第28話 星獣の言い分


 私はその日、緊張をもってそれと向き合っていた。

 細く繊細な鎖。まろやかな厚みのある円形装飾。〈星宿りの首飾り〉と呼ばれる、代々〈星女神の乙女〉に継がれてきたその至宝だ。


 場所は学院関係者の居住棟裏。木立と藪に囲まれた僅かな空間に、放棄された花壇の残骸があるだけだ。規律正しい教師たちはもちろん、悪戯好きの生徒も近付かない場所を探して、辿り着いたのがそこだった。

 崩れかけた花壇の煉瓦詰みに腰かけて、私は、襟元から引き出したペンダントを両手に乗せていた。


(今日を逃したら、またしばらく機会がないかもしれない)


 なんだかんだと誰かに絡まれることの多い学院生活だけど、今日の私は確実に一人だった。なぜならこの時間、リディアーヌとラウルは魔法史学の補習講義を受けており、ブランシュは教養家庭科のマルゴおばあちゃんメメール・マルゴのもとへ、そしてヴィクトルは来客の呼び出しで学院長室へ行っているからだ。おまけに第二学年は、講堂で特別講義の真っ最中らしい。

 こんな機会は、滅多にない。

 誰にも見られず、誰にも聞かれないこの状況でないと、できないことがある。

 私は大きく深呼吸して、手の中のペンダントに声をかけた。


「――ユニ」


 声に出して呼ぶのは、もういつぶりだろう。

 人から不審に思われるのが嫌で、なにより姿を消した〈一角獣ユニコーン〉とはもう二度と話せないのかもしれないと思うと恐ろしくて、森を離れてからずっと、心の中でしか呼びかけられずにいた。

 今この時も、無反応なペンダントに恐怖している。

 森の生活を思い出すよすが。母から受け継いだ聖女の証。それらを抜きにしても、十一歳から五年間、片時も離れずにいた存在だ。眠っていると言ったから、これまでそれを信じてきたのに。


「ねえ、ユニ。いなくなっちゃったの? いつでも駆けつけるなんて嘘で、もう私とは一緒にいてくれないの? ねえ――」


 あまりの静けさに、柄にもなく涙が滲みかけたその時。


『――まさか!』


 待ち焦がれていた声に合わせ、ペンダントトップがふわりと光る。はっと目を瞬いた次の瞬間、私はそこに、ずっと求めていた姿を見つけた。

 夜色の瞳を輝かせ、彼は見慣れた笑みを見せる。


『そんなわけがないだろう? ボクの大切なステラ』

「ユニ――」


 思うより先に両腕を広げていた。そしてそうとわかるより先に、仔馬のような奇跡の生き物が、そこに飛び込んできた。

 ふわふわの毛並みを抱き締め、まろやかな虹の角に頬ずりする。小さく柔らかな温もりに、心の澱がすうっと溶けていく。ずっと張り詰めていた緊張が、嘘のように消えていく。

 ああ、本当に泣いちゃいそう。


「もう、なんですぐに出てきてくれないのよ! 心配しちゃったじゃない!」

『ごめんごめん。愛しいキミの声音でようやく呼ばれたボクの名前に、ついつい聞き惚れちゃってね』

「……ううん、私こそごめんなさい。ここに慣れるのが大変で、なかなか一人きりになれなくて、ずっとあなたを呼べなかった」

『それこそ構わないよ。よくがんばっていたね、ステラ。眠りながらではあったけれど、キミの声は、ずっとちゃんと聞いていたよ』


 優しく労わるその声音に――しかし私は、夢から覚めた気がした。

 温かな獣から身を離し、深淵のようにも見えるその双眸を、真正面から覗き込む。


「……ユニ」

『なんだい?』

「私の声を聞いていたって、どれくらい、聞こえていたの?」

『ステラ。我が麗しのお姫さま』


 歌うように、当然のように。


『愛しいキミの声なら、たとえ眠っていても、遠く彼方に離れていても。聞き惚れることがあろうとも、聞き洩らすことなどボクには決してありえないよ』


 それに私は、ああ、と思う。


「それじゃあ――聞いていたのね。私と、リディアーヌが話していたことも」


 この世界が〈物語〉であること。この先に待ち受ける未来を、彼女が知っていること。彼女が知る未来では、誰かが命の危険にさらされ、それを救えるのは星獣〈一角獣〉の加護をもつ私だけであること。

 そのすべてを。


『うん。もちろんさ』


 容易く頷いた星の獣に、私は、自分でもなにかわからない息をついた。瞼を閉じて俯くと、柔らかな鼻面が頬を撫でた。


「……本当に、そうなると思う? あなたの力を使わないと救えないような、危険な状況に誰かがさらされるって?」

『それはボクにもわからない。この未来になにが起こるか、確かにわかる存在なんて誰もいないよ』

「そう? 星女神様でも?」


 意地が悪い質問だ。自分でも嫌になるようなことを言ったのに、ユニは怒ることなく『そうさ』と静かに肯定した。


『この世は人が作るもの。たとえもし本流の行方を知ることができても、その流れの一筋一筋の由来まで、女神が感知することはない。だからこそ人は、どんなことでも成し遂げられるのさ』

(……それは)


 小さな一筋が変わっても、大きな本流は変わらない、ということなのだろうか。

 たとえ一筋の流れを変えたとしても、本流は決して変わらない、と――

 即断はできない。けれど、その可能性がぬぐえないというなら、私は、私にできる備えをしなくてはならない。


「――ねえユニ。もしも誰かが危険になったら、それが私じゃなくても、助けてくれる?」


 覗き込んで尋ねた私に、〈一角獣〉は目を細めた。


『愛しのステラ。キミの望みは万民の希望と引き換えてでも叶えたいけれど、それに確かな約束はできない』

「どうして?」

『キミの安全無事こそが、ボクにとっての第一だからさ』


 聞かずともわかっていたような答えだ。肩を落としそうになるけれど――そうではないと思い直す。


「……つまり、私の安全が確実なら、力を貸してくれるのね?」


 顔を上げた私。その頬にキスするように鼻先を掠め、ユニは笑った。


『その考え方は素晴らしいよ、ステラ』


 否定ではない。そのことに僅かだろうと希望を持つ。

 ユニが力を貸してくれるなら、どんな襲撃でもきっとどうにかなるだろう。それでも打てる手はすべて打たなくては、と考えていた矢先に『さあステラ』と促された。


『名残惜しいけれど、今日のところはここまでみたいだ』

「え?」

『誰かが来る』


 呑み込む間もなく、さっと私の頬にキスしたユニは『じゃあまたね』と吸い込まれるようにペンダントへと消える。一瞬、唖然としたけれど、小道の向こうからの足音を聞いて我に返った。


(変な勘繰りをされたらまずい)


 寂れた裏庭で一人佇んでいるなんて、見様によってはかなり怪しい。

 もしも悪意ある相手なら、これ幸いと尾ヒレ胸ビレをつけたうえで、庶民の奇行を噂の種にするだろう。それくらい堪えられないこともないけれど、すべきことがまだある今、余計な厄介事を引き寄せたくはない。


 森育ちの俊敏さで木立に紛れ込んだ私は、そのまま急いでその場を離れようとして……しかし一瞬、好奇心に負けてしまった。

 それなりに離れた木の陰で、先程までいた空間へと振り向く。


(あらっ、二人いる)


 しかもどうやら男女のようだ。これはもしかすると、本格的に逢引き現場かもしれない。どちらの顔も見えないけれど、男性のほうは生徒ではない気がした。


「……ここなら、誰も……」

「……寂れた場所だが、背に腹は……」


 遠く交わされる声音には、どこか聞き覚えがある気がしたが、それを追究しようと思うほど私も無粋じゃない。どうぞごゆっくり、という気持ちで木立を後にする。


 その二人の顔を確かめておけばと、悔いる日が来るとは、微塵も思わずに。





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