3.紅茶のブルゴーニュ酒〈祁門紅茶〉④


 ──そうして、夕食兼おつまみを食べつつ、ワインで乾杯してから一時間。

 手酌でワインをグラスにし、秀二さんはイチジクのコンポートをフォークで刺しつつ私を笑った。


「この程度でそんなに酔えるなんてうらやましい限りです」

「酔ってません! 酔ってませんってば!」


 私はまだ中身が半分ほど残っているグラスに口をつけるも、持っていられなくてすぐにダイニングテーブルに降ろした。身体も顔も熱くてふわふわしてて、まっすぐ座っていられないのをごまかすようにほおづえをつく。

 一方の秀二さんはというと、顔色はこれっぽっちも変わっておらず、むしろクールさに磨きがかかっている。注いだばかりのグラスをあっという間に半分空けた。


「まさか、晩酌をしようと誘ってきた人間が下戸だなんて思いもしませんでした」

「ちょっとは飲めますし下戸じゃないです! 秀二さんが強いんですよ!」

「これくらい普通でしょう」


 ボトルはすでに残り四分の一ほどで、その大半は秀二さんの胃袋に収まっている。


「普段から飲みたくならないんですか?」


 これまで、秀二さんが一人で晩酌をしているところは見たことがなかった。


「酔えないなら飲んだところで意味ないですし、紅茶の方が安くて健康的です。──まぁでも、ワインを紅茶で割るのはいいかもしれませんね」

「え、ワインと紅茶、混ぜちゃうんですか?」

「ワインやブランデーを紅茶で割るカクテルティーは定番です」

「カクテルティーって、なんか響きがかわいいですね! ぜひ飲みたいです、お願いします!」

「あなたは、今日はこれ以上は飲まない方が賢明じゃないでしょうか」


 自分のグラスを空にすると、秀二さんは「水でも要りますか?」と訊いてくる。


「お水じゃなくて、今話してたカクテルティーがいいです!」

「ノンアルコールの紅茶にしませんか?」

「しません!」


 秀二さんは呆れた顔で、「それなら」と握手を求めるように手を出してきた。


「ジャンケンに勝ったら作ってあげます」

「わかりました。二言はナシですからね!」


 そうして私が全力で出したグーは秀二さんのパーに打ち負かされた。

 うなだれる私を尻目に、勝ち誇った顔の秀二さんは携帯電話を取り出して操作し始める。


「メールですか?」

「なんでもいいでしょう、別に」


 こちらを見もしないで返され、途端に深入りするなと言われたことを思い出してふわふわした気持ちが一気に落っこちた。自分がどんな顔をしているのかわからず、結んでいた髪を解いて下ろして顔を隠す。

 そのまま黙っていると、秀二さんは携帯電話から顔を上げた。


「どうかしましたか?」

「……なんでもないです」


 余計なことを言っちゃいそうで、ループする思考を断ち切るように勢いよく席を立った。


「今度はなんです?」

「ジャンケンに負けたので水を取りに行くだけです!」


 数歩進めばすぐにシンクに届く、というのになんだかとっても遠い。気合いがあればなんとかなる、えいやっと手を伸ばした直後にふらついた身体は、すかさず横から支えられた。


「何やってるんですか」


 頭のてっぺんにため息が降ってきて、顔を上げた瞬間、心臓が音を立てて耳の先まで一気に熱い血が巡った。

 いつの間に立ち上がったのか、秀二さんの腕が私を抱き止めている。こちらを見下ろす顔がとっても近い。


「だ、だから水……」


 呆れていようが眉間に皺を作っていようが整っている顔がやっぱり近い。目を逸らせず、舌まで熱くなって言葉はだまになる。


「水なら用意しますから座っていてください。千鳥足でうろうろされても迷惑です」


 そう椅子の方に押し戻されそうになってムキになった。


「み、水くらい用意できますし! 子どもじゃないんですから──」


 あっと思った瞬間に足が滑り、とつに目の前にあった秀二さんの身体にしがみつく。

 ……セーフ。うっかり転ぶところだった──

 って、まったくセーフじゃなかった。

 気がつけば、正面から抱きつくような格好で秀二さんの胸元に顔をうずめてしまっている。

 もとより二人きりの空間に、痛いくらいの沈黙が落ちて固まった。

 少しでも物音を立てたらどうにかなってしまいそうで息ができず、もはや自分の心臓の音しか聞こえない。

 さっさと謝って離れなきゃと思うのに、手足に力が入らないからか離れ難いからか、身体がまったく動いてくれない。

 ……いやいやいや、離れ難いって何?

 自分の思考にますます混乱して動けなくなってしまう。

 ──たっぷり数秒間続いたそんな空気を破ったのは秀二さんだった。


「……座っててください」


 不自然なまでにいつもどおりの冷静な口調だった。

 そして秀二さんは私の肩に手を置くと、くるっと私の身体の向きを変え、そのまま背中を押して椅子に座らせた。さすがに抵抗できなくて素直に従う。


「あの……す、すみません! 足が滑って──」

「わかってます」


 私を遮って背を向けた秀二さんがシンクに立つのを見つめ、ようやく詰めていた息を吐き出した。なのに心臓はうるさいままで、熱の引かない頰に両手を当てる。

 ……ワインのせいだ。

 小さな音を立てて目の前に置かれた水のグラスに顔を上げると、秀二さんはすでに自分の席に戻ったところだった。そのまま目を離せずにいると視線がかち合う。


「水、飲むんじゃなかったんですか?」


 言われてハッとし、「いただきます!」とグラスの水を勢いよく飲んだら派手にむせた。


「大丈夫ですか?」

「すみません……大丈夫、です……」


 んで涙の滲んだ目元を拭うも、手も顔もまだ熱くてしまいには動揺してくる。

 ワインのせい、だと思うのに。

 呼吸を整えてグラスの水をもうひと口飲むも、心臓はまだ痛いくらいに拍動している。あまりに落ち着かなくて、私は水のグラスをワイングラスに持ち替えると残っていた中身を一気にあおった。


「ちょっ……何やってるんですか!」


 すかさずワイングラスを取り上げられたけど、残念、すでに空だ。


「どれだけ頭悪いんですか。なんのために水を用意したと──」


 秀二さんのお小言が、右から左へと流れてく。

 ……いつもいつも、私が考えてることなんて、何もわかってないくせに。

 不安で心配でどうしようもない私のことなんて、何も知らないくせに。

 腹立たしい。

 だけど、そんな秀二さんのことを、私だって何も知らないのだ。

 ただの同居人だから。


「……どうせ私なんて、頭悪くてどうしようもない面倒な同居人でしかないんですよっ!」


 声を上げるなり鼻の奥が湿っぽくなり、そして私の言葉を肯定するようにいかにも面倒そうな目を向けられた。


「確かに、今のあなたは面倒な状態みたいですね」

「わかってますよ、そんなこと!」

「というか、同居人じゃないならなんだって言うんですか?」


 思いがけない質問に、秀二さんの目を見つめたまま答えに詰まる。

 この人は、私にとってなんなのか。

 適切な言葉が浮かばない。同居人なのは間違いないし正しい。

 だけど──


「そうじゃなくて……」

 

 楽しいお酒の席になるはずだったのに。

 気持ちはぐちゃぐちゃだし怒られるしで、もう泣きたい。


【次回更新は、2019年9月6日(金)予定!】

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