2.未知なる紅茶〈Iced Tea〉⑨


 それからすぐのことだった。


「あやめちゃん!」


 声がした方をふり返ると、芽依と恵太郎くんが駆けてきた。探されているのが私だというのは本当だったらしい。


「ホントにごめん! って、ずぶ濡れでどうしたの? メガネのせい?」


 途端に秀二さんがいらついた顔になる。


「これは私のせいだから! 秀二さんが砂まみれなのも私のせい」


 ふいに視線を下げた芽依が固まった。何を見ているのかと思ったら、秀二さんと手を繫いだままだった。

 慌てて手を離して「これはその──」と言い訳しようとしたものの、「仲直りしたってこと?」と訊かれたので頷いておく。芽依はいかにも面白くなさそうだ。


「あやめちゃん、結局メガネ側の人間なんだね」


 ふてくされたように言う芽依の頭を、恵太郎くんが後ろから小突く。


「当たり前だろ、夫婦なんだから」

「だってー」


 芽依は唇を尖らせたが、やがて私を見返した。


「あんな風に喧嘩してても、仲直りできちゃうんだ」

「まぁ……でも、それは親でも友だちでもそうじゃない?」

「親は血が繫がってるし、友だちは一緒に住んでるわけじゃないじゃん。でも、夫婦って一緒に住んでる他人でしょ?」

「──他人だから、信用とか信頼が大事なんですよ」


 唐突な秀二さんの言葉に、私は小さく息を吞んだ。


「相手を信用できなきゃ一緒に暮らすなんて無理です。あなたのお母さんも、相手の方を信じることに決めた、ただそれだけでしょう。それに、信じてるからっていつもいつも仲良くできるわけないじゃないですか。あなただって恵太郎くんと年中喧嘩や口論をしてるでしょう」

「な、なんであたしとケータの話になんの! 関係ないじゃん!」

「社会的な責任だのなんだのありますが、結局のところ夫婦なんて所詮法律で括られた枠の名前でしかありません。本質的には信頼し合った人間が一緒にいて、仲がいときもあれば喧嘩するときもある、ただそれだけです。あなたが理解できないと悩むような『夫婦』なんてものは考えるだけ無駄です」


 ……秀二さんは、私のことを信用してくれてるってことなんだろうか。

 私なんて同居人失格だと思ってたのに、面倒なのは承知の上だと秀二さんは迎えに来てくれた。

 口は悪いけど、お人好しで優しいこの人が信用してくれるのなら。

 私もそれに応えたいと思った。

 応えるに値するようになりたい。

 忌々しそうに濡れた髪をげる秀二さんを、芽依は思いっ切り睨みつける。


「メガネはさー、言い方とか選べないの?」

「そもそも、自分に対して無礼な相手に言葉を選ぶ義理なんてないでしょうが」


 秀二さんからそっぽを向いた芽依に、私は話しかけた。


「芽依は、お母さんのこと好きなんだよね」

「そりゃまぁ……だけどさ、それ、あたしが崎沼さんを信用する理由にはならないじゃん」


 ふいに芽依の考えていることが手に取るようにわかった。


「それでいいんだよ」

「え?」

「お母さんが信じてるからって、芽依がすぐに崎沼さんを信じられるわけないもの」

 芽依の瞳が動揺したように動く。

「それでいいの?」

「うん。再婚して家族になるからすぐに信用するなんて、そんなの無理だもん。芽依は崎沼さんのことを知らないんだし、ましてや家族になんてすぐになれないんだから」

「でも、それじゃ──」

「何も変わらない?」


 頷いた芽依にホッとする。芽依は賢い。本当はちゃんとわかってる。


「それなら、アイスティーの話でもしましょう」


 そして再び、秀二さんが話し始める。


「アイスティーが生まれたのは、百年以上前のアメリカで行われた万国博覧会でのことだと言われています。紅茶はもともとホットで飲むのが主流でしたので、伝統的な紅茶の文化を重んじるイギリスでは、邪道だとなかなか受け入れられなかったそうです。けどアイスティーは世界的なブームになり、最終的にはイギリスでも広まって、イギリスの茶商でも取り扱うようになりました」


 黙って話を聞いている芽依に、「アイスティーは好きですか?」と秀二さんは訊いた。芽依は素直に頷く。


「変化を受け入れるのが一概にいいものとは言いません。けど、受け入れて初めて味わえるものがあるのもまた事実だとは思います。最初から頭ごなしに拒絶していては、味わえるものも味わえないということです」


 芽依は秀二さんを見て、私を見て、再び秀二さんに目を戻す。


「……やっぱり、メガネの言ってることわかりにくい」

「秀二さんは、知る努力をすればいいこともあるかもねって言いたいんじゃないかな」


 秀二さんが小さく頷いてくれ、私は内心安堵して言葉を続けた。


「それは芽依のためでも、芽依が好きなお母さんのためでもあるよ。崎沼さんが芽依に歩み寄ろうとしてくれてるなら、拒絶はしちゃダメ」


 相手を知るところから始める。簡単なようで、それは意外と難しい。


「知ったら見えてくるものもあるかもしれないし。知った上でも許せないってことなら、徹底的に戦ったらいいよ。そしたらまた応援してあげる」


 私の言葉をしやくするような間のあと、芽依の表情はふわりと緩んだ。


「あやめちゃんが応援してくれるなら、やってみようかな」


 ずっと気ばっていたのかもしれない。おどけたように笑んだ芽依の表情に、これまでになかったあどけなさが見て取れる。

 そんな芽依につられて笑おうとして、私の口からは全力のくしゃみが出た。



 秀二さんが用意したサンドイッチなどの軽食は芽依と恵太郎くんに渡し、私と秀二さんは早々に店に帰ることにした。

 花火を観終わったら、芽依たちも店に戻ってくることになっている。恵太郎くんはしきりに恐縮していたけど、どちらにしろ芽依の荷物もあるし泊まってもらった方がいい。花火が終わった頃に迎えに戻ると言った秀二さんを、「チャリで二ケツすればいいし」と芽依は断った。

 沖ノ島のにぎやかな空気から逃れ、私は行きと同じようにスクーターの後ろに跨がった。半袖シャツに黒のパンツという格好の秀二さんの服はまだかなり湿っぽく、万遍なく砂でざらついている。


「海水浴場に着てくるような服じゃないからですよ。Tシャツと短パンとかならすぐに乾いたかもしれないのに」


 赤信号でスクーターが停止し、未練がましくそう言うと、「誰のせいだと思ってるんですか」と秀二さんは冷たく返してくる。


「海に入りたいなら一人で入ればよかったんです」

「せっかくだし、秀二さんも入りたいかなーって」

「その沸いた頭で決めつけないでもらえます?」


 花火会場とは反対の南へ向かう道は空いていて、十分ほどで帰宅した。軽く砂を払って裏口から入り電気をつけたところ、二人とも思っていた以上にひどい格好だとわかり、再び外に出てもう一度念入りに砂を払う。


「シャワー、お先にどうぞ」


 着ていたチュニックをはたきながら私が譲ると鼻で笑われた。


「象みたいなくしゃみをしていた人に譲られたくありません」

「象ってなんですか象って! 猫とかウサギとか、もっとかわいいたとえがいいです!」

「そういう文句はかわいい喩えが似合うようなキャラになってからどうぞ。つべこべ言わずに先に使ってください」


 いつものごとくでジャンケンをし、グーで負けた私が先にシャワーを使わせてもらうことになった。女とは思えない素早さで済ませ、砂だらけにしたくないと家の外で待っていた秀二さんに声をかける。

 そうして二階の自室に引き上げてドライヤーを使い、長い髪がやっと乾いた頃に階段を上ってくる足音が聞こえてドアがノックされた。


「どうかしましたか?」


 廊下に顔を出すと、濡れ髪に肩にタオルといった、いかにも風呂上がりの秀二さんが自分の部屋を指さした。


「花火、観ますか?」


 え、と思った瞬間、内臓に響く音が遠くから届いた。花火大会が始まったらしい。


「私の部屋からなら遠くに見えるみたいです」


 秀二さんの部屋はドアが開け放たれていて、大きな本棚とベッドと小さな机、そして海に面したベランダが見えた。

 つい部屋の中をじっくり観察してしまい、慌てて視線を剝がす。


「『互いの部屋には入らない』がルールです」


 そう主張した私を、「花火のときくらいかまわないでしょう」と秀二さんはなんでもない顔で一蹴する。

 促され、内心そわそわしながら秀二さんのプライベート空間に足を踏み入れた。私の部屋より少し広く、飾り気はないが本棚だけでなく机の上やベッドの枕元にも本が積んであり、思っていたよりも乱雑な印象だ。

 知らなかった一面をかいたような気持ちになり、にわかに落ち着かなくなったのを隠しつつ秀二さんの背中についていく。

 そうして一緒にベランダに出ると、視界を遮る建物もなく、空は広くて花火は思っていたよりも見えた。やがて辺り一帯の空気を震わせる音が立て続けに夜空に響くと、余計な感情はすべて霧散する。


「たまにはこういうのもいいですね」


 ベランダの手すりに腕を置き、秀二さんは呟いた。


「秀二さん、本当は花火、好きなんじゃないですか?」

「誰も嫌いだなんて言っていません。あなたはすぐに憶測でものを言う」

「自分だって言いがかりばかりじゃないですか」

「私は事実だと思ったことしか口にしません」


 連続する破裂音に二人して黙り、揃って空に目を戻す。

 こんなにゆったりと花火を観るのは初めてかもしれない。心がいで、とってもぜいたくなことをしている気分になってくる。

 ……来年も観られるかな。

 そう思うだけに留めた私の一方、秀二さんが口を開く。


「来年は近くで観られたらいいですね」


 思わず隣を見たら目が合った。


「なんです?」


 秀二さんの髪は、海風など知らないと言わんばかりに重たく束になり、湿ったままになっている。

 思い切って訊いてみた。


「その髪、私が乾かしてもいいですか?」


 ひときわ大きな花火がはじけ、夜空が鮮やかに染まっていった。


【次回更新は、2019年8月25日(日)予定!】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る