第三部 遥か愛しき星月夜
第41話 再開と再会
虚ろな曖昧を漂う中、遠く彼方に光を見つける。
濡れたように輝く銀の光――
闇夜を照らす月の光だ。
「……――
声が聞こえる。切羽詰まった誰かの声。耳に心地よく響くその声に、胸の奥底から愛しさが込み上げる。身体が芯から熱くなる。
知っている。
私は、この声を持つ人を。
誰より深く、なにより強く――
「
ハッと目を開けた。
一瞬、銀色の輝きを見た――そう思った視界に、けれど映ったのは、精緻な描写で表された
「こ、こは……」
ぽろ、と零れた声音が誰のものか、最初、わからなかった。喉を震わせ、唇を開いたのは確かに自分だ。それでも聞こえたその声は、知らない他人のものに思えた。
事態を把握し切れずにいたところ、どこか近くで、鋭く息を呑む気配がした。そして間髪入れず、誰かが駆け寄ってきて私を覗き込む。
「徳妃様! 星徳妃様、お気付きになられたのですね!」
生真面目そうな四角い顔。見開かれた切れ長の目。髷から一房、落ちたままの黒髪。いつもは厳しいばかりの表情が、今は喜怒哀楽複雑に入り交ぜたものになっている――その人を、私はよく知っていた。
「……
私の――星光眞の乳母であり、後宮では侍女頭の
懐かしい、とても懐かしいその姿に、思うより先に涙が浮かぶ。そんな私を労わるように、永喜は私の頬を擦る。永喜、とまたその名を呼んで甘えると、彼女は躊躇いがちにも尋ねてきた。
「徳妃様、喉は……お声を出すのに、支障はないのですか?」
「喉?」
言われて、はっと喉元を押さえる。
「そう……そういえば私、喉を焼かれたのよ。あの
「外廷の
「覚えているわ。……なんとなく」
でも、今はなんともない。不思議なことに、十六年余りたった今でも思い出せるあの痛みが、それこそ夢であったかのようにきれいさっぱり消えているのだ。
(もしかして……ユニ?)
この世界では〈麒麟〉と呼ぶべき奇跡の獣。
その癒しの力を施されたのではないかと思い至る。
(そういえば、目覚める前……)
世界を渡る前に、言われた気がする。
『星光眞に戻るキミに、この国の〈
それがなにかは、聞いたのか聞かなかったのか、聞いたのに忘れてしまったのかもわからない。けれど。
(十分……これだけで十分よ)
ありがとう、と癒えた喉元を両手で押さえ、もう会えないあの子に感謝する。
そんな私の頭をひと撫でして、永喜は「ともかく、すぐに医官をお呼びいたします」と控えていた侍女たちに指示を出した。二人いたそのどちらも、東宮妃時代から仕え続けてくれている馴染みの侍女だ。
「
「――大家」
まだどこかふわふわとしていた思考が、その一言で一気に覚醒した。
そうだ。違和感や懐かしさ、感傷に浸っている場合ではない。私には、なにを優先してでもやらなくてはならないことがあるのだ。
大家――すなわち桂帝国皇帝・
「永喜、大家はご無事? 私が倒れてから、どれくらいたったの?」
「落ち着いてください、お身体に障ります」
飛び起きようとする私を、永喜が慌てて押し留める。
「あなた以外はみな無事です。もちろん大家も。それと、あなたが倒れてからは、まだ一晩明けたところです」
「一晩――」
たった一晩の夢だったのか。
あの〈ステラ・シャリテ〉の十六年間は。
愕然としそうになるけれど、好都合だと思い直す。日数が過ぎれば過ぎるほど、後手に回って動きにくくなるところだった。“続き”と称してこの時に戻してくれた神獣に、重ねて感謝しなくてはならない。
とにかく情報収集が必要だ。私が倒れた時の状況とその後の動きを、なるべく詳しく、客観的に知る必要がある。
早速、永喜から話を聞こうとするけれど、「医官の診察が先です」と一蹴された。そこをなんとかと説得したものの、頑固な侍女頭は聞き入れてくれない。そうこうしているうちに、宮の入口のほうからも、なにやら揉めている気配が伝わってきた。
「……なにかしら?」
「見て参ります」
そういって表へ向かう永喜だが、そう間を置かず、その声が思わぬ近くから聞こえてきた。どうやら招かれざる客が、医官とともに押しかけてきていたらしい。
「いけません。今は医官以外、どなたもお通しせぬようにと、大家より厳命されております。いくら上級妃様でも……」
「大家の責めはわたくしが受けます。あなたは『無理矢理押し入られた』と、正直に訴えればよろしいわ。とにかく今は、徳妃様の無事を確かめさせてちょうだい」
毅然と応じる声にも、聞き覚えがある。
けれどその人物を思い出すより先に、表の押し問答は、私の乳母が折れる形で収まったらしい。気乗りしない様子で、永喜が
「徳妃様……
――潭淑妃。
その名から浮かんだのは、清廉で爽やかな年下の妃だ。年下といっても一つしか違わず、月珀英が皇太子であった頃から、彼の宮でともに東宮妃として暮らしていた。長い付き合いの相手である。――だからというわけではないけれど。
律儀に返事を待つ永喜に、私は頷いて返した。
「いいわ、お通しして」
渋々と険しい表情の侍女頭など気に留めず、その上級妃は颯爽と私の臥室にやってきた。背中に枕をあてて身を起こした私と目が合うと、彼女は「徳妃様」と窘めるような声を出す。
「ご無理をなさらないでください。どうぞ横になって」
「ありがとう、潭淑妃。でも、大丈夫ですから」
「大丈夫ではございません」
ぴしゃりと私を叱った彼女は、自分の後ろを振り返る。
「
「はい」
答えて進み出た医官・潭遼元は、その姓の通り、潭淑妃の縁者である。医術の腕前は皇帝陛下お墨付きだが、従妹である淑妃には頭が上がらないらしく、よって彼女を追い返すこともできなかったのだろう。不憫だ。
――若干二十六歳の美男子。だが後宮医官である以上、当然ながら宦官だ。それでも『日月の契り』では、月珀英に次ぐ人気の、隠し攻略対象だった。
(ああ、思い出してきた。いろんなことを)
ここではたった一晩でも、私の中ではかなりの空白がある。適応できるか不安もあったけれど、この調子なら大丈夫だろう。
やがて一通りの診察を終え、遼元は「……信じられない」と呟いた。
「口内から喉にかけて見られた爛れが、すべて完治しています。おそらく、胃の腑の辺りにかけてもそうでしょう。たった一晩でこのような回復をするなど――奇跡としか言いようがありません」
自分で口にしながらも、まだ信じられない顔の医官。侍女頭や淑妃も、驚き喜びながらも、ほぼ同じ表情だ。
だから私は、真顔で言った。
「実は、気を失っている間に夢を見たのです。我が国の神獣、〈麒麟〉が現れる夢を」
「〈麒麟〉の夢――でございますか?」
「『そなたにはまだすべきことがある』と言われ、得も言われぬ癒しを感じたのです。銀色の美しい光を見て、ふっと目を開けると、この寝台に横になっていました。ついさっきのことです」
困惑の視線を集めるけれど、嘘でも冗談でもないので真顔を保つ。多少の誇張と脚色は、この際、勘弁してもらいたい。なぜなら。
(あまりにもあっさり治っては、自作自演と思われかねないもの)
すぐに動けるのはありがたいが、血を吐いて死んだと思った人間が一夜にして治ったと聞けば、遼元のように「奇跡」と言うか、でなければ「ヤラセ」と言うかのどちらかだろう。爛れた喉を直に見た医官や典医は別として、私を疑う人間は疑う。そのための餌を、わざわざ撒いてやる必要はない。
神獣の奇跡で通れば一番いい。私にとっても嘘ではないし、それに――
「その話はまことか、星徳妃」
はっと、その場の誰もが息を呑んだ。
慌てて振り向く淑妃たちの向こう、臥室の入口に佇む影がある。それを認めて、私は、ああ、と声にならない声を零した。
――冬の月のような白銀の御髪。神の手を持つ彫刻家が刻んだように完璧な相貌。氷のように冷徹な瞳は、一見して冴え冴えとした漆黒だけれど、実は濃紺の輝きを持つことを私は知っている。
夜の瞳で私を見据え、彼は感情を排した声音で告げる。
「護国の神獣を騙るとあれば、たとえ上級妃でも処罰は
「――まことでございます、大家」
応じる私も、感情を排した。
今にも泣き出してしまいたくなるほど狂おしい愛しさの渦、そして再会の喜びと無事の安堵を押し殺し、私の心からの真実を訴える。
「
「……左様か」
月珀英の冷ややかな表情は変わらない。
けれどそれすらも愛おしい。
この人のすべてが愛おしい。
たとえこの言動が理解されなくとも――彼を想うこの愛だけは、決して変わることはない。
――ああ。
「生きてまた、あなた様にお会いできてよかった」
「……………………」
あまりの昂りに、抑えたつもりの本音が零れる。
一瞬、自分でも意識していなかったけれど、無言で固まった珀英様にはたと気付いて顔が燃え上がった。ああ、しかも今、完全に敬語を忘れていた! まずい、ステラ時代に気を抜き過ぎたせいだ!
慌てて取り繕おうとする私と、
「……しばし、徳妃と話がある」
人払いを、と足された命に淑妃と医官、私の侍女頭は慎ましく頭を下げて退室する。控えていた侍女も同じく下がり、隣室の
そうして私は――
十六年ぶりに、愛しい夫と相対した。
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