第三部 遥か愛しき星月夜

第41話 再開と再会


 虚ろな曖昧を漂う中、遠く彼方に光を見つける。

 濡れたように輝く銀の光――

 闇夜を照らす月の光だ。


「……――徳妃とくひ! せい徳妃!」


 声が聞こえる。切羽詰まった誰かの声。耳に心地よく響くその声に、胸の奥底から愛しさが込み上げる。身体が芯から熱くなる。


 知っている。

 私は、この声を持つ人を。

 誰より深く、なにより強く――



光眞こうしん!」



 ハッと目を開けた。

 一瞬、銀色の輝きを見た――そう思った視界に、けれど映ったのは、精緻な描写で表された星宿図せいしゅくずだった。柄杓の形を中心に、様々な点が散らばり、線で繋ぎ合わされた天井絵。それが星宿、すなわち星座を描いたものだとわかったのは、あり過ぎるほどの見覚えがあったからだ。


「こ、こは……」


 ぽろ、と零れた声音が誰のものか、最初、わからなかった。喉を震わせ、唇を開いたのは確かに自分だ。それでも聞こえたその声は、知らない他人のものに思えた。

 事態を把握し切れずにいたところ、どこか近くで、鋭く息を呑む気配がした。そして間髪入れず、誰かが駆け寄ってきて私を覗き込む。


「徳妃様! 星徳妃様、お気付きになられたのですね!」


 生真面目そうな四角い顔。見開かれた切れ長の目。髷から一房、落ちたままの黒髪。いつもは厳しいばかりの表情が、今は喜怒哀楽複雑に入り交ぜたものになっている――その人を、私はよく知っていた。


「……えい?」


 私の――星光眞の乳母であり、後宮では侍女頭のじょう永喜だ。

 懐かしい、とても懐かしいその姿に、思うより先に涙が浮かぶ。そんな私を労わるように、永喜は私の頬を擦る。永喜、とまたその名を呼んで甘えると、彼女は躊躇いがちにも尋ねてきた。


「徳妃様、喉は……お声を出すのに、支障はないのですか?」

「喉?」


 言われて、はっと喉元を押さえる。


「そう……そういえば私、喉を焼かれたのよ。あの神酒みきを呑み込んで……喉だけじゃない、ずっと、胃の腑の底まで」

「外廷の典医いしゃも内廷の医官も、同じ見立てでございました。お倒れになった後も、かなりの血を吐かれたのですよ」

「覚えているわ。……なんとなく」


 でも、今はなんともない。不思議なことに、たった今でも思い出せるあの痛みが、それこそ夢であったかのようにきれいさっぱり消えているのだ。


(もしかして……ユニ?)


 この世界では〈麒麟〉と呼ぶべき奇跡の獣。

 その癒しの力を施されたのではないかと思い至る。


(そういえば、目覚める前……)


 世界を渡る前に、言われた気がする。


『星光眞に戻るキミに、この国の〈一角獣ボク〉の加護はない。あの国の〈麒麟ボク〉は護国の神獣だから、キミだけに加護を与えることもない。……けれど、それじゃあさすがにあんまりだから、ボクからキミへ、最後のはなむけをさせてもらうよ』


 それがなにかは、聞いたのか聞かなかったのか、聞いたのに忘れてしまったのかもわからない。けれど。


(十分……これだけで十分よ)


 ありがとう、と癒えた喉元を両手で押さえ、もう会えないあの子に感謝する。

 そんな私の頭をひと撫でして、永喜は「ともかく、すぐに医官をお呼びいたします」と控えていた侍女たちに指示を出した。二人いたそのどちらも、東宮妃時代から仕え続けてくれている馴染みの侍女だ。


大家ターチャにもお知らせするよう、手配しました。今はご政務に戻られていますが、徳妃様のことを、大層ご心配くださっていたのですよ」

「――大家」


 まだどこかふわふわとしていた思考が、その一言で一気に覚醒した。

 そうだ。違和感や懐かしさ、感傷に浸っている場合ではない。私には、なにを優先してでもやらなくてはならないことがあるのだ。

 大家――すなわち桂帝国皇帝・月珀英げつはくえいを守るために。


「永喜、大家はご無事? 私が倒れてから、どれくらいたったの?」

「落ち着いてください、お身体に障ります」


 飛び起きようとする私を、永喜が慌てて押し留める。


「あなた以外はみな無事です。もちろん大家も。それと、あなたが倒れてからは、まだ一晩明けたところです」

「一晩――」


 たった一晩の夢だったのか。

 あの〈ステラ・シャリテ〉の十六年間は。


 愕然としそうになるけれど、好都合だと思い直す。日数が過ぎれば過ぎるほど、後手に回って動きにくくなるところだった。“続き”と称してこの時に戻してくれた神獣に、重ねて感謝しなくてはならない。


 とにかく情報収集が必要だ。私が倒れた時の状況とその後の動きを、なるべく詳しく、客観的に知る必要がある。

 早速、永喜から話を聞こうとするけれど、「医官の診察が先です」と一蹴された。そこをなんとかと説得したものの、頑固な侍女頭は聞き入れてくれない。そうこうしているうちに、宮の入口のほうからも、なにやら揉めている気配が伝わってきた。


「……なにかしら?」

「見て参ります」


 そういって表へ向かう永喜だが、そう間を置かず、その声が思わぬ近くから聞こえてきた。どうやら招かれざる客が、医官とともに押しかけてきていたらしい。


「いけません。今は医官以外、どなたもお通しせぬようにと、大家より厳命されております。いくら上級妃様でも……」

「大家の責めはわたくしが受けます。あなたは『無理矢理押し入られた』と、正直に訴えればよろしいわ。とにかく今は、徳妃様の無事を確かめさせてちょうだい」


 毅然と応じる声にも、聞き覚えがある。

 けれどその人物を思い出すより先に、表の押し問答は、私の乳母が折れる形で収まったらしい。気乗りしない様子で、永喜が臥室しんしつに顔を出す。


「徳妃様……潭淑妃たんしゅくひがおいでです。一応、お断りしたのですが」


 ――潭淑妃。

 その名から浮かんだのは、清廉で爽やかな年下の妃だ。年下といっても一つしか違わず、月珀英が皇太子であった頃から、彼の宮でともに東宮妃として暮らしていた。長い付き合いの相手である。――だからというわけではないけれど。

 律儀に返事を待つ永喜に、私は頷いて返した。


「いいわ、お通しして」


 渋々と険しい表情の侍女頭など気に留めず、その上級妃は颯爽と私の臥室にやってきた。背中に枕をあてて身を起こした私と目が合うと、彼女は「徳妃様」と窘めるような声を出す。


「ご無理をなさらないでください。どうぞ横になって」

「ありがとう、潭淑妃。でも、大丈夫ですから」

「大丈夫ではございません」


 ぴしゃりと私を叱った彼女は、自分の後ろを振り返る。


遼元りょうげん、早く診て差し上げて」

「はい」


 答えて進み出た医官・潭遼元は、その姓の通り、潭淑妃の縁者である。医術の腕前は皇帝陛下お墨付きだが、従妹である淑妃には頭が上がらないらしく、よって彼女を追い返すこともできなかったのだろう。不憫だ。

 ――若干二十六歳の美男子。だが後宮医官である以上、当然ながら宦官だ。それでも『日月の契り』では、月珀英に次ぐ人気の、隠し攻略対象だった。


(ああ、思い出してきた。いろんなことを)


 ここではたった一晩でも、私の中ではかなりの空白がある。適応できるか不安もあったけれど、この調子なら大丈夫だろう。

 やがて一通りの診察を終え、遼元は「……信じられない」と呟いた。


「口内から喉にかけて見られた爛れが、すべて完治しています。おそらく、胃の腑の辺りにかけてもそうでしょう。たった一晩でこのような回復をするなど――奇跡としか言いようがありません」


 自分で口にしながらも、まだ信じられない顔の医官。侍女頭や淑妃も、驚き喜びながらも、ほぼ同じ表情だ。

 だから私は、真顔で言った。


「実は、気を失っている間に夢を見たのです。我が国の神獣、〈麒麟〉が現れる夢を」

「〈麒麟〉の夢――でございますか?」

「『そなたにはまだすべきことがある』と言われ、得も言われぬ癒しを感じたのです。銀色の美しい光を見て、ふっと目を開けると、この寝台に横になっていました。ついさっきのことです」


 困惑の視線を集めるけれど、嘘でも冗談でもないので真顔を保つ。多少の誇張と脚色は、この際、勘弁してもらいたい。なぜなら。


(あまりにもあっさり治っては、自作自演と思われかねないもの)


 すぐに動けるのはありがたいが、血を吐いて死んだと思った人間が一夜にして治ったと聞けば、遼元のように「奇跡」と言うか、でなければ「ヤラセ」と言うかのどちらかだろう。爛れた喉を直に見た医官や典医は別として、私を疑う人間は疑う。そのための餌を、わざわざ撒いてやる必要はない。

 神獣の奇跡で通れば一番いい。私にとっても嘘ではないし、それに――


「その話はまことか、星徳妃」


 はっと、その場の誰もが息を呑んだ。

 慌てて振り向く淑妃たちの向こう、臥室の入口に佇む影がある。それを認めて、私は、ああ、と声にならない声を零した。


 ――冬の月のような白銀の御髪。神の手を持つ彫刻家が刻んだように完璧な相貌。氷のように冷徹な瞳は、一見して冴え冴えとした漆黒だけれど、実は濃紺の輝きを持つことを私は知っている。

 夜の瞳で私を見据え、彼は感情を排した声音で告げる。


「護国の神獣を騙るとあれば、たとえ上級妃でも処罰はまぬがれぬぞ」

「――まことでございます、大家」


 応じる私も、感情を排した。

 今にも泣き出してしまいたくなるほど狂おしい愛しさの渦、そして再会の喜びと無事の安堵を押し殺し、私の心からの真実を訴える。


わたくしがあなた様に嘘偽りを申し上げることなど、天堕ち地が砕けようとも、決してございません。未来永劫に」

「……左様か」


 月珀英の冷ややかな表情は変わらない。

 けれどそれすらも愛おしい。

 この人のすべてが愛おしい。

 たとえこの言動が理解されなくとも――彼を想うこの愛だけは、決して変わることはない。

 ――ああ。


「生きてまた、あなた様にお会いできてよかった」

「……………………」


 あまりの昂りに、抑えたつもりの本音が零れる。

 一瞬、自分でも意識していなかったけれど、無言で固まった珀英様にはたと気付いて顔が燃え上がった。ああ、しかも今、完全に敬語を忘れていた! まずい、ステラ時代に気を抜き過ぎたせいだ!


 慌てて取り繕おうとする私と、凍結フリーズしていた珀英様。先に動いたのは後者のほうだった。


「……しばし、徳妃と話がある」


 人払いを、と足された命に淑妃と医官、私の侍女頭は慎ましく頭を下げて退室する。控えていた侍女も同じく下がり、隣室の起居いまからも人の気配がなくなった。



 そうして私は――

 十六年ぶりに、愛しい夫と相対した。





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