第28話 星獣の言い分
私はその日、緊張をもってそれと向き合っていた。
細く繊細な鎖。まろやかな厚みのある円形装飾。〈星宿りの首飾り〉と呼ばれる、代々〈星女神の乙女〉に継がれてきたその至宝だ。
場所は学院関係者の居住棟裏。木立と藪に囲まれた僅かな空間に、放棄された花壇の残骸があるだけだ。規律正しい教師たちはもちろん、悪戯好きの生徒も近付かない場所を探して、辿り着いたのがそこだった。
崩れかけた花壇の煉瓦詰みに腰かけて、私は、襟元から引き出したペンダントを両手に乗せていた。
(今日を逃したら、またしばらく機会がないかもしれない)
なんだかんだと誰かに絡まれることの多い学院生活だけど、今日の私は確実に一人だった。なぜならこの時間、リディアーヌとラウルは魔法史学の補習講義を受けており、ブランシュは教養家庭科の
こんな機会は、滅多にない。
誰にも見られず、誰にも聞かれないこの状況でないと、できないことがある。
私は大きく深呼吸して、手の中のペンダントに声をかけた。
「――ユニ」
声に出して呼ぶのは、もういつぶりだろう。
人から不審に思われるのが嫌で、なにより姿を消した〈
今この時も、無反応なペンダントに恐怖している。
森の生活を思い出す
「ねえ、ユニ。いなくなっちゃったの? いつでも駆けつけるなんて嘘で、もう私とは一緒にいてくれないの? ねえ――」
あまりの静けさに、柄にもなく涙が滲みかけたその時。
『――まさか!』
待ち焦がれていた声に合わせ、ペンダントトップがふわりと光る。はっと目を瞬いた次の瞬間、私はそこに、ずっと求めていた姿を見つけた。
夜色の瞳を輝かせ、彼は見慣れた笑みを見せる。
『そんなわけがないだろう? ボクの大切なステラ』
「ユニ――」
思うより先に両腕を広げていた。そしてそうとわかるより先に、仔馬のような奇跡の生き物が、そこに飛び込んできた。
ふわふわの毛並みを抱き締め、まろやかな虹の角に頬ずりする。小さく柔らかな温もりに、心の澱がすうっと溶けていく。ずっと張り詰めていた緊張が、嘘のように消えていく。
ああ、本当に泣いちゃいそう。
「もう、なんですぐに出てきてくれないのよ! 心配しちゃったじゃない!」
『ごめんごめん。愛しいキミの声音でようやく呼ばれたボクの名前に、ついつい聞き惚れちゃってね』
「……ううん、私こそごめんなさい。ここに慣れるのが大変で、なかなか一人きりになれなくて、ずっとあなたを呼べなかった」
『それこそ構わないよ。よくがんばっていたね、ステラ。眠りながらではあったけれど、キミの声は、ずっとちゃんと聞いていたよ』
優しく労わるその声音に――しかし私は、夢から覚めた気がした。
温かな獣から身を離し、深淵のようにも見えるその双眸を、真正面から覗き込む。
「……ユニ」
『なんだい?』
「私の声を聞いていたって、どれくらい、聞こえていたの?」
『ステラ。我が麗しのお姫さま』
歌うように、当然のように。
『愛しいキミの声なら、たとえ眠っていても、遠く彼方に離れていても。聞き惚れることがあろうとも、聞き洩らすことなどボクには決してありえないよ』
それに私は、ああ、と思う。
「それじゃあ――聞いていたのね。私と、リディアーヌが話していたことも」
この世界が〈物語〉であること。この先に待ち受ける未来を、彼女が知っていること。彼女が知る未来では、誰かが命の危険にさらされ、それを救えるのは星獣〈一角獣〉の加護をもつ私だけであること。
そのすべてを。
『うん。もちろんさ』
容易く頷いた星の獣に、私は、自分でもなにかわからない息をついた。瞼を閉じて俯くと、柔らかな鼻面が頬を撫でた。
「……本当に、そうなると思う? あなたの力を使わないと救えないような、危険な状況に誰かがさらされるって?」
『それはボクにもわからない。この未来になにが起こるか、確かにわかる存在なんて誰もいないよ』
「そう? 星女神様でも?」
意地が悪い質問だ。自分でも嫌になるようなことを言ったのに、ユニは怒ることなく『そうさ』と静かに肯定した。
『この世は人が作るもの。たとえもし本流の行方を知ることができても、その流れの一筋一筋の由来まで、女神が感知することはない。だからこそ人は、どんなことでも成し遂げられるのさ』
(……それは)
小さな一筋が変わっても、大きな本流は変わらない、ということなのだろうか。
たとえ一筋の流れを変えたとしても、本流は決して変わらない、と――
即断はできない。けれど、その可能性がぬぐえないというなら、私は、私にできる備えをしなくてはならない。
「――ねえユニ。もしも誰かが危険になったら、それが私じゃなくても、助けてくれる?」
覗き込んで尋ねた私に、〈一角獣〉は目を細めた。
『愛しのステラ。キミの望みは万民の希望と引き換えてでも叶えたいけれど、それに確かな約束はできない』
「どうして?」
『キミの安全無事こそが、ボクにとっての第一だからさ』
聞かずともわかっていたような答えだ。肩を落としそうになるけれど――そうではないと思い直す。
「……つまり、私の安全が確実なら、力を貸してくれるのね?」
顔を上げた私。その頬にキスするように鼻先を掠め、ユニは笑った。
『その考え方は素晴らしいよ、ステラ』
否定ではない。そのことに僅かだろうと希望を持つ。
ユニが力を貸してくれるなら、どんな襲撃でもきっとどうにかなるだろう。それでも打てる手はすべて打たなくては、と考えていた矢先に『さあステラ』と促された。
『名残惜しいけれど、今日のところはここまでみたいだ』
「え?」
『誰かが来る』
呑み込む間もなく、さっと私の頬にキスしたユニは『じゃあまたね』と吸い込まれるようにペンダントへと消える。一瞬、唖然としたけれど、小道の向こうからの足音を聞いて我に返った。
(変な勘繰りをされたらまずい)
寂れた裏庭で一人佇んでいるなんて、見様によってはかなり怪しい。
もしも悪意ある相手なら、これ幸いと尾ヒレ胸ビレをつけたうえで、庶民の奇行を噂の種にするだろう。それくらい堪えられないこともないけれど、すべきことがまだある今、余計な厄介事を引き寄せたくはない。
森育ちの俊敏さで木立に紛れ込んだ私は、そのまま急いでその場を離れようとして……しかし一瞬、好奇心に負けてしまった。
それなりに離れた木の陰で、先程までいた空間へと振り向く。
(あらっ、二人いる)
しかもどうやら男女のようだ。これはもしかすると、本格的に逢引き現場かもしれない。どちらの顔も見えないけれど、男性のほうは生徒ではない気がした。
「……ここなら、誰も……」
「……寂れた場所だが、背に腹は……」
遠く交わされる声音には、どこか聞き覚えがある気がしたが、それを追究しようと思うほど私も無粋じゃない。どうぞごゆっくり、という気持ちで木立を後にする。
その二人の顔を確かめておけばと、悔いる日が来るとは、微塵も思わずに。
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