第37話 冬至祭③:リディアーヌ・リオン
***
「ひとまず行ってまいります。始まるまでには戻るつもりですが、もしもの時は、なにかとよろしくお願いいたします」
「……わかったわ。気をつけてね」
金髪と青いドレスを翻して、回廊を足早に去っていくステラ。
あたしはその背中から目を離せずにいたけれど、なにも知らないヴィクトルさまに手を取られて、彼を見上げた。
「さあ、おれたちも行こう、リディアーヌ。ステラなら大丈夫だ。おれたちは、おれたちの役割を果たさなくては」
王子らしいことを口にしながら、笑みに細められた緋色の瞳は、思いやりに溢れて温かい。繋がれた手に満ちる生命の熱が、突然、強烈なものとして意識された。
(この人を守れるのは――今は、あたししかいない)
ステラが戻るまでは、あたししかいない。
そう思うと身が引き締まる。どうしようなんて、不安になっている場合じゃない。あたしがしっかりしなくては。
ステラのアドバイスで、パーティー会場には例年より厳重な警備を敷いてある。「王族の方が二人に〈星女神の乙女〉までいるのだから、それくらい当然ですよね?」という手紙をお父さまに送ったら、すぐさま手配してくれたのだ。「気分が悪くなった人のために」と付け足して、腕のいいお医者さまも呼んでもらっている。
(ありがとう、お父さま)
ゲームのお父さまは厳格で取り付く島のない強面キャラだけど、今のお父さまは、厳しく見えて娘に甘い強面キャラだ。今度の長期休みには、めいっぱいのお礼を伝えようと心に誓う。
会場入り口でチェックを受ける参加者たちを横目に、貴賓客用の控室へ通される。ここの仕切りも実行委員会らしく、すぐにジェラルドさまがやってきた。
「準備はできているか?」
「準備?」
はてと首を傾げると、呆れたようにしかめ面をされる。
「最初に両殿下と〈星女神の乙女〉、それぞれのペアには中央に出て、みなの前で踊ってもらうと伝えてあっただろう」
「あっ、そうだった!」
このダンスパーティーでは、最初に、ヒロインを含めた主要キャラたちだけがダンスをするイベントがある。事件の前の、心躍る甘いひと時であるそのイベントに、そういえばあたしも出るのだった。
まったく、と息をついたジェラルドさまは、ふと辺りを見渡した。
「ん? ステラ・シャリテはどこだ?」
「すみません、ジェラルドさま。ステラはオルビット先生のお呼び出しで、まだ戻ってきていないんです」
「オルビット先生の?」
怪訝そうに眉をひそめる。
「先生なら、午後からずっと、そこで監督してくれているが?」
「えっ……?」
示されたそこには、確かにあたしたち第一学年の主任教師であるジレーヌ・オルビット先生の姿。
でも、もしかしたらステラとの用事のために少し抜けて、ついさっき戻ってきたところかもしれない。そう思って聞きにいったのに、先生から返った答えは、あまりにも予想外のものだった。
「呼び出しなどしていませんよ。この忙しい折に、わざわざパーティー前を選んで用事など、言いつけるはずがありません」
「うそ……」
これはいったい、どういうことなのか。
混乱しているあたしの後ろから、ぬっと影が身を乗り出す。それは見たこともないほど険しい顔をしたラウルで、彼は礼儀も頓着せず、ごく端的に聞いてきた。
「おい、ステラはどこに行くって?」
ヴィクトルさまが即座に答える。
「第四講義室だ」
「わかった」
聞くや否や駆け出していくその背中に、「ちょっと……!」と驚くオルビット先生。慌てて事情を説明すると、彼女は眉間に、ぎゅっと強くシワを寄せた。
「ただの悪戯ならいいですが……大事を取って、パーティーは中止にしましょう。他の先生方にも知らせてきます」
「えっ? 待っ――」
「待ってください」
あたしを遮り、先生を引き留めたのはヴィクトルさまだった。
「悪戯でもなんでも、ここまで準備が整ったものを中止にしては、みなも収まりがつきません。ステラが無事に戻ったとして、彼女を口さがなく言うものも出てくるでしょう」
「しかし――ヴィクトル殿下。あえてそう呼ばせていただきますが、あなたやセルジュ殿下に、もしものことがあっては」
セルジュさまとミュリエルも、すでにここにいて話を聞いていた。だからといって彼らに
「会場の警備は、リオン公爵家が請け負っていると聞いています。リオン公の人柄と手腕について、不審があるとは思いません」
「そうだね。それよりもオルビット先生には、ステラ・シャリテの保護をお願いしたほうがいいと思うのだけど」
セルジュさまに言われて、あたしも先生もはたと気付いた。ラウルが向かったとはいえ、なにが起こっているかわからない状況だ。頼りになる大人にも、駆けつけてもらったほうがいい。
先生は、すぐに迷いを切り上げた。他の教師にも事情を伝達するように言い置いて、急ぎ会場を後にする。
「……本当によろしかったのですか?」
ミュリエルが、慎重に言葉を挟む。
「実際、
「先程も言った通りです。それはできない」
即答したヴィクトルさまに、セルジュさまも「ああ」と同意する。
「最初のダンスを僕たちがすることは、学院中が知っているからね。下手に姿をくらますと、余計な憶測に恐怖に混乱と、厄介な展開になりかねない」
「それはわかっていますが……」
ミュリエルの躊躇いは、あたしもわかる。いや、あたしのほうが、もっとわかっているとも言える。“なにが起こるかわからない”のではなく、“すでになにかが起こっている”とわかる分だけ。
(……ステラはきっと、大丈夫。あの〈
気合いも新たに目を上げると、ヴィクトルさまと視線が合った。
「心配するな。なにがあっても、きみのことは、必ずこのおれが守る」
「ヴィクトルさま……」
憧れの推しキャラにそんなことを言われて、有頂天になれない自分が、この状況が惜し過ぎる。だけど、だからこそあたしの決意は、より強固なものになった。
(あなたのことは、必ずあたしが、守ってみせる――)
そうするうちに時間になり、あたしとヴィクトルさまを先にして、四人で会場内へと向かう。万雷の拍手を浴びて扉をくぐると、見慣れたはずの講堂は、シャンデリアや花綱で飾られた見事な舞踏室へと変貌していた。
拍手が収まり、ワルツが始まる。ヴィクトルさまの迷いないリードで、あたしたちはフロアを回り始める。そうしながらも周りの人垣が気になって仕方がないでいると、突然、思わぬターンで抱き留められて心臓が飛び上がった。
「――集中しろ、リディアーヌ。今日は全校生徒の前で、何回おれの足を踏むつもりだ?」
「そっ、そんなつもりありませんよ! まだ一度も踏んでいないでしょ! 見ていてください、この曲は完璧に踊ってみせますから!」
「どうだかな。期待しよう」
明らかに信じていない風に言われて、むむっと唇をひん曲げる。すると途端に、緋色の瞳が愉快げに弾んだ。推しの笑顔が尊くて、思わずあたしの頬も緩む。
ヴィクトルさまは顔を寄せ、「それでいい」と囁いた。
「きみに元気がないと、みなが心配する。きみが笑顔を見せるだけで、みなは安心するんだ。――いつものように堂々と笑っていろ。それがおれたちの役割だ」
「……はい」
だけどあたしは、それでも気をつけておくべきだった。
――その動きに真っ先に気付いたのは、ヴィクトルさまだった。
人垣が外から押し破られるように崩れ、たくさんの悲鳴が上がる。その時にはすでに、あたしは彼の背に庇われていた。「何事だ!」「なにが起こった!」と警備や教師が殺到するのは見えても、どうなっているのかわからない。
けれど――そんなあたしだったから、気付くことができた。
誰もが注目する騒ぎの中心。それとはまったくの別方向から、静かに滑り出してきた鈍色の影。解き放たれて波打つ真っ赤な髪と、その手に握られた、光を呑み込む黒い刃物。
その切っ先は、真っ直ぐヴィクトルさまへ向いて。
「――危ない!」
無我夢中で彼の腕を引っ張った。想像より重い手ごたえに、いつもと違う靴が床を滑って、あたしが前に飛び出すようになる。ヴィクトルさまと刃の間――そこにあたしの身が踊る。
一瞬の景色。
驚愕に見開かれた襲撃者の目が、シャンデリアの光にきらめいて綺麗だった。
「――っリディアーヌ!!」
切迫した声が聞こえた時には、あたしは、刃を自分の脇腹で受け止めていた。鈍い衝撃と鋭い痛みが、焼ける熱となって脳天まで突き抜けた。それだけでも大変だったのに、動揺したらしい相手が刃を引き、傷口から血が溢れ出た。
(痛い。熱い。でも――)
傷を押さえて顔を上げる。誰よりも蒼白になった少女が、そこにいる。信じられないような顔をして、後ずさる彼女に、あたしは頑張って笑いかける。
「大丈夫よ、オデイル。あたしは大丈夫だから。あなたはなにも、悪くないから」
「……あ……あ……わたくし、そんな……そんな……――!!」
震える声が引き攣れる。
次の瞬間、返された刃が彼女自身に向かうのを見た。
「駄目です止めて!!」
痛みも忘れて叫ぶと同時に、オデイルの手から刃が弾き飛ばされる。継いでそれをした誰かが、難なく彼女を拘束する。
それらを見届けてホッとすると、途端、眩暈に襲われた。
(あっ……これ、まずいかも)
ゲームでは、オデイルが振るう刃物には毒が仕込まれていた。解毒薬が出回っていない珍しい毒だ。それと同じだとすれば、つまりあたしは、死の縁に立っていることになる。
ゲームでは、その毒を受けた攻略対象を、主人公が助ける。真実の愛に応えた〈一角獣〉が、奇跡の力で浄化するのだ。
ゲームでは、だから、大丈夫だけど。
「医者を! 早く!」
情けないけれど、もう瞼を開けていられない。真っ暗になった世界の中で、それでも一番近くで、ヴィクトルさまの声がする。
(ああ――……)
彼の声を聞きながら、彼の腕の中で死ねるなんて、なんて幸せなんだろう。
曖昧になってきた意識の中で、いつか、ステラから聞いた話を思い出す。
“ステラ”となった“彼女”が、前世を過ごした世界での終わり。突然訪れた死の間際を、彼女は詳しく語らなかった。彼女もまた、こんな最期を送れたのだろうか。それとも――
「――リディアーヌ! リディアーヌ!!」
「リディアーヌさま!」
必死の声で呼ばれている。
応えたいけど、声が出ない。
(最期にもう一度だけ、ヴィクトルさまの笑顔が見たかったなあ……)
そう、思った時だった。
『少しでも悔いがあるのなら、そう簡単に死ぬものじゃないよ』
――温かな風が吹き抜けた。
柔く爽やかで、それでいて力強いその風は、あたしの身体に凝っていた熱や痛みや靄のすべてを一気に吹き飛ばした。残ったものの軽さと清らかな心地良さに、驚いて目を開けようとする。上下の瞼が糊でくっついたように苦労したけれど、やがてどうにか開けることができた。
そして、愛しい人の顔を見た。
「リディアーヌ……!」
あたしを見つめる赤い瞳。少し乱れた金の髪。品よく据わった鼻筋も、見開かれた目の形も、微かに震える唇も、すべてを心から愛しく思う。
「……ヴィクトル、さま」
声が出た。掠れてひっくり返りそうだけど、痛みも苦しさもどこにもなかった。不思議に思って起き上がろうとしたあたしは、途端に、彼の腕に抱き竦められた。
驚く間もなく、切実な声が耳を打つ。
「よかった、本当に……よかった」
「ヴィクトルさま……」
震える背をそっと抱き返す。温かく、血が通った身体。脈打つ鼓動が感じられる。彼の鼓動も――あたしの鼓動も。
その肩越しに目を上げると、真っ青なドレスを着て凛と佇むステラがいた。彼女の隣には真珠の輝きをもつ〈一角獣〉が控え、きらびやかな舞踏室を背景に、それはまるで、一幅の宗教画のように見えた。
星女神に遣わされた聖なる乙女、ステラ・シャリテ。
彼女がこの冬至祭の夜、人々の眼前で起こした奇跡と、それがこの先、末永く語り継がれていくこと。王族を庇い、聖女と星獣に救われたものとして、リオン公爵令嬢の存在までがその奇跡譚に組み込まれていくこと――
この時のあたしは、そんなこと一つ知らないまま、ただ穏やかに、生まれ変わったかのような気持ちで愛する人の腕に抱かれていた。
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