第10話 襲撃


「……っ!」


 声にならない悲鳴が、喉の奥で潰れて消える。

 栗毛の身体を幾本もの矢で射られ、老いた四肢をぴんと突っ張って、我が家の馬は死んでいた。

 同乗者の腕に腰を捕らえられていなければ、馬上であることも忘れて飛び出してしまっていただろう。それを許さなかったヴィクトルは、その場で馬を止めたまま、私に低く問いかけた。


「知っている馬か」

「う、うちの馬です。さっき話した……今朝、村まで乗っていったばかりの。村の厩に預けてあったはずなのに……」


 自分の震える声を聞きながら、頭は冷静に、事態を分析しようとする。


(お父さんが、私を追いかけてここまで戻っていた? それでここで、なにかが起こったってこと?)


 襲われたとして、襲ったのは野生動物ではない。弓矢を使うのは人間だけだ。しかも老馬が口から泡を噴いているのを見ると、矢尻に毒が塗られていた可能性もある。痙攣の痕からして、神経性の毒だろうか。

 いくら老いていても、馬は財産だ。ただの追剥ぎであれば殺すことまではしないはず。肉や革の加工も念頭にないこの行動は、ただ乗り手だけを狙っての襲撃だと思わざるを得ない――そして、見える範囲に、乗っていたはずの父の姿はない。


(ああ、ユニに聞けたらわかるのに)


 せめて目顔で尋ねたい。そう思って上げた視線を捉えたのは、けれど星獣のものとは正反対の、燃えるような緋色の瞳だった。

 思いがけず労わるような眼差しで、金髪の少年は明るく言う。


「安心しろ。きみの父親はすぐに見つける。おれも用があるからな」

「罠の可能性もあります。一度、村に戻るべきかと思いますが?」


 すかさず口を挟んだのは、隣の馬の手綱を握る従者。

 至極当然のその忠告に、しかし「ダメよ」とリディアが反論した。


「悠長にしていて、手遅れになったらどうするの。このまま進むべきです、ヴィクトルさま。もしものことがあっても、ステラのことはあたしが守りますから」

「あなたも守られる立場だってことを忘れるんじゃないですよ、リディアーヌさま。なにかがあって首が飛ぶのは、俺なんです。簡単に言わないでください」


 この従者、年若いが言うことは言うようだ。

 すぐさま噛みつき返そうとするリディアを手で遮り、あろうことかヴィクトルまで、従者へと挑むような不敵な笑みを見せた。


「危険があればすぐに逃げる。そのためにも、退路の確保を怠るな。ディオン」

「…………はあ。はいはい。前を行くなら、矢に気をつけてくださいよ」

「わかってる」

(……矢、か)


 この森の中で、その道具を使う人間を、私はよく知っている。

 彼らは木々が入り組んだこの森を、誰にも悟られることなく自由に動き回ることができる。最短の道を知り、最適な隠れ家を知り、最上の狩りを行う。

 生まれた時から知っている、少し遠くに住む隣人。


(でもまさか。そんなことする理由、ラウルにはないはずだもの)


 いつも頭を撫でてくれた、あの手の優しさを疑うことはしたくない。



 ――それなのに。

 私たちの前に現れたのは、両手に弓を引き絞ったラウル・トロー、その人だった。



「止まれ」


 森に踏み込んでいくらとたたず、鞭打つような声が馬の足を止めた。

 足音どころか気配ひとつなく、まるで森から溶け出るかのように現れた彼に、私は思わず「ラウル!」と身を乗り出す。それをまた引き留めたのはヴィクトルで、警戒心を隠しもしない声音で、短く私を問いただした。


「知り合いか?」

「幼なじみです。この森で狩人をしている……」


 私の言葉をラウルが遮る。


「その娘を置いて、今すぐ森を去れ。そうすれば見逃してやる」

「ふん。断ると言えば、その矢で射抜くか?」


 ヴィクトルは鼻先で笑い飛ばし、私越しにすらりと剣を抜いた。


「言っておくが、おれの剣は弓矢より速いぞ。ついでにおれの従者も、おれには劣るがそれなりに強い。この距離で得物は弓矢で、おまけに二対一なのに、勝てると思っているのか?」


 当然のような自信に満ちた言葉は、嘘でも虚勢でもないのだろう。

 いくら弓が上手くとも、矢を番える時間を無しにはできない。一度放てば、否が応でも隙ができるのだ。隠れたままならともかくとして、身を晒した以上、一対多数であれば射手の勝ち目は薄いと言える。

 ――そう。


「オレがいつ、一人だと言った?」

「なに?」


 弓を構えたままのラウルの横から、私たちの背後から。柔らかな腐葉土を踏みしめて、音もなく、灰色の影が次々に現れる。

 それは森の王者。気高く賢い獣の群れ。


「残念だが、オレの〈牙〉は、剣より速い」

「狼……――!?」


 頭を低く下げて唸る狼の群れに、ヴィクトルたちの空気が張り詰める。進退ともに道を塞がれた事実に、従者が遠慮ない舌打ちをするのが聞こえた。距離を詰めようとした若い一匹への牽制に、鋭い刃が空を切る音がそれに続く。


「くそっ……!」


 間近でも、ぎり、と柄を握り締める音が鳴り、迷っていた私は一刻の猶予もないことを認めた。――そうだ。考えている場合じゃない。

 瞬時に息を吸い、きっと顔を持ち上げる。


「――双方、待て!!」


「「!?」」


 腹から出した制止の声に、誰もがぎょっとしたように私を見た。

 狼たちですら二の足を踏んで牙を仕舞ったのを横目に、私はヴィクトルの手を押しのけて、馬から飛び降りる。わざと時間をかけて衣服のシワを伸ばしてから、呆気にとられている面々を見渡した。


「お互いに気が立っているようですから、殺し合いの前にすべきことを、私が代わりにさせていただきます。――ラウル。森の入口でうちの馬が殺されていて、お父さんの姿がなかったの。あなた、なにか知ってる?」

「あ、ああ……」

「待て。この状況で、そんな悠長なこと」

「この状況もどの状況もありません。ラウルには、私たちが気付く前に狼をけしかけることもできたんですよ。このたちは私を知っていますから、私を傷つけずに、あなたたちを追い払うくらいのことはできたんです。それもせず対面で脅すような手をとったんですから、話し合いの余地がそもそもあるんです」


 それなのに売り言葉に買い言葉で、止める間もなく険悪な空気になって。


(まったく、血の気の多い人ばっかり。珀英様の冷静沈着さを見習いなさいよね)


 あの人は皇位継承に関わる襲撃時でも、まずはちゃんと、言葉で相手と向き合っていた。まあ、その間に近習が近衛兵に手を回して事を治めたから、ただの時間稼ぎと言えばそうなんだけど。いいじゃない、スマートな作戦勝ち。

 私の怒りに気を削がれ、各々が得物をひとまず下ろす。狼たちはお座りする。それを見届けてから、私は改めて問いかけた。


「それで、ラウル。お父さんは?」

「ああ……うちの親父が一緒にいる。オレが見た時にはかすり傷ひとつなかったけど、討ち洩らしを追っていったから、今どこにいるかはわからん」

「討ち洩らし?」

「……やはり襲われたのか」


 耳慣れない言葉に眉を寄せると、ヴィクトルが呟く。ああ、とそれに応じてから、ラウルはここで起こっていたことを教えてくれた。


「つい先ごろだ。村から戻ってきたパトリスさんが、覆面の集団に襲われた。こいつらのおかげで怪しいやつらが来たことには気付いていたから、オレもすぐ駆け付けたんだが……すまん。あの馬は、毒矢を受けてしまって」

「……うん。後でお墓作りを手伝ってね。それで?」

「大半はオレとパトリスさん、それからこいつらに呼ばせた親父で片付けたんだが、何人かに逃げられちまって。それを探してる途中で、お前らを見つけたもんだから」

「そいつらの仲間に私が捕まったんじゃないかと、勘違いした?」


 ああ、と頷くラウルに、私は額に手を当てて息をつく。そんな状況だったのなら、やり過ぎだと怒るわけにもいかなくなった。


「それで、そっちは?」

「ああ。村でいろいろあって助けていただいて。お父さんが先に一人で帰っちゃったから、私を心配して、ここまで送ってきてくださったのよ」

「それは……こいつが世話になったのに、悪いことしたな」

「気にするな。お互い様だ」


 剣を収めた手をひらりと振ったヴィクトルは、しかし、と険しい顔になる。


「森に散られたのはまずいな。逃げられるだけならまだいいが……」


 その時、一頭の狼が鼻先を高く上げた。続いて周りの何頭かも同じように鼻を上げ、そして短く吠えた彼らの声に、ラウルがばっと道の先を見る。


「ラウル?」

「……においがする」


 短い答えの意味がわからない。困惑する私たちには構わず、森色の目でその先を――私たちの家がある方向を真っ直ぐに見据えて、彼は言う。


「物が燃えるにおい――火のにおいだ」





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