第11話 キミが望むなら
煙のにおいは、森の奥へ進むにつれ、私の鼻でもわかるようになった。
鼻の粘膜を刺激する、つんとした嫌なにおい。本能的な恐怖が背中を後ろへ引っ張るけれど、それを越える焦燥感に、私は前へ前へと突き動かされていた。それを感じ取ったかのように、相乗りするヴィクトルの馬も飛ぶように森を駆けた。
そうしてラウルの相棒たちに先導されて辿り着いた我が家は――赤金色の暴力的な火に包まれて、青空に黒煙を立ち昇らせていた。
「うそ……!」
木組みと土壁でできた家。それほど燃えるところなどないはずなのに、めらめらと踊る炎は、信じられないほどの高さに見えた。
愕然と立ち尽くした耳元で、『ステラ!』となじんだ声が言う。
『パトリスが――』
「――お父さん!?」
はっと我に返って目を凝らす。我が家が燃え盛るその足元。炎と煙に背を舐められるようにして、俯せに倒れる姿があった。
そうとわかった途端、私は駆け出す。「待て」と引き留められたような気もしたけれど、止まることなどできるはずもなかった。身を炙る熱気になど構わず、私はその隣に膝をつく。
「お父さん!? お父さん!!」
呼びかけに答える声はない。それどころか煤けた瞼はぴくりとも動かず、呼吸の気配も感じられない。とっさに揺り動かそうとして、その背を黒く見せているのがただの煤ではないことに――服ごと炭化した皮膚だと気付き、息を呑む。
割れた肌から覗くのは、白い脂肪と赤い体液。一目見て、重度の火傷であるとわかった。背後に追いかけてきた足音が、怯むように止まるのが聞こえた。
けれど今は、どうでもいい。
「火傷、火傷の軟膏は……ああだめ! 違うわよ、まずは傷をどうにかしなきゃ! 炭化を削って、それから、ああ、でも道具が……!」
「――っステラ! 危ないわステラ! ひとまず下がって!」
「ああ、うそ、うそ、だめ……!」
焦りばかり募って考えがまとまらず、肩に触れた誰かの手もすぐ振り払う。
我が身の危険なんてどうでもいい。どうしてこうなったのかもどうでもいい。ここで父を置いていけば助からないと、そのことだけが、私の頭を占めていた。
――私は二回、死んできた。
事故で死に、毒で死んだ。
けれどそのどちらの人生でも、肉親を亡くしたことはなかった。日本の両親はまだまだ現役で元気だったし、桂国の家族も、名宰相となった父を筆頭に活躍していた。そんな中で、ただ私だけが死んできたのだ。
それがここに来て、母だけでなく、今また父まで失うなんて。
(――嫌だ!)
そんなのは嫌だ。
そんなのはダメだ。
彼は私を愛してくれた。最愛の妻の亡き後も、忘れ形見だと慈しんでくれた。ようやく得られた心穏やかな日々は、この父のおかげであったのに。
その愛もまだ返していないのに。これから返していくはずだったのに。
「下がれステラ! その傷じゃ、親父さんはもう――」
「――いや!」
再び肩に触れた手を、その言葉ごと振り払う。
違う。まだ終わっていない。まだ諦められない。だって、まだ。
(まだ――あの子なら)
私は顔を上げた。見据える先は、私を溺愛する星の獣。いつもなら誰より先に手を差し伸べてくれるのに、今はなぜか、私たち父娘を見下ろすだけでいる相手。
けれど今の私には、それに疑問を差し挟む間も惜しかった。
周りの目など、構ってもいられなかった。
動かない父を火の粉から庇い、そうしながらもまっすぐにその姿を見上げ、私は、奇跡の存在に懇願した。
「――お願いユニ! お父さんを助けて! あなたならできるでしょう! お父さんを癒して! 助けて! 私にできることならなんでもするから……お願い!」
『いいとも、ステラ』
拍子抜けするほど軽い了承に、目を瞬く。
そんな私を笑うように小首を傾げ、仔馬姿の星獣は言った。
『キミがそう、望むのならば』
――その瞬間。
世界が、目の前で弾けた気がした。
「っ――」
なにが起こったのかわからない。
ユニを中心として透明ななにかが膨らみ、弾け飛んだかのようだった。
それはあたかもシャボン玉のような、繊細で鮮やかな破裂の気配。目の前で起こったそれに思わず怯んだ間隙に――気付けば、父の向こう側に、見知らぬ神々しい生き物が現れていた。
「え……」
真珠の毛並み。夜の瞳。虹を閉じ込めたかのような額の一本角。
それはとても見慣れた色合いで、けれどそこにいる相手は、すらりとした肢体をもつ成獣だった。年若く華奢な馬のような姿をした、しかし尋常ではない獣。
それは、星女神の加護を運ぶ獣。
「〈
誰かの声に、これが私にだけ見えているわけではないと知る。
周囲の驚愕など知らぬげに、優美な獣は、尾を一振りした。途端、一陣の風が巻き起こり、まるで見えない一枚布でくるむかのように、その突風は燃え盛る家を取り巻いてしまう。そしてあれほど燃え上がっていた炎をすべて、天へと吸い上げるようにして、跡形もなく消し去ってしまった。
唖然とするよりほかない私たちを置いて、その獣は悠然と身震いする。
『この姿も久しぶりだな。まあ、今ので加減は思い出したけど』
そう呟いた獣は、滑らかな鼻面を私に向けて、柔らかに目を細めてみせた。
――私の愛する彼と同じ、夜の色をしたその双眸を。
『星女神の乙女、ステラ』
「わ、たし……?」
掠れた声に、優美な獣は、そうだよ、と当たり前のように答える。そして。
『星女神の名の元に、ボクはキミの祈りを受け取ろう。キミの父であるこの男に、女神の癒しを与えよう。――さあ』
どいてごらん、と促され、信じられない思いのまま父の上から身を起こす。
〈一角獣〉は、すっと見惚れるような動きでこうべを垂れ、その虹色のまろやかな角を父の肩口へと触れさせる。
その瞬間に起こったことは、まさに、奇跡としか言い表しようのないことだった。
虹の角へと天から一条の光が射し、溢れて、父と星の獣を包み込む。まばゆいその光景に息を呑んだ直後、私の膝元から、小さな呻き声が上がった。
「う……」
「お父さん!?」
思わず触れた黒焦げの背中が、ぱり、と音を立てて崩れる。驚く私の手の下で、震えるように身動ぎした父の背から、炭化した皮膚が剥がれ落ちた。
その下から現れたのは――傷一つない、なめらかな素肌。
閉ざされていた煤まみれの瞼が、微かに動く。
割れた唇から、深い息が、吐き出される。
見守る私の口元から、ああ、と知らずに声が洩れた。
『これでもう、彼は大丈夫だよ。しばらくしたら、目が覚めるだろう』
「ありがとう……ありがとう、ユニ」
父の背を抱いて優しい声を見上げると、ほろりと両目から涙が溢れた。それを拭うように寄せられたまろやかな鼻面に、感謝を込めて頬ずりをする。
(よかった。本当によかった――けど)
安堵が心に落ち着くと、すっと、脳裏に冷静さが差し込まれる。
(いったいどうして、こんなことに)
父の身になにが起こったのか。この森になにが起こっているのか。
これ以上の凶事を招かないためには、それを把握しなくてはならない。
ユニが――星獣〈
森に狼の遠吠えが響き渡ったのは、そんな時だった。
「……狩りが終わった」
わずかに遠く、どこからともなく聞こえたそれに顔を上げたラウルが、低く呟く。
深緑の瞳を私に向けて、彼は、こちらの心を見透かしたように告げた。
「親父は生け捕りが得意だからな。〈獲物〉の口を割らせるのにも、さほどの手間はかからないだろう」
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