3.紅茶のブルゴーニュ酒〈祁門紅茶〉③

 それから二時間ほどして秀二さんは帰ってきた。駅の近くまで行っていたらしい。


「秀二さんも駅の方に行ってたなら、一緒に車で行ってもよかったですね」

「あなたが出かけてから、欲しかった本のことを思い出したんです」

「また本を買ったんですか」


 秀二さんは暇さえあれば本を読む。『互いの部屋には入らない』というルールがあるのでじっくり見たことはないけど、部屋の本棚はぎっしり埋まっているはずだ。


「買った分だけ売っています」


 秀二さんは羽織っていたジャケットを脱ぐと、証拠だと言わんばかりに何かペラ紙を差し出してきた。ひように手書きで本のタイトルと買い取り価格が書き込まれている。


「この古書店のご主人、本を売るとタイトルの控えをくれるんですよ」


 それから、ソファに座っている私の手元を覗き込む。


「スマホ、買えたんですか?」


 私は手のひらからはみ出るサイズの端末を見せた。


「ばっちりです」


 海に捨てて以来なので、約四ヶ月ぶりにスマートフォンを手にした。

 あまり遠出をすることもないし大都会でもない、オフラインの生活でもそれなりにやっていけるような気がしていたけど、やはり不便だという結論に至った。

 機械音痴の秀二さんですら、ネット検索をしている時代なのだと思ったのもある。


「便利ですよねー。データ、クラウド上にほとんど残ってました」

「クラウド?」


 説明したものの、ガラケー利用者の秀二さんは理解できていなそうだ。

 さっきまで、クラウド上に残っていたアドレス帳のデータを読み込み、もう二度と使わないであろう連絡先を消す作業をしていた。

 かつては見るのすら嫌だった敦久さんの名前を見てもなんの感慨もわかず、タップ一つで情報は簡単に消えていく。普段は時の流れは速いと感じることの方が多いのに、四ヶ月前のことが──それ以前の生活が、今はとっても遠くて別世界での出来事だったかのように感じる。


「そうだ、イチジク買ってきましたよ。すごく安かったです」


 秀二さんが最近気に入っている直売所の名前を口にすると、「ありがとうございます」と返事をして秀二さんは自室へと去っていった。

 それを見送り、私はスマホにメールアプリをインストールする。もともとまめな性格ではないしSNSの類いもあまりやっていなかったので、メールなどさして届いていないだろう、などと思ったのもつかの間、大量のメールマガジンに埋もれ、美容学校時代からの友人、あおいから私の安否を心配するメールが山のように届いていて目を丸くした。

 メールをさかのぼっていく。

 私と連絡がつかず、足取りを調べた葵は私が敦久さんと別れてサロンを無断で辞めたことまで突き止めていた。そして葵はとうとう私の母に連絡し、私が館山で働いていることを知ったらしい。

『どこかで生きてるなら安心した。落ち着いたら連絡して』というメールが最後だった。二ヶ月前、九月の日付だ。

 ……どうしてお母さんが、私が館山にいることを知ってるんだろう。連絡なんてしてないのに。

 疑問は残れど、とにもかくにも葵にメールを送る。

 平日の午後五時過ぎ、ヘアサロンに勤めている葵はまだ勤務中だろうし、返信があったら電話しよう。

 それにしても、こんなに心配してくれる友人がいるなんて思ってなかった。嬉しいしありがたいし、それ以上に薄情な自分が情けなくて恥ずかしい。

 ドアが開く音がし、秀二さんが自室から出てきた。秀二さんはこちらにやって来るとダイニングテーブルに目をやり、その存在に今気づいたらしく訊いてくる。


「それ、どうしたんですか?」


 一紀さんが去り際に土産だと置いていった、箱に入った赤ワインのボトルだった。


「もらいもので……」


 一紀さんのことを話した方がいいのか迷った私の一方、秀二さんは誰からのもらいものか訊いてこず、話すタイミングを見失う。


「いいもの、もらいましたね」


 私はあまりお酒に強くないこともあり、銘柄には詳しくなかった。秀二さんは詳しいんだろうか……。

 と、いいことを思いつく。


「ワイン、お好きですか?」


「あれば飲みますけど」という秀二さんの答えについ頰が緩む。


「じゃあ、今晩、ここで飲むのはどうですか? おつまみ作りますよ」


 これまで秀二さんと飲んだことはなかった。大人のコミュニケーションの場と言えば酒の席、これなら少しは秀二さんも自分のことを話してくれるかも。


「まぁ、いいですけど」


 やった、と心の中でガッツポーズを決めた。



【次回更新は、2019年9月4日(水)予定!】

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