第31話 母の手紙と噂の彼女


 初秋のある日。

 放課後、女子寮に戻ったところで寮母さんに声をかけられた。


「ステラさん。お手紙が来ていますよ」

「えっ? ありがとうございます」


 思わぬことに驚きつつ、受け取った封書を裏返す。差出人の欄にあった名前は、パトリス・シャリテ。私の父だ。

 ――その瞬間、私は思い出した。


「あっ――」





 拝啓 天国のお母さま

 親不孝な娘をお許しください。


「すっかり忘れていたなんて、本当、なにをしにここまで来たんだか……」


 いつか訪れた小さな庭。以前には〈一角獣ユニコーン〉を呼び出したその場所で、廃れて久しい花壇の縁に腰かける。しかし今日、私の手のひらに乗るのは、星獣が眠るペンダントではなく木箱だった。

 なんの変哲もない――母からの手紙をしまった木箱。


 ――この手紙を読むために勉強がしたい。


 そう言って父を説得したのは自分自身だったはずなのに、学院生活にかまけて忘れていたとは、心底情けない話だ。


(言い訳をするなら、思わぬ不穏な話を聞いたから、ではあるけれど……)


 それにしたって一ヶ月以上、放置していたのは反省事項だ。思い出させてくれた父には、心から感謝しなくてはならない。

 ちなみに、父からの手紙は自室で読んできた。今度、面会に来てくれるそうだ。短い近況報告と予定のすり合わせ、必要な差し入れがあれば遠慮なく言うようにとの文面だった。また後で、じゅうぶん落ち着いてから返事を書こうと思う。

 今は、こちらが優先だ。


「…………」


 あの時。森育ちの私には読めなかった手紙。

 ゆっくりと深呼吸して、私は木箱から封筒を取り出した。封蝋が破られたままのそれから、便箋をそっと抜き取り、震える手で開く。

 目の前に現れたのは、以前と同じ、懐かしく温かい母の文字。

 飛び出しそうになる心臓を抑え、私はそれを、辿っていった。


「『私の、愛しの娘へ』――……」





『――私の、愛しの娘へ。


 あなたにこんな手紙を書くことになるとは、お母さんも思ってはいませんでした。残念なことですが、あなたがこれを読む機会があるのなら、その時にはもう、お母さんはあなたのそばにはいないでしょう。

 それでも、あなたに伝えるべきことを、伝えるべき時に伝えることができるよう、この手紙をお父さんに託します。


 お母さんは〈星女神の乙女〉でした。


 それはこの国の歴史と平和、なにより信仰を象徴するお役目で、星女神にお仕えする聖女とも言われるものです。お母さんはその役目を、あなたの祖母にあたる人から引き継ぎました。彼女はその母親から。彼女の母親は、そのまた母親から。代々、国王陛下の庇護を得て、王都に暮らし、国民の安寧を祈り守ってきました。


 それがなぜ、辺境の森に暮らすようになったのか……それはお父さんに聞いてください。いろいろと込み入った事情があるので、すべてを書き切ろうとすると、紙面が足りなくなるでしょうから。


 ともかく、そうして受け継いできたお役目ですが、実のところ、これは血縁で継承していくものではありません。事実、あなたから数えて五代前の継承者は、まったく別の家系の女性だったと、王家の記録に残っています。〈星女神の乙女〉とは、星女神の眷属である〈一角獣〉に選ばれて初めて、そう認められるものなのです。


 〈一角獣〉は純潔の乙女を好みます。お父さんと結婚した時から、お母さんには〈一角獣〉が見られなくなりました。けれど、その存在や加護が続いていることは、折に触れて感じていました。

 けれどどうやら、その加護ももうすぐなくなるようです。きっと、次の〈乙女〉を守るために、その力を使うことにしたのでしょう。


 ステラ。私の愛しい娘。

 あなたが〈星女神の乙女〉を継いだのかどうか、結局、私にはわからないままでした。


 もしも継ぐのがあなたなら、あなたはこれから、多くの苦労を背負うでしょう。それはすべて、お母さんの責任です。本当にごめんなさい。

 そして、もしも〈乙女〉を継がなくても、あなたは変わらず、私たちの大切な娘です。あなたが選んだ道を、あなたらしく生きていってください。

 あなたはとても賢いから、どんな道でも、きっと上手に歩んでいけるでしょう。けれどあまり、上手に生きようとしないで。悩んで迷って、いろいろなことを経験して、どうかたくさん笑って過ごして。そばで支えてあげられないお母さんを許してください。


 ステラ。私の愛しい娘。

 あなたが幸せでありますように。

 いつまでもあなたを愛しています。


 ――あなたの母親 エトワール・シャリテ』





「お母さん……」


 気付くと涙が溢れていた。

 毅然と、流麗な筆致で始められた文面が、最後に近づくにつれ揺れている。そこに母の感情の揺れを見て、どうしようもなく息が詰まった。


(私が、話さなかったから)


 十一歳の時。母が倒れる少し前、私の前に現れた〈一角獣〉。そのことをすぐに話しておけば、もっとたくさんのことが聞けた。母を心配させずにすんだ。〈一角獣〉の加護も癒しの力も、母に向けることができたかもしれなかったのに。


 三度目の人生だからって、愚かにも日和ひよったばっかりに。


「お母さん……!」


 その時、とくん、と胸元の首飾りが脈打った気がした。はっとして顔を上げると、小道の木陰に人影があった。

 暗い赤毛に長い三つ編み。曇天の空を映したような灰色の瞳。長い睫毛に縁取られたその色を、私は初めて、真正面から見た気がした。

 オデイル・スコルピオン。

 目が合った彼女は、はっと身を引いた。


「ご、ごめんなさい。わたくし、覗き見するつもりじゃ……」

「いえ――こちらこそごめんなさい。すぐどきますから、どうぞ」

「え、いえ、その……」


 急いで手紙を畳んで封筒にしまい、その封筒を小箱にしまう。そうして濡れてもいい手になってから頬の涙を拭っていると、躊躇いがちな足音が、すぐ近くまできて止まった。


「……大丈夫、ですか? なにか……?」


 細く微かな声音でも、そこに労わりが含まれていることはじゅうぶんわかった。けれど子細を話すわけにもいかず、私は「大丈夫です」と曖昧に微笑み返した。


「ただ少し、母からの手紙を読んでいたら、感極まってしまって」

「お母さま……」


 瞬いた灰色の瞳が、よく読み取れない色を湛える。


「聖女、〈星女神の乙女〉……エトワール・シャリテさまですね」


 淡々とした確認に「よくご存知ですね」と言うと、「みんな知っています」と返される。責められている気はしなかったけれど、母の手紙でしおれていた私は、肩を落として謝った。


「皆様には、両親がご迷惑をおかけしてしまって、本当に申し訳なく思っています。母に代わって、私がその償いをしていければと思っているのですが」

「お母さまに代わって?」


 途端に、相手の眼差しに険が加わる。


「……どうしてエトワールさまは、ご自分がお戻りにならないのですか? 聖女の役職を降りたとはいえ、自分の不始末を子どもに押し付けるだなんて……あなたも迷惑ではありませんか」


 その問いには、ほろ苦く笑った。


「母は、五年前に亡くなりましたから」

「えっ……!」


 彼女が驚くのも無理はない。

 王都を出た聖女の娘が戻ったことは広まっても、出奔した当人がどうなったのか、真相と言えるほどの確実性を持った話はどこにもなかった。私自身も語らなかったし、第一王子や転生令嬢、幼なじみの狩人すらも、私の母について口にはしなかったのだ。

 オデイルは、可哀想なほどうろたえる。


「あ……ご、ごめんなさい。わたくし……」

「いえ、お気になさらないで。オデイル様は私を気遣ってくださっただけだと、わかっていますから」


 今のやり取りだけで、決して悪い子ではないのだとわかる。むしろ、直接関わりのない他人すら思いやれる、優しい子だ。

 微笑みかけると、オデイルは戸惑ったように瞳を揺らした。


「……あの、では、そのお手紙は」

「生前の母が遺してくれていたものです。私は、ここに来るまで読み書きが満足にできませんでしたから……今ようやく読むことができて、思わず泣いてしまいました」

「そう、でしたか……」


 目を伏せた彼女は、そのままぽつりと聞いてくる。


「……お母さまは、お優しい方でしたか?」

「ええ、とても。身内のひいき目かもしれませんが、朗らかで優しい人でした。芯が強くて、厳しいところもありましたけど」

「……わたくしの父も、そうでした。……父も、もう、亡くなりましたけれど」


 ああ、と唇から吐息が洩れる。

 そうだ。この子もまた、親の死によって人生を捻じ曲げられた一人なのだ。


「では、私たちは似たもの同士なのですね」


 何気ない共感の一言だった。

 しかし、キッと顔を上げたオデイルは、叩きつけるようにそれを否定した。


「――いいえ!」


 息を呑む私の目の前で、先程まで哀切の陰を落としていた瞳は、荒れ狂う嵐のような激しさに変わっていた。いつもは青白い頬にも赤みが差し、眉を吊り上げ、喉の奥から吐き出すように彼女は叫ぶ。


「一緒にしないで! わたくしとあなたは違う! わたくしにはなにも、あなたのようなものは、なにも――ッ」


 言い返せずに固まる私に、その時、相手もはっと気付いたらしかった。言葉を失ったように唇だけを空転させ、そして、ぎゅっと引き結んだ。


「……失礼します」


 決然ときびすを返したその一瞬。

 彼女の横顔が泣き出しそうに歪むのを、私は、垣間見た気がした。





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