第20話 そこに加わる幼なじみ
講義室に入った時、私は最初、気付かなかった。
食堂から一度自室に戻り、授業の準備をして出てきたところで待ち構えていたリディアーヌとブランシュに捕まって、おまけに寮の外でヴィクトルまで加わった。その品よくにぎやかな一隊の中にいたおかげで、すでに着席していたその顔に目がいかなかったのだ。
ちらりと室内を見回した時も、同じ制服を着た同年代が二十人ほどいるな、とそれくらいしか思わなかった。
そう。この学院には
ちなみに日常生活での着用は義務付けられていない。寄宿生活という性質上、境目は曖昧だけれど、基本的に講義や式典の時以外にはローブを着る必要はないとされている。
(なんだか久しぶりね。こういう光景は)
村の学校に制服はなかったし、それより前の中華後宮など言わずもがな。むしろ特製の衣装でいかに自分の個性を引き立たせるかを競い合うような空間だったから、その対極ともいえるこの光景は、なんとも感慨深く思える。
「座席は基本的に自由よ。わたくしたちはいつも一緒に座っているから、ステラも一緒にいるといいわ」
講義室の座席形式は、日本の多くの大学と同じ。教壇と黒板を前に、五人掛けほどの長机が複数列並んでいる。その中でも前のほうに座るとほぼ同時に、この授業の担当教師と、学年主任のレジーヌ・オルビット女史が現れた。
ざわつきの収まらない室内に「みなさん」と厳しい声が飛ぶ。
「十二年に一度の大祭も終わり、気が抜ける思いの人も多いでしょう。しかし、この伝統ある学院の生徒である以上、それにふさわしい態度で日々の講義に臨んでもらわねばなりません」
凛とした教師の眼差しに、水を打ったように静まる講義室。それに満足げに頷いて、オルビット先生は「講義の前に」と補足した。
「本日から、この学年に編入生が二人加わります。すでに挨拶をすませた人もいるかもしれませんが、一応、簡単な自己紹介をしてもらいましょう」
(――二人?)
思わぬことに目を瞬いたのは少しだけ。「ステラ」とオルビット先生に名前を呼ばれた私は、その場で立ち上がり挨拶した。
「ステラ・シャリテと申します。よろしくお願いいたします」
我ながら簡素で当たり障りない。しかし誰の耳にも好ましく届くよう、明るく柔らかな声音になるようにと気を配った。そういう声の使い方は、前世でよくよく学んでいる。おかげさまで、周りからは特に反感めいた反応は感じられなかった。
微笑み頷いたオルビット先生は、次に後ろの席へと目を向ける。
「ではもう一人――ラウル。自己紹介を」
「えっ?」
やけに耳馴染みする名前だ。思わず振り向いた私は、まったく同じローブ姿の同年代の中、やけに馴染んだ顔を見つけた。
そんな私に気付いたのか否か。抜きん出て高い背を見せつけるように立ち上がり、「あー」と呑気な声を挟んだ彼は、気負うことなく挨拶した。
「ラウル・トローです。よろしく」
その場で叫び出さなかった私を、誰か褒めてほしいと思う。
ラウル・トロー。それは私の幼なじみであり、四つ年上の狩人であり、故郷に残してきたはずの友人だ。
(それがいったいなんで、どういう経緯で、どうしてここにいるんです!?)
大声で飛び出しかけたツッコミを精神力で呑み込んだのは、むろん、ここが学院の講義室で、授業が始まったばかりだったからだ。
「今日は編入生がいるからな。薬学の基礎から復習するぞ」
魔法薬学の担当である男性教師が、慣れた様子で教科書のページ数を指定する。オルビット先生はすでに退室しているが、みんな真面目にその指示に従っていた。となれば、私一人が動揺し続けているわけにもいかない。
ヨーロッパの紙と言えば羊皮紙が思い浮かぶが、学院で使われている教科書や書き取り用の紙束は、すべて植物紙が使われていた。前世の後宮で使っていたものより質は劣るものの、普通に使う分には問題ない。
問題があるとすれば、文字の読み書きが満足にできない自分のほうだった。
(そうよ。そもそも私、それを学びたくて王都に出てきたんじゃない)
教科書と黒板に並ぶアルファベット風の文字列を前にして、すん、と一気に我に返る。
思わぬ人物の出現に驚いている場合ではなかったのだ。せめて授業の概要だけでも掴んでおこうと聞き取りに精を出していると、脳みその一部でぐるぐると渦巻いていた疑問の数々も、じきに落としどころを見つけ出す。
(そういえば、ラウルはもともと王都の生まれだって、おばさんが言っていたわよね。おじさんが護衛騎士で、おばさんが侍女だったってことは、それぞれ王都にツテがあっても不思議じゃないか)
おそらく、私を心配して息子を送り出してくれたのだろう。さっきの挨拶の通り大概のことには動じないマイペースだから、王都の学院でもやっていけると思われたのかもしれない。
(……でもね、おじさんおばさん)
王都で生まれても、育ったのは辺境の森。狩人としての彼しか知らない私には、どうにも不安しか覚えられないのだった。
授業が終わり、ようやく私は、彼の前に立った。
焦げ茶の髪は丁寧に梳かれ、狼の群れに紛れていた時のようなにおいもしなくなっていたが、森色をした瞳は変わらない。
「久しぶり、ラウル。まさかこんなところで会うとは思ってもいなかったわ。ちょっとお話してもいいかしら?」
「ああ、うん」
にっこり笑ってのお誘いに、相手は曖昧に目線を泳がせる。長年の付き合いのおかげで伝わるのだろう。私が今、ちょっとばかり神経質になっていることが。
編入生二人に注がれる目は多い。できれば場所を移して話したかったが、ちょこちょことついて来ていたブランシュが、不思議そうに小首を傾げて尋ねてきた。
「ステラさんとラウルさんは、お知り合いなんですか?」
「ええ。故郷が同じなんです。親同士も知り合いで、いわゆる幼なじみですね」
「まあ! 素敵ですね、幼なじみと偶然同じ日に編入するなんて!」
ぽん、と両手を合わせて大きな目をきらきらさせるブランシュに、無意識のうちに癒される。ああ、可愛い……。
その一瞬の隙をつき、ラウルは私の背後へと話を振った。
「ああ、王子様。その節はどうも」
「こちらこそ、ラウル。心配していたが、思ったよりも馴染めているようで安心した」
どういうことかと二人に尋ねると、どうやらラウルの編入も、ヴィクトル王子が世話したことらしい。父が生死の境をさまよったあの夜、トロー家に泊まったヴィクトルに、ラウルの両親が申し出たとか。
「あの時はまだ、王宮に戻るつもりだったからな。きみに安心してもらうためにもいいかと思って了承したんだが……」
話はそこから一転し、結果として、御年二十歳のラウル青年が十六歳ばかり集う講義室にいるというわけだ。
しかしそういうことなら、同じくトロー家に泊まっていたリディアーヌ嬢も知っていたはず。ブランシュの後ろに隠れる黒髪のご令嬢をじろりと見ると、彼女は白々しくとぼけて笑った。
「そういえば、ステラには言い忘れてたわ。というか、彼が直接話してるかと思ってたのよね。それにほら、なんだかバタバタしていたし」
「ああ、まあその、オレもバタバタしていたし」
“バタバタ”の内容を知っている分、それ以上はなにも言えない。
なにはどうあれ、彼はここにやってきて、そして一緒に学院生活を送ることになったのだ。今更、私がどうこう言っても仕方がないことだった。
(……年齢をごまかして年下集団に紛れる苦労は、私もよくよく知っているし)
だから一つ息をつき、それで矛を収めることにした。
「なにはともあれ、またあなたと過ごせるようになって嬉しいわ。困ったことがあったら遠慮なく言ってね。私も、困った時には遠慮なく頼らせてもらうから」
「――おう」
ほっとしたように相好を崩す幼なじみに、私も森にいた時のように、なにも飾ることない笑顔を返す。
そんな笑い方をしたことこそ、なんだかずいぶん久しぶりに思えた。
――そして私は、ひそかに決意を抱く。
(やっぱり、リディアーヌに、この〈物語〉のことをちゃんと聞こう)
どこか不穏なオデイル嬢。
王都の学院に現れた幼なじみ。
それらのことを考えるに、一度は避けたその内容は、やはり聞いておかなくてはならなかった。
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