみれば皆無に等しいのである。むしろ懐かしいレベルだわ。
「じゃあ、泡を流すわね。熱かったら言ってねえ」
はあい、と私が返事するのを待ってから、手桶でお湯をかけてくれるユゲットおばさん。顔にかからないよう丁寧に、何度も洗い流してくれる――そんな贅沢なお湯の使い方ができるのは、当然、ここが森の中ではないからだ。
ここは丘向こうの村の礼拝堂。父の容態が快復し、周囲の安全が確認された途端に連れて来られ、王都に向かうまでの滞在場所として借り上げられた司祭の館だ。
……そんな場所を誰が借り上げたかって? もちろん第一王子さまですよ。
まあ、ヴィクトルは「そうすればいい」と言っただけで、実際に動いたのは従者のほうだけど。権力者の一言のあるなしで、こういう物事の成功率はずいぶん違ってくるものだ。お忍びでも、その威力は絶大だった。
そういうわけで、私と父がここへ移って、ユゲットおばさんが来てくれて。諸々の準備が整うまでの今日、私は磨かれて過ごしているのである。もうピッカピカ。
お風呂を上がった私の肌と髪には、さらに香油が塗り込まれ、上品で甘やかな香りが焚き込まれたワンピースドレスを着せられる。よくよく梳られた髪は緩やかに編み込まれ、後ろで留めた他はそのまま背中に。司祭の館とはいえこの田舎に鏡はないが、わざわざ映してみなくても、見違えるほど綺麗になったのだろうと思う。
そんな私をとくと眺めて、おばさんは、ウキウキと化粧品をあさりだした。
「やっぱり、女の子のお支度は楽しいねえ。うちにも息子だけじゃなくて、娘がいればよかったのにねえ」
その言葉に、あれ? と私は首を傾げた。
「そういえば、おばさんちには女の子いないよね。その割に、なんだかすごく手慣れてる気がするんだけど」
「そりゃそうよぉ。だってわたしは、エトワールさまの侍女だったんですもの」
「……えっ?」
「旦那もそうよぉ。あの人がエトさまの護衛をしている時に出会ってね、ラウルも今はあんな子だけど、生まれは王都だったんだから」
さらりと告げられた内容に、思わず相手を凝視する。そんな私を楽しげに笑って、ユゲットおばさんは、伸ばした紅を薬指で私の唇に乗せた。
「王都まで、わたしたちもついて行ってあげればいいんだけど……エトさまを置いてはいけないからねぇ」
しんみりとした呟きに、昨日、しばしの別れを告げてきた母のお墓を思い出す。
そこは、家からほど近い森の高台。大昔の巨木が倒れたそのままの姿で苔むして、他の樹木を寄りつけなかった空き地である。よく陽が当たるその場所には、春から秋にかけて花々が咲き誇る。生前の母が気に入って、よく一緒にでかけたその場所に、私たちは彼女のお墓を作った。
(たった一つの絵姿は、燃えて、なくなってしまったけど)
今は物言わぬ土中の母を、それでも置いていけないと言ってくれる人がいることが嬉しくて、なんだか視界が滲んでしまう。
俯く私の眦を、そっと指先で拭って、おばさんは微笑む。
「さあ、できた。やっぱりエトさまに似て美人だねえ」
「……ありがとう、おばさん」
「どういたしまして。……まあ、本当はもっと、ちゃんとお支度をしてあげたかったけど」
大祭明けの田舎の村に、余分な物資はあまりない。それでなくても、身の安全のため余計な情報は洩らせない。必要最低限の旅荷物だけで、私たちは王都へと旅立たなくてはならなかった。
その必要最低限の中で私を磨いてくれたのだから、なるほど、さすがは母の侍女だった人だ。
「十分よ。――これで十分」
心の底から頷いたその時、ふと部屋の扉がノックされた。
そして続く、少年の声。
「突然すまない。おれだが、話があるので入ってもいいだろうか?」
「――ヴィクトル様!?」
あらあら、と驚きながらも応対に出たユゲットおばさんと言葉を交わし、入室してきたのは間違いなくヴィクトル王子その人。まさか直接、彼本人が部屋を訪ねてくるとは思いもせず、椅子から反射的に立ち上がった姿勢のまま、私はしばし、ぽかんとしてしまった。
……だって、貴人の移動には先触れがあるものじゃないの!? 従者もいるはずなのに、どうして王子殿下が扉をノックするのよ!?
そうして私が固まる間、向こうは向こうで、ぽかんと私を見つめ返していた。その間のおかげで、はたと我に返った私は、慌てて跪こうとして思い留まる――危ない、それは桂国の慣習だ。そういえば私、ここでの礼の仕方を知らないぞ。
どうしよう、と戸惑ったその隙に、今度は向こうが気を取り直した。眩しいものでも見るように、緋色の双眸を僅かに細める。
「……見違えたな。少し地味だが、そのまま貴族令嬢として紹介しても差し支えないくらいだ」
「まあ――田舎娘を励ましていただいて、ありがとうございます」
そんな笑顔と返礼の言葉は、考えるより先に飛び出していた。
「ヴィクトルさまにそう仰っていただけるなら、王都の高貴な方々の御前でも、いくらか気後れせずにすみそうです。お気遣い感謝いたします」
「えっ? ああいや、おれは本当に――」
なにかを言いかけたヴィクトルは、はっと思い直したように口を閉じる。それから一人、困惑したように前髪を掻き、結局「まあいいか」と首を振った。
「それより、道中の段取りがついたぞ。――明日の早朝、おれたちは二台の箱馬車で王都へ出発する。先の馬車におれとパトリス、後の馬車にきみとリディアで、ディオンをそちらの護衛につける」
「まあ。よろしいのですか? 殿下の従者を、こちらにお付けいただいて」
「もちろん。いくら〈
「……私はご令嬢ではないのですが」
「わかっている。だが今、令嬢より大事な〈星女神の乙女〉だと、世間に喧伝するわけにもいかないだろう」
「…………そうですね」
そういう意味ではなかったし、それについては私も今一度よく考えなくてはならないとは思っているけれど、ここはあまり細かく言わないことにする。つまるところ、私は彼らの〈乙女〉でない身分として王都入りしなくてはならないと、そういうことだ。……こちらは最初から、そのつもりなのだけど。
翌日の打ち合わせを簡単にすませ、ヴィクトルが退室する。それを見送ってから、すっかり壁と一体化していた優秀な元侍女が、ふと不可思議そうに私を見た。
「ステラあなた、とってもよく口が回るのねえ。今の殿下とのやり取り、まるで本当のご令嬢みたいだったわよぉ」
「……あ」
まずい。うっかりだ。おばさんの気配の潜め方があまりにうますぎるせいで、つい油断してしまった。慌てて笑顔の種類を変える。
「そ、そう? 王子さまに失礼があったらいけないと思って頑張ったんだけど、おばさんがそう言ってくれるなら大丈夫かな! うん、よかった!」
「そうねえ、言葉遣いは合格かしらね。あとはそう――」
優しかったユゲットおばさんの丸い目が、キラリと光る。
それは間違いなく、デキるお人の仕事の顔で。
「目上の方への礼の仕方は、しっかり覚えてもらわなくちゃ。ねえ?」
私は一も二もなく頷いた。
「――よろしくお願いします!」
そして翌日。
ユゲットおばさんと村の司祭、そして村長に見送られ、私たちは村を出発した。
(……ラウルもおじさんも、結局、来てくれなかったな)
「いろいろと後始末がある」と残った彼らとは、森で別れたのが最後になってしまった。それも慌ただしかったから、しんみりする暇すらなかったのに。
(ま、仕方がないか)
人生を三度も重ねると、別れと諦めには慣れてくる。
どこかの誰かが言っていた、「死に別れ以外は別れとは言わない」という言葉が、つまるところ、真理なのだろうとも思う。
生きてさえいれば、『きっといつか』を望めるのだ。
王都までの道のりは、ヴィクトルが用意した馬車で一両日。途中の街で一泊し、あとは目的地まで駆け続ける。
本当なら、昼夜関係なく進み続けたほうがいいんだろうけれど――
一ヶ所に留まる時間が長いほど、情報が余所へと流れてしまう。一度命を狙われた以上、確実に安心できる場所までは、決して気を抜くわけにはいかない。
それでもそれゆえ、目立つ動きは避けるべきと言ったのはヴィクトルだ。昼夜なく駆ける箱馬車ほど怪しいものはないと言って、暗殺者とのチキンレースを仕掛けるよりは、と夜間の休憩をとってくれた。
そしてその束の間の休息に――
思いもしない、衝撃の事件が起こったのである。
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