第32話 狭間の館
王立魔法学院には、〈
建物といっても、厳密には学院敷地をぐるりと囲む障壁の一部だ。石造りの頑丈な壁が、その部分だけ倍ほどの厚みを持ち、二階建ての建造物のようになっている。
そこは、その名の通り、学院内外の狭間として存在する場所だった。
「お父さん!」
「ステラ。元気だったか?」
〈狭間の館〉にある一室。それぞれ外と中に繋がる扉が一つずつついた面会室で、私は約二ヶ月ぶりに父との再開を果たした。
多くは貴族の子弟が使う部屋。窓がない以外は上流階級の応接室と変わらない内装に、驚くことも気後れすることもなく、父はただ私の心配だけをしてくれた。
「大丈夫か? いろいろと苦労しているんじゃないのか?」
「そりゃあ庶民からの編入だもの、苦労がないわけじゃないけど。いい友達や知り合いも増えたし、勉強もどうにか頑張ってるわ。……お父さんのほうこそ、大丈夫なの?」
編入当初、バランス侯爵家の当主令嬢から聞いた、恐ろしく公明正大な一族の方針を心配する。父は察したらしく、「どうにかな」と苦笑した。
「そうか、同室に侯爵の娘がいると言っていたな。仲良くできてるか?」
「ええ、とてもよくしていただいてる。それで、お父さんは?」
「大丈夫だいじょうぶ、こっちもよくしてもらっているよ。今は侯爵家に間借りしている。そりゃあ出戻りだからな、苦労がないわけじゃないが、どうにかやってるよ」
いくら聞いても、具体的な話は出てこない。さすがの父も、実家でのあれこれを娘に聞かせるつもりはないらしい。おかげでこちらの心配は尽きないが、父親の面子を尊重して、あまり詮索しないほうがよさそうだ。
ラウルの編入に驚いたことや、自分より彼のほうが心配なこと。ミュリエルやリディアーヌを始めとした交友関係について。それから学院内で受けている講義の内容や進度を話していたところで、私は、改まって父に向き直った。
「お父さん」
「なんだ?」
「私、お母さんの手紙、読んだよ」
静かに息を呑んだ父は、そのまま静かに頷いた。
「――そうか」
「〈星女神の乙女〉について、書いてくれてた。お母さんがそうだったこととか、それがどうやって継がれていくのかとか、……私がそれを継いでいるのか、結局お母さんには、わからないままだったとか」
声に滲んだ後悔は、父親に届いてしまったらしい。伸ばした片手で私の手を叩き、父は慰めるように言った。
「すごいじゃないか。たった二ヶ月で、読めなかったものが読めるようになったんだ。その前向きな努力こそ、きっと、お母さんも誇りに思っているよ」
(……本当に、出来た人だなぁ)
精神年齢で言えば、まだ私のほうが年上なのに。これが人の親というものだろうか。どの世界でもどの人生でも、子を成してこなかった私には、彼の温かな許容が不可思議にすら思える。
(そんな風に、私もなれるかしら)
なれたらいいなと思うけれど、今は、それには蓋をする。それより先に、母の手紙から生まれた疑問を、父に尋ねなくてはならない。
意を決して、私は「ねえお父さん」と問いかけた。
「お父さんとお母さんは、どうして王都を出ていったの?」
いろいろと込み入った事情がある、と母が省略した内容。父から聞くようにとも書かれていたけれど、あれから、私なりに考えなかったわけでもない。
十七歳で私を身ごもった母。十八歳の時には辺境の森で私を出産し、それから十一年間、一度も王都には近付かなかった。
ともに王都から来たらしいトロー家の長男、ラウル・トローが王都で生まれているというなら、少なくとも十四歳頃までは王都にいたはず。国王夫妻とここで学友だった話を思えば、それは十六歳頃まで伸びるはずだ。
――その間の二年のうちに、いったいなにがあったのか。
余計な気遣いをさせないよう、私の懸念は話さなかった。それでも父は、その気持ちを読み取ってくれたらしかった。
「……話せば長くなるんだが」
改まった眼差しで、二人の過去を話してくれる。
「お父さんとお母さんは、この魔法学院の同級生だった――」
――代々侯爵家を継ぐバランス家の長男・パトリスと、ここ何代か〈星女神の乙女〉を輩出してきたシャリテ家の娘・エトワール。
二人は当初、ただのクラスメイトだった。
司法関係者を多く抱えるバランス一族にあって、父は珍しく、腕っぷしのほうが得意な少年だった。それを買われて、同じく同級生だった当時の王太子――現国王・フィリベール・ヴォワ=ラクテの学友兼護衛役として同行するうちに、王太子の婚約者・現王妃ベルナデット嬢の学友であった母とも親しくなったらしい。
「シャリテ家自体は、さほど高い爵位があるわけじゃなかった。むしろ、代々〈乙女〉に選ばれた女性が家内の実権を握ってきたせいか、社会的な名声を求めない風潮がある家だったな」
〈星女神の乙女〉は信仰に基づく存在のため、シャリテ家も、教会との結びつきのほうが強かった。当主夫妻とその嫡子以外は、ほとんどが聖職者として家を出る慣習だったらしい。
そこに生まれた母は、星獣〈
王家を守り、王国の象徴となり、いずれ次代に継いでシャリテ家を治める立場になることに――しかし、母は疑問を持っていた。
「その頃のお母さんは奥ゆかしくてな。慈悲深く清廉潔白で、聖女という言葉がこれ以上なく似合う人だった」
「そうなの? ……ちょっと想像できないかも」
「実のところ、本人もかなり無理をしていたらしい」
ある時、無断で講義を休んだ母を、後の国王夫妻に変わって探していた父は、小さな裏庭で彼女を見つけた。父が来たことに母は驚いたが、心配の言葉をかけると、ほろほろと泣き出してしまったらしい。
「『聖女らしくいるのはもう疲れた』と泣かれて、こっちこそどれほど驚いたか」
物慣れない父が必至で慰めるうちに、母は元気を取り戻し、二人の仲も急激に縮まることになった。この辺りはざっと雑に飛ばされたけれど、まあ、今のところは深掘りしないでおく。
ともかく、その日を境に母は変わった。
平たく言えば、かなり自由になった。
清廉潔白から天真爛漫へとシフトチェンジした母が、王太子の護衛である父を朗らかに振り回していたことは、想像に難くない。そういう夫婦模様は、娘として拝ませてもらっていた。
問題であったのは、それまで高嶺の花として崇められていた母に向けて、気安く恋慕する輩が激増したことだった。あわよくば王家へと繋がりが持てるかもしれない、という下心も加わり、さまざまなアプローチがあったそうだ。母はすべて断ったそうだが。
そんなある日に、事件が起こった。
――上級生の一人が、母を誘拐・監禁しようとしたのだ。
「どうにか未遂で終わったが……その上級生の家は、フィリベールの重要な後ろ盾の一つだった」
〈乙女〉を手にかけようとした罪は許しがたい。しかし事を荒立てれば、王位継承にまで影響するかもしれない。そう悩む次期国王の姿を見て、母もまた思い悩んだ。
そして――誰にも告げずに王都を出奔することにした。
ただ一人、信頼できるパトリス・ド・バランスだけを伴い、辺境の森へ。
その時、二人の年齢は十七歳――
「…………。ひどいことを聞くと思うけど、お父さん、私は……」
母の誘拐・監禁未遂。
それは本当に、未遂だったのだろうか。
母が思い悩んだ理由は、本当に、王位継承者への配慮だけだったのだろうか。
ひどい質問をする娘だ。この世界、普通の十六歳なら、こんなことは聞かないのかもしれない。それでも聞かずにはいられなかった私の手を、父は、その大きな両手で優しく包んだ。
「おまえは間違いなく、お父さんとお母さんの子だ。おまえはお母さんにそっくりだが、その瞳の色だけは、ちゃんとお父さんと同じだろう?」
晴れ渡った春の空と同じ、明るく澄んだ青の瞳。
それは鏡に映したお互いのように、父と私とで同じ色だった。
「その上級生は、髪も瞳も黒かった。おまえとは、間違いなく無関係だよ」
「……うん。ごめんなさい」
私は、父と母の子だ。
若くして親となった彼らの苦労を、その愛を、私は疑い忌避するのではなく、信じて感謝するべきだった。
私の肩を叩いて離れた父は、「さて」と気を取り直すように話題を変えた。
「ところでステラ、そろそろ冬至祭についての話は聞いた頃か? 第一学年は、今でも合唱披露の役割なのかな?」
「――うん。練習のたびにラウルが姿をくらますから、毎回、探して連れ戻すのに苦労しているの」
「そうかそうか、あいつらしいなぁ。そういえば冬至祭ではダンスパーティーがあるんだったよな? ステラは、ダンスのパートナーは、もう決めたのか?」
にこやかに聞かれて、「おや?」と思う。私に気遣って話題を変えてくれたと思ったけれど、どうもそれだけではない気がする。
「……まだよ」
「そうかそうか。それじゃあもし決まったら、手紙でいいから、お父さんにも教えてくれ。娘が世話になるんだから、先方にも、きちんとお礼をしないといけないからな」
ニコニコにこやかなお父様。
春の空色に宿る光が、少々物騒なものに見えるのは、気のせいだろうか?
(……愛されているのは、確かよね)
その愛を信じることができるのはこの上なく幸福だと、改めて自分に言い聞かせることで、モンペと化しそうな父の気配には目をつぶることにした。
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