第42話 氷解
「身体は」
はっとする。
短くも通りのいい声音に、自然と意識の糸が張る。居住まいを正して見上げた私を、珀英様が見下ろす。
「まことに、大事ないのか」
問いかけの意味を脳内処理し切るより先に、私は慌てて目を伏せた。
「大切な立后の宴の最中に、大変なご無礼を――」
「さようなことは聞いておらぬ」
ぴしゃりと遮った珀英様は、私の寝台に腰かける。ずっと近付いた目線で私を見据え、彼は、噛んで含めるように繰り返した。
「そなたの身体のことを聞いておるのだ。大事ないのか」
「あ……え、ええ。喉や胃の腑の痛みも今はございませんし、この通り、発声も問題なく行えます。手足の痺れも残っておりません」
「では、
念押しのように重ねてきたのは、嘘ではないにしろ、すべてを語ってもいないと見抜かれているからだろう。本当に聡い人だ。
「……傷や痺れは消えましたが、流れた血は戻っていないのかもしれません。少し、目が眩む気がいたします」
さもありなん、という顔をしても、珀英様は美しい。思わずそれに見惚れていると、おもむろに伸ばされた手が私の頬に触れた。親指がそっと、目元を撫でる。
「自身ではわからぬだろうが、ひどい顔色をしている。もとよりそなたの肌は白く美しいが、今はまるで……死人のようだ」
不吉な言葉を忌むように、憂いと険を含んだ声と眼差し。それと対極をなすような手の平の温もりに、ぎゅっと胸が締め付けられる。
本当に――もしかしたら本当に、そうなっていたのかもしれなかったのだ。
それを回避し、戻って来られたのは、私にはここですべきことがあるから。この確かな温もりを、その平穏を、守らなくてはならないからだ。
込み上げていた感情の波が引くのを待って、私は頬に触れる手に手を重ね、「
「お聞かせくださいませ。私が倒れて後のことを。あの時、あの場でなにが起こっていたのかを」
「……いいだろう」
そうして珀英様が語った内容は、おおかた私の予想通りだった。
「そなたが倒れた時のことは、覚えているか?」
祝宴の最中。寿ぎの
「すぐに駆け寄ったのは花鸞だ。他にも続こうとするものがあったが、
珀英様らしい判断だ。群衆が動けば場が乱れる。暗殺者が潜んでいた場合、混乱に乗じて第二、第三の被害が出ていたかもしれない。
皇帝の命により移動を禁じられた人々の前で、唯一、近習により連れて来られた
「花鸞はずっと、そなたに謀られたと主張していた。そなたが意識を失う間際、駆け寄ったあれにだけ聞こえるよう、口汚い呪詛を吐いたのだと。己の立后を衆目の前で穢すのが、そなたの目的だったのだと」
(なんとまあ……)
私がすぐ弁明できないからといって、好き勝手に言ったものだ。
別の意味で眩暈がしてきそうな頭を押さえ、私は「そのような愚かな真似はいたしません」と思わず否定した。
「立后の祝宴は、宮廷はもとより国内外が注目するものです。そのような場を
「その通りだ」
珀英様はあっさりと頷いた。
「そなたこそが花鸞の強い後ろ盾であったと、内廷外廷問わず、誰もがよく承知している。――そなたの後押しなくば、いくら懐妊しようと、平民出の娘が皇后になど認められようはずもなかったのだから」
そうなのだ。
原作の〈物語〉でも、平民出身の陽花鸞が皇后にのし上がるのは大変だ。潭淑妃の援助を受け、得意の才能で皇帝の目に留まり、懐妊することでようやく貴妃の位になれる。そこから激化する〈稀代の悪女〉の嫌がらせを返り討ちにし、最上位にあった彼女を蹴落として、やっと皇后になれるのだ。
蹴落とされたくなかった私は積極的に手を貸して、桂帝国史上初の平民出身の皇后を生み出すことに注力した。ただの妃であればともかく、皇后ともなれば後宮だけの問題ではなくなるから、宰相である父にも協力を要請した。渋る父をなんだかんだと説得して、各所に手を回してもらっていた。
そんなことをしなければ、きっと皇后位に一番近いのは、私自身であったのにだ。
「ゆえに――花鸞の言い分に耳を貸すものはほぼいない。代わりに、『そのような嘘を申すのは、己に後ろ暗いところがあるからでは』などと言うものが出てきているのが現状だ」
私は呆れ返った。
(馬鹿な子だわ。黙って私の排除だけに専念すればよかったのに)
着座したまま戸惑うフリでもしていれば、側仕え一人に罪をなすりつけることもできただろう。それをわざわざ一番に駆け寄ってきて、誰にも明らかな嘘をつくことで疑念を買うなんて。
(そこまでして、私に勝利宣言したかったのかしら……)
さすがにそこまで愚かではないだろう、と思いたいのはやまやまだが、今のところ否定の材料がない。〈麒麟〉はああ言っていたけれど、放っておいても自滅してくれたかもしれないくらい残念だ。
ひとまずその問題は脇に避け、情報の聞き取りに専念する。
「私に盛られた毒は、なんだったのでしょう? 酒盃を運んだ側仕えは、なにも知らなかったのでしょうか?」
「なにも知らぬと言い張っている。己は陽皇后より酒盃を受け取り、星徳妃に渡しただけだと」
それはそう言うかと思ったので、これには頷くだけで留める。
「毒の種類についても、まだわかっていない。神酒の残りはすべて零れてしまったゆえ、調べが難航しているのだ」
私が取り落とした酒盃が回収され、調べられてはいるそうだが、今のところ『表面の漆に異常はない』ことしかわかっていないという。
(毒の種類から、入手経路を辿られればいいのだけど……)
〈ステラ〉時代に多少かじってきたとはいえ、この世界、この国にある毒物については詳しくない。この件については、ここでの推測は無理そうだ。
ふう、と思わず息をつけば、繋いだままだった手を握られる。
目を上げると、夜色の瞳が私を見つめていた。
「そなたは本当に……このような時にまで頼もしい女人だな」
感嘆と呆れとが半々に交じったその声音に、私はふっと微笑んでみせる。
「『焦るのも弱るのも、後にしろ。すべては、すべきことが終わってからだ』と――そう教えてくださった方がおられますから」
それは、私が東宮妃になりたての頃。
まだ妃は私一人だった東宮の後宮で、食事に毒を盛られた時のことだ。遅効性の毒症状は、私が一口目を食す直前、毒味の下女の身にようやく発現した。激しい嘔吐に両手足の麻痺――重い後遺症を残したその下女は、十分な補償金を渡して実家に帰らせたけれど。
(――あと数秒遅ければ、私もそうなっていた)
その恐怖に呑み込まれそうになっていた新米妃の私に、当時東宮だった月珀英が言ったのが、その言葉だったのだ。
しかし今の珀英様は、どこかきまり悪げに目を逸らした。
「……あの時は、すまなかった。できるならば忘れてくれ」
「どうしてです?」
本気でわからなかったので、思わず率直に聞いてしまう。
「大家が謝られる必要などございません。あの教えがあったからこそ、私はその後も、己を見失わず必要な判断を取ることができてきたのです。忘れることなどできません」
「本当は、朕が守るべきだった。己の妃なのだから」
思わぬ強さで言い切られ、私は大きく目を見開いた。反対に目を伏せた珀英様は、迷うようにしつつも続きを吐き出した。
「だがあの頃の朕は……そなたをあまり、よく思ってはいなかった。いや、そなた自身ではない。星宰相の娘というそなたの身分が重かったのだ。己で対処できぬならそれまでと……そう、思って言ったことだった」
――月珀英という人物が、これほど素直に、己を吐露したことがあっただろうか。
桂帝国皇帝・月珀英は、怜悧で冷徹な〈月の君〉だ。いかなる時でも情に流されず、遥か高みから地上を統べる絶対君主。冷ややかな自信は揺るぎなく、本心など決して明かさないはずだった――彼の心の氷を解かす、太陽のような少女の他には。
そんな彼が、私に謝る。
「朕は間違っていた。すまぬ、光眞」
「――あなた様はなにも間違っておられません、大家」
今にも離されてしまいそうな手を握り返し、それでも足りずに両手で包む。
「あの時のお言葉のおかげで、私はここまで、生きてこられたのです。これからも、あなた様とともに生きていくために、なすべきことをなそうと思えるのです」
ただ守ってもらうだけでは、これほどの想いは得られなかっただろう。
苦難を見据え、ともに歩める人間になろうと決めたから。そうでなくてはならないと、あの時に覚悟が決まったから。画面の向こうに憧れていただけの日々よりも、この愛が、強く深く育ってきたのだ。
(もう二度と――この手を離したくはない)
温かい手。画面の向こうでも記憶の彼方でもなく、確かにここにあって、触れることができる人。――愛することができる人。
気付けば私は、抱き寄せられていた。
「……此度のことで、朕は思い知った」
鼓動を感じる。熱が重なる。
肩口に埋められた彼の唇から、熱い吐息とともに、掠れた声が零される。
「己にとって、どれだけそなたの存在が大きいか。どれだけそなたに支えられていたか。どれだけそなたを――想っていたか」
私はそっと息を呑む。
「朕はもう、そなたを失いたくはない。この先、なにがあろうとも」
「……私も……私もです、大家」
望外の囁きに、返す想いが涙で滲む。
そっとその背を抱き返すと、身を抱く腕がより強まった。それから僅かに身を離し、私を労わるように、彼は触れるだけの口付けをした。
「この奇跡をもたらした神獣に、朕は心から感謝しよう」
「ええ――」
やり直しの機会を与えてくれた〈一角獣〉に、私も心の底から感謝する。
そして改めて、決意を固めた。
――この人のために、私の罪を償おうと。
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