1.花咲く紅茶〈Shalimar Tea〉⑥
◇◆◇
そうして次の日、とうとう開店予定日の前日。
山になっていた段ボール箱の片づけなども昨日までに終わっていて、昼前にはすっかりやることがなくなった。
佐山さんの知り合いからいくつか花が届き、それを入口の近くに並べていく。
「本当に明日オープンするんですね」
夏らしいヒマワリの鉢植えについつい頰が緩んでしまう。
「しまりのない顔してますね」
そういう佐山さんの声も、今日は幾分かマイルドに響く。
「自分だって嬉しいくせに」
「当たり前です。ここまで来るのに長かったですし」
佐山さんがどういう経緯でお店を開こうと決意したのかはわからないけど、どれくらいの時間と労力が必要だったんだろう。あまり自分のことを話さないし感情を表に出さない人ではあるけど、それなりに苦労してきたのかもしれない。
なんだかしみじみしている私に、佐山さんは言葉を続ける。
「ずっと休みなしでしたし、ゆっくりしていていいですよ」
手持ち無沙汰な私にそう言って、佐山さんは店の片すみで書類に目を戻した。事務処理はまだあるらしいが、それは私の手伝える
そっとフロアを出て階段を上り、二階の自室に戻った。空気を入れ換えようと開け放ったままだった窓を閉める。
期限が来た。
ここで働くのは開店までの五日間、という約束はちゃんと守る。
なんだかんだで人のいい佐山さんのこと、「出ていけ」とは言いづらいだろうし、これ以上好意に甘えるわけにはいかない。
ここは自分から出ていくべきだろう。
さして多くない荷物をスーツケースに押し込む。ここに来たときみたいに駅までスーツケースを転がすのはしんどいなと考えてから、近くにバス停があることを思い出した。
「ちょっと散歩してきます」と佐山さんに断って店を出て、海水浴場の近くのバス停の時刻表を見に行った。
館山駅行きのバスは日に四本、十二時台のバスは近すぎるし、残りは午後五時台と七時台だ。
バスの時間をしっかりと頭に刻み、緩やかな上り坂を戻っていく。
夏の日差しに、波音と木々のざわめく音ばかり。こうやって店に戻るのも最後だと思うと、隠しようのない寂しさと、考えないようにしてきた現実に
これからどうしよう。
大きなため息を吞み込んで、表情を取り繕ってから店のドアを開けた。
「戻りましたー……」
そう声をかけてフロアを覗くと、カウンターの奥、業務用の冷蔵庫の扉を開けて佐山さんが立ち尽くしていた。
「何やってるんですか? 扉、開けっ放しじゃ電気代がもったいないですよ」
そう近づくと、困惑気味の佐山さんと目が合った。
「冷蔵庫、壊れているみたいです」
その言葉を聞いた瞬間、私は佐山さんを
「なんですか!」
「冷蔵庫が壊れてるのに、冷気を逃がしてどうするんですか!」
数秒遅れて私の言いたいことがわかったらしい。佐山さんは途端に決まり悪そうな顔になった。
「すみません」
珍しく素直に謝った佐山さんに、事態の深刻さが伝わってくる。
冷蔵庫の側面に耳を寄せるも、確かにモーター音が聞こえない。
「冷蔵庫、どうやって壊したんですか?」
「人のことをなんだと思ってるんですか。気づいたら動いていなかったんです」
中の霜がまだついているので、そんなに時間は経っていないようだ。
「メーカーに電話して、修理に来てもらうしかなさそうですね」
そうして佐山さんが電話で問い合わせたものの、修理に来られるのは明日の夕方以降とのことで血の気が引いた。
「明日の夕方じゃ、中のもの腐っちゃいますよ」
ミルクティー用に仕入れた大量の牛乳、ハム、レタス、その他もろもろ。今日は冷蔵庫の中に入れておけば
「上の冷蔵庫に移動しますか?」という佐山さんの提案に首をふる。
「小さすぎて全然入らないですよね」
二人して頭を抱えてから、佐山さんが諦めたように呟いた。
「一日遅らせますか」
思わず目を見開いて佐山さんを凝視した。
「遅らせますかって……オープンを?」
「ほかに何があるんです」
「ダメですよそんなの!」
「しょうがないでしょう。腐りかけの食材は使えません」
でも、と言いかけた私を佐山さんは手で制した。
「実はこれでも当初の予定より二週間遅いんです。本当は月初めにオープンしたかったんですが、リフォームや資材の準備がうまくいかず遅れてしまって。……まぁ、一人でやっていればこんなものです」
「こんなもの」と口にした佐山さんに瞬間的にカッとした。
不器用ながらも一人で必死にやってきたくせに。
お花が届いて嬉しそうな顔をしてたくせに。
「──つまらない大人みたいなこと言ってんじゃないですよ!」
声を荒らげた私に、佐山さんはその目を細めた。
「あなたが怒ることじゃないでしょう。それにこっちはいい歳した大人です」
「怒りますよ! 怒るに決まってるじゃないですか! これまでがんばってきたのに簡単に諦めて!」
「こっちだって簡単に諦めているわけではありません。しょうがないものはしょうがないじゃないですか! それにたった一日で──」
「たった一日で失われる信用がどれだけあると思ってるんですか!」
佐山さんは私の言葉に押し黙った。
「みんな楽しみにしてるんです。《渚》は明日オープンすべきです! 明日オープンできるようにギリギリまでがんばるべきです!」
「がんばるって……精神論で済むなら困っていません!」
「ごちゃごちゃうるさいです! いつもエラそうなんだから頭働かせてください!」
怒鳴り合って息を切らして、二人して顔を
そのままたっぷり数十秒、静かに深呼吸してから佐山さんが口を開く。
「食材が腐らないようにしつつ、かつ明日使える冷蔵庫があればいい、そういうことですよね」
私は頷いて佐山さんに向き直った。
「ホームセンターとかコンビニに行って、氷とか保冷剤を買い込んで来ますか? あ、製氷機ならここにもあるじゃないですか!」
「それで明日の夕方まで保たせるのは厳しいのでは? そもそも水やアイスティーに使うための氷ですし」
「やっぱり使える冷蔵庫があるに越したことはないですよね……」
かといって二階の冷蔵庫は小さすぎるし冷凍コーナーしかないし──
私は「そうだ!」と声を上げて手を叩いた。
「二階の小さな冷蔵庫、この機会にちょっと大きな冷蔵庫に買い換えましょう!」
「買い換える?」
「新しい冷蔵庫を買って、明日はそっちを使いましょう! 大きな家電量販店なら、当日に配送してくれるお店もありますし。まだ正午前だしギリギリいけるかも!」
「そうなんですか?」
なんて便利な、と佐山さんは心底驚いた顔になる。
これまで家電はどこで買っていたんだろう。
「なので、佐山さんはこれから車で冷蔵庫を買いに行ってください。あ、事前に電話で当日配送できるか訊いた方がいいかも」
「あなたは?」
「私は近所を回って、保冷剤を貸してもらえないか訊いてきます。それで足りなかったら、近くのコンビニまで走っていってアイスでもなんでも買ってきます」
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