第47話 神獣の餞


   ***



 陽皇后の訃報は、翌日のうちに内外へと伝えられた。

 立后後まだ日が浅いこともあり、“不慮の事故”で亡くなった彼女の葬送は、国葬の中でもごく簡素な形式で執り行われた。


 記憶に新しい祝宴での惨事をふまえ、「まさか星徳妃の呪いではないか」「やはりあの暗殺は皇后によるものだったのだ」と噂が飛び交う中、当の星徳妃が葬儀に参列したことで人々は驚愕した。

 淑妃である潭昭燕と肩を並べ、一言も発することはなかったものの、彼女の生存は、皇后薨去の報よりも大きな波で朝廷を駆け巡った。


 噂が憶測を呼び、疑念が疑惑を呼んだ。


 そのような中、徳妃生存の知らせを追うように、皇帝を中心としたさざ波の輪が人々の間に広がった。それは朝廷で交わされたという、君主と臣下の問答の噂だ。


 とある高官が、万民を代表するように皇帝へと問うたという。『宴席で倒れた星徳妃の状態は、死を免れないものだったはず。それがどうして助かったのか』と。

 それに対し、若くも聡明な皇帝は、こう答えたのだという。


『護国の神獣――麒麟の思し召しだ』と。



   ***



「ようやく落ち着いて参りましたわね」


 皇后の葬儀から三ヶ月。

 花盛りの牡丹が咲き乱れる後宮の庭園で、茶器を片手に潭淑妃が言う。護衛の宦官も遠巻きに、付き添いは互いに侍女頭だけの気軽な茶会の席だった。

 向かいに座す私も、上等の白茶を味わいつつそれに応じる。


「数日で終わってしまったとはいえ、皇后に違いはありませんでしたから。後宮の皆がなにかと揺らいでしまうのも、仕方のないことでしょう」


 本来はまだ、皇后の喪に服さなくてはならない期間ではある。けれど身分も家の力もなく、結局、子を産み落とすこともなかった陽花鸞のために、後宮も朝廷も立ち止まってはいられなかった。

 主だった祭祀や行事の形式を変え、服喪の心を表しつつも、内外ともにすでに平常を取り戻しつつある。

 香りを楽しむように鼻先で茶器を留めながら、潭淑妃は「それもありますけれど」と上目遣いに微笑んだ。


「神獣の加護を得た上級妃様へ、あの手この手でお近づきになろうとしていらっしゃる方々も、近頃は落ち着きましたわね?」

「……ええ、そうですわね」


 後宮という場所では珍しく、歯に衣着せぬ潭淑妃に、私は苦く笑みを洩らす。

 彼女のそういうところに私は好感をもっているけれど、上級妃としてふさわしい振る舞いとはいえない。彼女の後ろでは、三十路過ぎの侍女頭が、なんとも言えない目をしていた。


「できればこのまま、穏やかに忘れていただければよいのですけれど。ありがたいことではありますが、畏れ多いことでもありますので」


 死にかけた星徳妃を蘇らせたのは、護国の神獣〈麒麟〉である――

 そんな噂の出所は、我らが麗しの大家だった。


 暗殺劇の自作自演を疑われた私を庇ってのことだとわかっているし、心から感謝してもいる。私自身、同じ口実で立場を固めようとも思っていた。

 けれど皇帝自らが発することで、その噂は、思わぬ余波となって後宮の私まで届いていた。――端的に言えば、味方が増えたのだ。が増え、慕ってくる中級・下級妃が増えた。もちろんみんな、腹に一物を抱えている。


「忘れられたいのであれば、まず、麒麟廟きりんびょうへのお参りをおやめになったほうがよいのでは?」


 麒麟廟はその名の通り、国の神獣たる〈麒麟〉を祀る廟のこと。後宮のほぼ中心に位置していて、皇帝の許しを得れば、いつでも参詣することができる。

 至極もっともな潭淑妃の指摘に、けれど私は頷けない。


「今の私があるのは、かの神獣のおかげです。どれほど感謝してもし足りません。他者からどう思われようと、それは変えられないことなのです」

「では受け入れるしかありません」


 ばっさりと言われて閉口する。

 そんな私に、彼女は柔らかに微笑んだ。


「受け入れて――この国で最も尊い女人になってくださいませ」

「……淑妃様、それは」

「もちろん、『大家の御子を産んで皇后の位を得てください』ということですわ」


 あえてはっきりと言いますけれど、と前置きして、潭淑妃はその切れ長の双眸で、まっすぐに私の目を見据えた。


「先の陽皇后のことがあり、わたくしは改めて思いました。皇后位とは、妃の位の中でも特別なもの。後宮うちを治めるだけの度量と、朝廷そととの間に立つ覚悟がいるものです。今のこの後宮において、それが過不足なく行えるのは、星徳妃様でしかありえませんわ」

「……けれど」


 ようやく声を取り戻し、私は戸惑いながらも問い返す。


「けれど、あなたはそれでよいのですか? あなただって、そのためにここにいるのでしょう? それなのに、そのような」


 彼女の実家である潭家は、北苑地方を治める大貴族。北の騎馬民族との交易による富と、その侵攻を阻むだけの軍事力をもった北方のゆうだ。

 中央との繋がりを強固にするためにも、後宮、ひいては皇帝に対する影響力を増したいのは、彼女も同じはずなのに。


「このようなことを言ってはいけないのでしょうけれど」


 特に悪びれた風もなく、潭淑妃は首を傾ける。


「わたくしはあまり、大家との逢瀬に興味がないのです」

「えっ?」

「もちろん、大家のことはお慕いしておりますわ。我らが大切な主上ですもの。けれどその気持ちは、夫に向けてというよりは、国の主に向けてのものなのです。――敬愛とでも申しましょうか」


 愛憎渦巻く後宮で、そんなさっぱりとした愛を語れる彼女は、やはりある意味で稀有な存在だ。


「平らかに言うなれば、わたくしは家と国のために、あの方に嫁ぎました。その両者が安泰であれば、わたくしはそれでよいのです。世継ぎを産んだきさきでなくとも、潭家が背かぬ証になるなら、あの方はわたくしを無碍には扱いませんでしょう」


 それでよいのです、と潭淑妃は笑う。


「なにより――今のあなた様と大家の寵愛を張り合うなど、到底、現実的ではありませんから」


 揶揄するような微笑みに、思わず頬が熱くなる。

 陽皇后の国葬が済んでから三ヶ月。内外が以前の様子を取り戻したのは最近のことだけど、珀英様のお渡りは、それより早くから戻っていた。三日と開けず彼が私の宮へ通っていることは、当然、他の妃嬪たちも知っているだろう。……それでもやはり、気恥ずかしいものは気恥ずかしい。


 熱っぽい頬に片手を添え、ふっと吐息を洩らす。

 するとそれを見ていた潭淑妃が、「ところで徳妃さま」と話題を変えた。


「やはりまだ、ご無理をされているのではないですか? なんだか、お疲れでいらっしゃるような」

「いえ、大丈夫ですわ。……このところ、どうにも眠気が取れなくて」


 暖かい日が続いているからでしょうか、と苦笑する。


「ぼんやりして、気付けば居眠りしていることも多いのです。それなのにお腹は空くものですから……お恥ずかしい話、目方たいじゅうも増え気味で」


 そんな話ができるのも、相手が潭淑妃だからだ。並の相手にこんな個人的な話はしないけれど、彼女となら談笑のネタにできる。

 と、思っていた私の予想とは異なり、淑妃はすんっと真顔になった。そして私の背後と彼女の背後――それぞれの侍女頭に目配せしたと思ったら、にこりと微笑み直して私を見た。


「やはり部屋に戻りましょう、徳妃様。お疲れのうえ身体が冷えてはいけませんから。さあ永喜」

「左様でございますね。さ、どうぞこちらへ徳妃様。お足もとにお気をつけて」

「えっ? えっ?」


 戸惑う私の風上に立ちながら、潭淑妃は、自分の侍女頭へと指示を出す。


「――遼元を呼んでくれるかしら。今すぐに」





 牡丹園での茶会を切り上げ、呼びつけた後宮医官の診察を受けて知り得た事実は、なにより先んじて桂国皇帝に伝えられた。

 政務中に飛んでくるような人ではないことはわかっていたけれど、夕方になり、私の宮に来てくれた彼を見た時には、思わず泣き出しそうになるくらい安心した。

 珀英様はいつも通りの冴えた表情で、けれどその眼差しには、初めて見るほどの喜びと温もりとが溢れていた。


「よくやった。星徳妃」

「大家……」


 呟いたまま言葉が続かない私に、なにかを察してくれたのだろう。侍女や宦官を下がらせて二人きりになり、珀英様は、改めて労わるように私を抱き寄せた。

 彼の手が、慈しむように私を撫でる。

 しばらくそうしておいてから、彼は耳に心地よい穏やかな声音で、そっと語った。


「朕が至らぬばかりに、そなたにはずいぶん苦労をかけた。東宮時はもとより、即位からのこの一年も――先の宴や、御花園でのことも」


 言及されたそのことに、私は思わず息を止める。


 ――あの日。

 御花園であった出来事がどういう形で収まったのか、珀英様は、ついに私には教えてくれなかった。

 ただ翌朝には陽皇后の訃報が届き、それから五日と経たないうちに、西都莫楼ばくろうにあるせいの分家が取り潰しになったと聞いただけ。書面で父にも尋ねたけれど、詳細はわからず、どうやら口止めされているようだった。

 止めたであろう本人はただ一言。


「すべて終わったゆえ、安堵するといい」


 ただそれだけで、たったそれだけだったけれど、私はそれを受け入れた。この人が大丈夫というのなら、私はそれを信じるだけだと。

 それが、皇帝の妃というものだと。


「妃としてのそなたには、いつも助けられた。至らぬ朕が帝となり得たのは、そなたの支えあってこそだ。かねてより朕は、そなたにこそ、隣にいてほしいと願っていた。――それがこうして、叶う日が来るとは」


 抱き竦める手が、私の下腹部に触れる。今はまだ、なんの変化も見られないそこを撫で、珀英様は、帝の顔を外して微笑んだ。


「この日が来ることを、わたしがどれほど夢見てきたことか。そなたとの間に子ができることを――どれほど望んできたことか」


 ――そう。

 私、星光眞の身に起こったこと。

 それは妊娠だった。


 確かに月のものは遅れていたけれど、話に聞くような悪阻つわりもなく、そんな自覚は微塵もなかった。けれど、診察した潭医官は「間違いないでしょう」と断言し、潭淑妃には「時間の問題だろうとは思っていましたわ」とまで言われてしまった。

 一線を引いていたからとはいえ、何年も授からなかった子どもだ。みんな祝福してくれたし、私自身、とても嬉しく思っている。


 ――思っているけれど。


「私は……この子を産んでも、よいのでしょうか」


 口にした途端、後悔が押し寄せる。触れていた珀英様の身体が僅かに強張ったのが感じられ、その後悔はより深くなる。


 当然だ。

 この子は月珀英の子。男児ならば、いずれこの国を継ぐことになる子。女児であっても、愛する人との間の子だ。産まないという選択肢など、そもそもあるはずも、考えていいはずもない。

 けれど――

 陽花鸞とともに摘み取ってしまった小さな命を、それを止められなかった己を思うと、自分にはその資格がないのではないかと思ってしまう。皇帝・月珀英がその選択を取った時、それを支持してともに歩むと決めたはずなのに、己に宿った命に怯んでしまう。


「申し訳ございません。けれど、私は不安なのです。私に、この子を守っていけるのかどうか――」

「光眞」


 名を呼ぶ声に、はっとする。

 向き合うのは夜色の瞳。ただの黒ではなく、光に藍を映す美しいその双眸。優しく温かく、なにより力強い眼差しが、私を見つめている。


「星光眞。そなたとこの子のことは、この月珀英が、万難を排して守ると誓おう。だから恐れず産んでくれ――誰が許さずとも、わたしが許す」

(……ああ)


 その時、私が感じたそれは、魂を揺さぶられるかのような既視感だった。


 以前にも、私は以前にも同じように、恐れるなと励まされたことがある。守ると誓ってもらったことがある。彼と同じ、夜色の瞳を持つ存在に。

 それを思い出した時、ああそうか、と心の奥底からようやくわかった。


(この子もまた――あなたのはなむけなのね)


 悟った瞬間、涙が溢れた。

 一夜の夢に終わろうと、二度と会うことはなかろうと。奇跡の獣と過ごした時は、彼らが向けてくれた愛情は、今でもまだ、続いている。

 こうしてまた、受け継がれていく。


「ありがとう……ありがとうございます、大家」


 躊躇っていた喜びが、圧し潰されそうだった幸福が、素直なものとなって溢れ出す。


「この子はきっと、強い子です。――我が国の〈麒麟〉に護られて、望まれて生まれてくる子ですから」


 きっとちゃんと生まれて来られる。

 祝福された生を送っていける。


(だから私も――強くならなくちゃ)


 二度目の人生。その続き。

 三度目から舞い戻ったその場所では、私の前に、辿れる〈物語〉の道はない。


 けれどそんなの、誰だって同じだ。


 一寸先もわからない中で、希望を信じ、未来を愛し、みんな必死で生きている――生きていく。

 その中にあって、少しだけ他者ひとよりも多く信じられるものがあるのだから、恐れも躊躇いも必要ない。


「この子の母として、あなた様の妻として。私も、強くなります」


 そう凛として瞳を上げれば、誰より愛しい人が微笑む。

 だから私は、この世界を生きていく。







 ――世界には広大な陸がある。

 その東半分を領土とする大帝国・桂の若き皇帝に、即位から二年目、新たな皇后が寄り添った。


 とある神獣の加護をもつという、その皇后の噂が大陸中へと広まったのは――

 実に、瞬く間のことであった。





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