第39話 長い夢
それが夢だと気付いたことに、私自身、驚いた。
「明晰夢……っていうやつなのかしら、これは」
どんなにあり得ない光景も、あり得ない事象も、夢の中では夢だとわからない。そのはずなのに、その自覚をした自分自身に驚いた。
私の目の前には、花畑が広がっていた。冬至を過ぎた厳冬の季節、緯度の高いシエル=エトワレ王国では、決して見ることがない光景だ。針葉樹に囲まれた空間の中心には、倒れて苔むした大木。その傍らには、石造りの小さな墓碑がある。
間違いない。ここは、母の墓所だった。
遠く故郷の森にあるはずの風景には、もう一つ、私の他に姿があった。母の墓碑に寄り添い佇む、真珠色の毛並みの獣。すらりとした成獣の姿でそこにいる彼は、ひどく幻想的だ。
「ユニ?」と呼ぶと、振り返る。
『やあステラ。ボクの可愛いお姫さま』
それがあまりにいつも通り過ぎるので、にわかにわからなくなってしまう。
「これ、夢よね? なんだかあんまり、そんな気がしないんだけど」
『これは夢だよ。キミとボクが見ている、長い長い夢の一部だ』
「……どういうこと?」
この問いには、答えが返らない。
その代わりというように、ユニはいつも通りに懐っこいしぐさで、私に擦り寄ってきた。いつもの慣れでその首筋を撫でて返すと、嬉しそうに話しかけてくる。
『今日はリディアーヌと、いい話ができたみたいだね』
「いい話? っていうと……もしかして、悪役令嬢云々のこと?」
『そうそう、それそれ』
私の来し方、前世と前々世の記憶について、ユニには特に隠してきたわけじゃない。最初は悪夢の内容として、〈一角獣〉が当然のように聞いてくれるようになってからは、その体裁すら取り繕わずにいろんなことを話してきた。
だから今も、なにも不思議に思わない。
『キミがあんな風に思っていたなんて、知らなかったよ』
「私も知らなかったわ。でも、あの子とあの場で話していたら、いつの間にかそんな話になっていたの。なんだかもどかしくて」
『キミも昔は、彼女と同じような考えだったんじゃないのかい?』
「……そうね」
その通りだった。彼女にも話した通り、私も彼女と同じ間違いを犯していた。皇后になるならないは別にしても、もっと素直に、自分と彼に向き合っていればよかった。少なくとも、彼に厭われてはいなかったのだから。
……でも。
「すべて今更のことよ。どれだけ悔いても、懺悔しても、過去はどうにもならないから。だからリディアーヌには、今を大事にしてほしかったの。私はもう、やり直すことはできないから」
『できるとしたら?』
「え?」
真珠の毛並みから目を上げると、夜色の瞳とぶつかった。
『もしもやり直すことができるとしたら、キミはどうする? ステラ。いや――』
『
「…………えっ」
ユニには、過去世のことを話している。
けれど、その名前で呼ばれたことは、一度もなかった。
ユニにとって――星獣〈一角獣〉にとって、私はあくまで〈ステラ・シャリテ〉。桂帝国の後宮妃でも、現代日本の大学生でもないはずなのに。
混乱する私からそっと身を離し、相手の目が、私の目を覗き込む。
『キミは覚えている? 桂国で崇められていた神獣のことを』
「しん、じゅう? そんなの――」
その瞬間、激しい頭痛に襲われた。夢の中なのにと思う間もなく、固く閉じた瞼の裏に、電光のようにある情景が駆け抜ける。
――天より零れ落ちる光の粒のような音曲。地上のあらゆる
そこに描かれた、額に一角をもつ獣の絵。
馬に似て、鹿にも似て、けれどそのどちらとも違う神の獣。それは。
「
己の口から零れ落ちた答えに愕然とする。
――桂帝国の守護神獣・麒麟。
そうだ。私は前世でも〈一角獣〉と呼べる奇跡の獣を知っていた。それなのに――
「なんで、私、忘れて……」
『ボクがそうさせてもらってたんだ。前世を思わせる
はっと目を上げると、そこにいる獣の姿が滲んでいた。
いや、二つの姿が重なっているのだ。見慣れた〈一角獣〉の姿に、似て非なる別の姿が、影のように重なっている。
私の困惑は深まるばかりで、「どうして」と呟くことしかできない。
「どうして、そんな……」
『キミには償うべき罪があった』
「罪……?」
『月氏皇室を滅びの危機へ押しやった罪だ』
理解した瞬間、悲鳴が出た。
「そんな! そんなはずないわ、滅びるはずない! だって、私はちゃんと……!」
『
出されたその名に息を呑む。
『彼女こそが滅びの元凶だ。その存在から皇家は綻び、帝国の滅亡へと転がっていく。その契機である陽花鸞を後宮に入れたのは他者だとしても、それが可能である地位・皇后位に彼女を導いたのは星光眞――キミだよ』
「でも、でもだって、あの子は……」
そんなことをするはずがない。彼女も皇帝を、
『あの娘は、私利私欲のためにキミを殺した。そんな人間が、皇后位にふさわしいわけがないだろう』
本当にそうかはわからない。けれど、国家鎮護の守護神獣がそう判断したのなら、それはあの国では、なによりの真実になるだろう。
再び愕然とする私に、一角の獣は、思わぬ優しい声を出した。
『星光眞。キミはとてもいい妃だった。月珀英の至らぬを補い、弱きを支え、誠実で、若き皇帝の伴侶として最もふさわしい存在だった。――だからボクは、キミをここに導いたんだ』
「導いた……?」
もはやなにに驚いていいのかわからない。
私が三度目の生を得たのは、この乙女ゲームを元にした世界に生まれ変わったのは、偶然ではなかったというのだろうか?
すべてこの、〈一角獣〉の導きだったというのだろうか――?
『同じ立場で、同じ過ちを犯そうとしているものを見て。それでも己の行いを悔いないのであれば、そこまでのこと。けれどもし、自分自身でその過ちに気付き、悔いることができたのならば』
そう言って、私の傍らに移される視線。つられて見た先には、先程までなかったはずの寝台があった。咲き乱れる花々に囲まれた寝台に、横たわる黒髪の女性。固く瞼を閉じているけれど――間違いない。
そこに眠っているのは私。
前世の私、星光眞だった。
『その過ちを正すと誓うなら、キミを、桂帝国に返してあげよう』
「――誓います」
そこに躊躇などいらなかった。
即答した私は、胸に手を当てて前へ出る。
「誓って、陽花鸞を正してみせる。もし本当に、やり直すことができるなら、絶対にあの子を皇后になんてさせない。月氏皇室は、この私が守ってみせる」
そう身を乗り出す私に、〈一角獣〉は尻尾を振った。
『意気込み十分のところ悪いけれど、やり直せるのは続きからだ』
「続きから?」
『キミが死ぬ目に遭ったところから』
「……つまり、あの立后の祝宴から? 毒を飲む前になるの? それとも飲んだ後? いいえ、続きというのだから後なんでしょうね。それじゃあ私は、暗殺されかかって助かったということになるのね」
相手に問う体を取りながら、すでに私は没入している。条件が明らかになるにつれ、思考が具体的なものに育っていく。
考え続ける私に、〈一角獣〉は小さく笑った。
『いい顔をしているね。頼もしい。――それじゃあ、キミを桂帝国に返してあげよう。自らの過ちを正し、若き皇帝とともに、よりよき治世を築くといい』
「――待って」
はっと我に返って制止する。
「私が桂国に帰ったら、〈ステラ・シャリテ〉はどうなるの? このステラも、この世界では大事な存在でしょう。家族もいるし、友人だって」
前世に戻れるのならもちろん戻る。けれど現世に未練がないわけじゃない。どれほど短くても十六年、この世界で生き、この世界の人々と関わってきたことは、変えようのない事実なのだから。
〈一角獣〉は少し考えるように首を傾げ、そして目を細めた。
『大丈夫。キミが戻っても、ステラは残る。星光眞の記憶を持ったキミがいなくなっても、生まれてからこれまで、この土地に生きてきたステラ自身は変わらない』
「……信じていいのね?」
『もちろんさ。これまでボクが、キミに嘘を言ったことがあったかい? 我が愛しのお姫さま』
その記憶はないけれど、記憶自体を改竄された経験を、ついさっきしたばかりである。真正面から信じていいか迷いはあるが、信じるより他にないのもわかっていた。
けれど――
「一日……いえ、数時間だけ。待ってもらうことって、できる?」
〈一角獣〉は、不思議そうにしながらも頷く。
『別に、それは構わないけれど。名残惜しくなって、やっぱり戻るのをやめるなんて言い出さないのなら』
「大丈夫、その心配はないわ」
私は微笑む。
「手紙を残したいだけだから。――我が友、ブルータスに宛てて」
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