1.花咲く紅茶〈Shalimar Tea〉⑤
◇◆◇
佐山さんは無駄なおしゃべりはしないしたまに口を開けば失礼ではあったけど、開店準備自体は大きな問題もなく進んだ。
仕事が終われば顔を合わせるのは食事の場くらいで、風呂を除けば佐山さんはほとんど自室から出てこず、おかげで余計な気を遣わずにも済んでいる。
シェアハウスの同居人だったらこんなものかと思いながらの居候生活も、こうして三日目を迎えた。スーパーで食材調達もでき、丸一日ぶりにサンドイッチ以外の食事をとれた次の日の午前中のこと。
「佐山さんも、こんなにかわいい奥さまがいるならそうとおっしゃってくれればいいのに! 嬉しくてみんなに話しちゃった!」
ペンションの美沙さんが自家栽培の小松菜と共に店に現れた。
ポカンとしている佐山さんに美沙さんは小松菜の束を押しつけ、「お忙しいでしょうし長居はしませんからね!」と言い置いて嵐のように去っていく。
しまった、という顔の私に、佐山さんは静かに訊いてくる。
「『奥さま』って何のことですか?」
言い訳してもしょうがない。
昨日、挨拶した際に誤解された旨を正直に話すと、佐山さんは小松菜を手にしたまま
さすがにこれは怒らせてしまったかもしれない。今ここを追い出されてはかなわない、「すみません!」と全力で頭を下げる。
「あの、なんなら今から誤解、解いてきますんで!」
そう店を飛び出そうとした私を佐山さんは止める。
「いいです、小さな町でややこしいことをしたくありません」
「でも──」
「あの調子だと、もうご近所中に広まっているでしょうし」
放置したらなお一層ややこしいことになるのでは、と思いつつも、突っ込む代わりにもう一度謝った。
「勝手なことしたせいで、本当にすみません!」
「自分が珍獣である自覚ができました?」
今回ばかりは言い返すこともできず、小さくなるしかない。
そんな美沙さんのクチコミによる効果か、その日や翌日はご近所さんが何人も散歩のついでだなんだと理由をつけて店の様子を見に来た。
物珍しいのと単純に新しいお店ができるのが楽しみということらしい。そして誤解を解く機会はますます遠ざかり、すっかり「佐山さんの奥さん」と呼ばれ慣れてしまう。
そうして居候生活も四日目の夜。
いつものようにダイニングテーブルに佐山さんと向かい合って座り、どちらからともなく「いただきます」と声をかけて食事が始まった。
「……枝豆、おいしいですね。自分で
「そうです。美沙さんにもらったんですけど、旬だからおいしいですよね。こっちの煮物は──」
初日はサンドイッチのみだった食卓が、今では噓みたいに豪華になっている。
ご近所さんたちが顔を出す度に置いていってくれる手土産の野菜、果物、魚介類のおかげで、メニューに頭を悩ませられるようになるなんて思ってもみなかった。
私の説明をひととおり聞くと、佐山さんは「ありがたいことですね」と静かに応えて箸を進めていく。
食事どきの会話はあいかわらず途切れがちだ。
が、四日目ともなるとこれが佐山さんのペースなのだとわかったし、もうそこまで気詰まりでもなかった。無理にどうでもいい会話をするよりはずっと楽だ。
黙々と食事を続ける佐山さんの様子をそっと窺う。箸の持ち方は完璧で、感心するくらいに食べ方は綺麗だ。
最初に感じた「貴族っぽい」という印象は、どんなに悪態をつかれようともいまだに覆っていない。当然ながら佐山さんが私に自分語りなどするわけがないけど、きっと育ちがいいんだろう。
「何か?」
視線に気づかれ、小さく首を横にふる。
「なんでもないです。開店準備、明日にはちゃんと終わりそうでよかったなって」
「そうですね」
旬の食材でいっぱいの食卓をまじまじと眺め、込み上げてくる甘酸っぱさにも似た気持ちに箸を動かす手がつい止まる。
明日が約束の五日目。
ここにいられるのもあと少し。
勢いだけで部屋を飛び出して、辿り着いたのがここでよかったとしみじみ思った。
忙しくしていたおかげで余計なことを考えないで済んだし、ご近所さんもいい人たちばかりだったし、佐山さんもよくわからない人だったけど面白かったし。
佐山さんが何か言いたげにこちらを見たような気がしたけど、気のせいだったのか、その目はすでに別のところを向いていた。
そうしてここでの最後の夕食を終え、名残惜しい気持ちでもらいもののスイカをデザートに食べていたときだった。先にダイニングからいなくなっていた佐山さんが、戻ってくるなり唐突に訊いてきた。
「それを食べたら、ちょっと外に出ませんか?」
「外?」
食べ終えた私は、佐山さんに続いて古民家の外に出た。
「外に何か──」
目を上げた瞬間、言葉の続きを
「昨日まで少し曇っていたのですが、今日は晴れていたので」
佐山さんの言葉に何か返そうと思うもうまい言葉が見つからず、ただただ立ち尽くすことしかできない。
満天の星。
吸い込まれそうなほど深い夜空に、
「月もそんなに明るくないですし、今日はよく見えますね」
景色がいいところだと思ってはいたけど不意打ちだった。
「……ここ、こんなに暗かったんですね」
「大都会じゃないことなんてわかりきってるじゃないですか」
なのに隣の佐山さんはいつもの口調で、曖昧になっていく足元の感覚と現実のギャップに困惑する。
「……星座とか、わかりますか?」
平常心を装うように、星空から視線を剝がして隣に訊く。
空に目を向けたまま、「まったく」と佐山さんは答えた。
「わかれば別の楽しみ方もあるのでしょうけど。私はぼんやり眺めるくらいで丁度いいです」
「佐山さん、ぼんやりしたりするんですか」
「しますよ。人のことをなんだと思ってるんですか」
私も空に目を戻した。星降るような空、という表現を思い出すも、私たちの
煌めく星々の奥に広がる深い闇に、私の目はどうしても吸い寄せられてしまい息苦しく感じた。
どうしようもなく一人だ。
まっ暗な宇宙で一人ぼっち。
都会で人の波に揉まれているときは意識しないで済んでいたことを、強烈に意識させられて薄ら寒くなってくる。
一人になってしまってここに来たつもりだったけど、そんなことはなかった。
私は最初から一人だ。
「──先に中に戻ります」
ふいに隣から声をかけられ、なんだか急に
「そ、それなら私も戻ります!」
「別に合わせなくてもいいです」
「いやでも、その……一人で残されるのはなんか、心細いというか」
正直に言ってしまってから、たちまち恥ずかしさで頰が熱を持つ。寂しがり屋の子どもじゃあるまいし──
「タヌキくらいしか出ないと思いますけどね」
佐山さんはその場から動かず空に目を戻した。
「……中に戻るんじゃなかったんですか」
「中に戻るのもここに
この人は、何を思って私に星空を見せようと思ったんだろう。
深い意味なんてまったくないのかもしれないけど、それを考え始めたらさっきまでの薄ら寒さが和らいだ。
永遠に
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