第3話 ラウル・トロー
「ステラ」
ユニの呼び声で、私は来客を知る。
「ラウルが来るよ」
「あら。なんの用事かしら」
私が大好きで常に周りをうろうろし、二人きりの時には絡んでくること数限りないもふもふだけど、そんな彼だからだろうか、私以上に私の周囲をよく見ている。父が帰ってきた時も、村から患者が来る時も、彼らが森の中を歩いている頃から知らせてくれるので、結構便利だった。なんせスマホもなく取次の侍女もいない生活なので、下手をすればすれ違うこと甚だしいのだ。
井戸端で手の土汚れを落としていた私は、慌てず急がず、それを続ける。
手拭いでしっかりと水気を拭いてから、ようやく立って振り向くと、柵の向こうに小汚い幼なじみが立っていた――悪口ではなく、それが事実である。
刈り込んだ濃い茶の髪と、森のような深い緑の瞳。地味な色味で粗末ながら、動きやすさを極限まで追求したであろう服とブーツ。やたらと背が高く手足も長く、それでいて若木のような逞しさを具えたその青年。
陽に馴染んで浅黒い片手を挙げ、彼のほうから口を開いた。
「よっ。今日も元気そうだな、ステラ」
「おかげさまで。ラウルこそ、今日もにおうわね」
「うるせー。狩り帰りなんだよ」
軽く顔を顰める彼の名前は、ラウル・トロー。私たちと同じように森に住み、弓を使って鳥獣を狩ったり、余人には辿り着けない場所で採集したりする狩人の息子だ。彼自身も狩人であり、今も肩には短弓を、腰には矢筒を携えている。
そもそも入浴習慣がない地域とはいえ、それに輪をかけて垢じみた格好なのも、彼のその生業のためである。人間らしいにおいがあると、いろいろと不都合なのだ。森に紛れられなかったり、相棒たちに嫌がられたり。
ひょいと後ろを覗き見る私に、ラウルは空いた片手を振る。
「あいつらはもう帰らせたよ。他に用事もあったから」
「なんだぁ、残念」
ユニに負けず劣らずもふもふなラウルの相棒たちが、私は昔から好きだった。なんならラウル本人より好きだった。もちろん、ラウルのことが嫌いというわけでは決してないのだけど。
(……徳妃時代に会ってたら、ちょっと敬遠してただろうな)
生まれも育ちもお嬢さまで、後宮という箱庭の奥深くに閉じこもっていたあの頃は、庶民の暮らしなんて前々世界のサラリーマン家庭くらいしか想像できなかった。令和の日本からでも違和感がないほど、すべては清潔で整っていたから、彼のような人を見る機会も知る機会もなかったのだ。
とはいえ、今となっては私もその一員のようなもの。さすがに医薬品を扱う以上、狩人たちよりはよっぽど衛生管理はしているけれど。
「それで、今日はどうしたの?」
「ああ、そうだ。ほれ」
「え? なに?」
差し出されたのは、一抱えほどの素焼きの蓋付壺。受け取ったその蓋を開け中身を見た私は、思わずわっと歓声を上げた。
「これ、蜜蝋じゃない! わざわざ届けに来てくれたの?」
「わざわざってほどでもねえよ。親父さんに頼まれたからな」
「お父さんに?」
そういえば今日は、父の帰りが遅い。泊まり明けの日でも、だいたいはまっすぐに帰ってきて、家でゆっくり休むタイプの人なのに。初夏の太陽はまだ空高いけれど、森の中は、そろそろ夕暮れを映し出す頃合いだ。
なにかあったのだろうか、と幼なじみを見上げると、ラウルは心配いらないというように首を振った。
「星女神の十二年大祭の打ち合わせ……って名目で、村長たちの寄合に巻き込まれてるだけだ。今夜の酒の席にって頼まれたキジを持って行ったら、偶然会ってな」
「あらら……それはもしかしたら、今日も帰れないかもしれないわね」
「ああ。なんだったら、
そこで言葉を切ったラウルは、どこか神妙な顔で私を見る。
「――大丈夫なんだろうな。お前は」
「ええ、そうね。大丈夫よ」
娘一人の夜。夜盗や獣の心配がないではない中で、しかし私がそう即答するのは、もちろん、ユニの存在があるからだ。そして実を言えば、このラウル・トローだけが唯一、私以外で、私を守る〈
私の後ろを見やったラウルは、当たり前のようにそこへ話しかける。
「そういうことだからな、〈一角獣〉。ステラのこと、よろしく頼むぞ」
『むろんだね。キミに言われなくたって、いつだってボクはステラを守るよ』
こちらも当たり前のように答えるユニがふんわり飛んでいるのは、しかし、ラウルの頭の真上である。冗談ではなく本当に、彼には見えていないのだ。最初の頃は私も混乱したけれど、今となっては、それも慣れた違和感だった。
「そうだ。留守番は大丈夫なんだけど、ちょっとだけ、お願いしてもいい?」
「ん? ああ、なんだ?」
「実は……タンスの裏に、落とし物しちゃって」
お父さんが帰ったらタンスを動かしてもらうつもりだったけど、ラウルが手伝ってくれるならちょうどいい。
快諾してくれたラウルを連れて、私の部屋に行く。ベッドとタンスでいっぱいいっぱいの場所ながら、勝手知ったる幼なじみ、上手にタンスをどかして裏を覗き込む。
「おっ、あったぞ。これだな。……ん? これは……」
拾い上げたそれを見て、ラウルが怪訝そうな声を出す。その理由がわかっているだけに、私は首を縮めて、続く彼の驚愕を聞いた。
「お前これ――エトさんの絵姿じゃないか! なんでこんな大事なもの、こんなところに落っことしてるんだよ!」
「うっ……お、落としたくて落としたわけじゃないもん。掃除をしてて、うっかりぶつかっちゃっただけだもん……」
「それにしてもお前、一つしかない母親の絵姿だろ。まったく……」
呆れながらホコリを払い、「ほら」と私に渡してくれる。
――エトワール・シャリテ。私の母親。
十代で私を産み育て、二十九歳という若さで病没した女性。
この絵姿は、そんな母の若い頃を描いたものだった。今の私よりも少し年上だろうか、美しい娘が微笑むさまを、炭のような粗末な画材で丹念に描き上げた一枚の画布だ。板に張り付けたそれを、いつもはタンスに乗せ壁に寄り掛からせていたのだが、まあ、今日は運が悪かった。
「ごめんね、お母さん」
慎重に元の場所に戻し、描かれた人へと謝る。ふわりと波打つ髪の娘は、それに応じることもなく、ただ静かな微笑みを浮かべるだけだけど。
「――ありがとうラウル。おかげで助かったわ」
「どういたしまして。こんなことが何度もあっちゃ困るけど、これくらいのことなら、遠慮なく頼れよ」
ふっと口端を上げて笑ったラウルは、手を伸ばして私の頭を撫でてくる。ちょっと雑だけど優しい手のひらは、「お兄ちゃん」と呼んで慕った昔から変わらない。
だからこそ、眉根を寄せてしまう。
「ちょっと、私もう十六よ。子ども扱いしないでよ」
「四つも違えば子どもだ、子ども。俺は、お前が生まれた頃だって知ってるんだからな」
そう言われればステラとしてはぐうの音も出ないが、私としては、なんとも複雑な気分である。三度の人生を重ねた私の精神年齢は、下手をすれば、ラウルとは子どもどころか孫ほどの差があるのだから。
(年頃の女の子に、気軽にそんな真似しちゃダメだよ! 勘違いされちゃうよ!)
そんな老婆心も口には出せず、むすっと唇をとがらせるしかない。
その私を見て楽しそうに笑うのだから、この幼なじみの行く末が、まったく心配でならなかった。
……これで清潔感さえどうにかすれば、村の女の子たちも、きっと放っておかないと思うんだけど。ああ、残念。
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