1.花咲く紅茶〈Shalimar Tea〉④

    ◇◆◇


 目を覚ますとかすかな紅茶の香りがし、ここが昨日まで暮らしていた部屋ではないことを思い出した。

 寝間着のまま部屋を出るのはためらわれ、着替えだけ済ませてタオルを手にそっとドアを開ける。

 キッチンの方から何やら食器が鳴る音が聞こえ、顔を出した方がいいか一瞬迷ったものの、寝起きのスッピンをわざわざ見せることはないとすぐに思い直し廊下からそちらに声をかける。


「おはようございます! あの、洗面所、お借りします」


 食器の鳴る音が止まり、「どうぞ」とギリギリ聞こえるくらいの大きさで返事があった。

 そそくさと階段を降り、昨日は泡だらけだった洗面所で顔を洗って長い髪を一つに結い、部屋に戻って薄めの化粧をするとようやくひと息つく。

そうしてダイニングスペースに顔を出すと佐山さんはすでに朝食の準備を終えていて、白い陶器のティーポットをテーブルに置いたところだった。


「おはようございます」


 私の再びの挨拶に、佐山さんはにこりともせずに「おはようございます」と丁寧に返して自分の席に着いた。


「昨日、おかげさまでよく眠れました」


 私がそう頭を下げると、佐山さんはなんでもない風に応える。


「ならよかったです。開店準備を手伝ってもらう代わりに寝床を提供するという約束ですし」


 不承不承ながらも私の提案に乗った佐山さんだったが、ゆったりした八畳間と布団一式を私に宛がい、風呂も使わせてくれたのだった。

 昨日は洗濯機と掃除機の修理で終わってしまったので、今日こそ開店準備を手伝おうと気を引き締める。

 佐山さんの向かいの席には私の朝食も用意されていてありがたい。その席に腰かけようとし、マグカップになみなみと注がれたミルクティーとヨーグルト、そしてサンドイッチを見て止まる。


「……一つ訊いてもいいですか?」

「なんです?」

「佐山さん、もしかしてサンドイッチしか作れなかったりします?」


 昨日の夜、佐山さんが何も言わずに私に作ってくれた夕食は昼食と同じ、ハムとレタスのサンドイッチだった。


「何か問題でも?」

「問題というか……毎食サンドイッチだと栄養が偏りすぎだし、心が死なないかなーと……」

「あなたの面倒なメンタルの問題なんて知りません。食べないなら下げます」

「いえ、ありがたくいただきます!」


 私も席に着いた。途端に沈黙が落ちて、妙な空気がダイニングを包む。

 ……これまでも彼氏と同棲してたわけだし、人と食事をするのは慣れてるつもりではあったけど。

 一緒に食事をとるのは三度目とはいえ、よそよそしい空気に落ち着かない。

 せめてなんでもないおしゃべりでもできればいいのに、佐山さんはそういうタイプじゃないし。

 昨晩の夕食時は少しでも気まずさをごまかそうと、あれこれ佐山さんに話しかけてみたけど逆効果だった。面倒そうな顔をされ、余計に微妙な空気になってしまった。働いているときは問題ないけど、一つ屋根の下というのはこういうときに困る。

 安易に「部屋を貸してくれ」なんて言っちゃったけど、他人と暮らすのがこんなに難しいとは思ってもみなかった。

 二人して黙々とサンドイッチを頰ばる。佐山さんの作るサンドイッチは確かにおいしい。とはいえやっぱり限度もあるし、と考えてから提案してみる。


「あの。よかったら今日の昼食と夕食、私に任せてもらえませんか?」


 佐山さんの手が止まる。


「佐山さんも、サンドイッチ以外の料理があれば食べますよね?」

「別にサンドイッチが続いたところで私の心は死にません」


 ここでようやく、佐山さんが澄ました顔でヘソを曲げているらしいことに気がつき、私は慌てて言葉を続けた。


「サンドイッチ、すごくおいしいです! 私じゃこんなにおいしく作れないです!」

「……当たり前です。店のメニューにするためにわざわざ習いに行ったんですから」


 そうなんだ、と感心する。


「すごくおいしいんですけど……もっと頻度を抑えた方が、ありがたみが増すと思うんですよね。例えば、朝食はサンドイッチって決めるのはどうですか? そしたら、寝る前に『朝はおいしいサンドイッチが待ってるし明日もがんばろう』って思えると思うんですよ。毎日のお楽しみっていうか」


 無理やりすぎたかと思ったが、意外にもあっさりと佐山さんは「わかりました」と応えた。


「けど、昼食と夕食を任せたからといって賃金の上乗せはできませんよ」

「あ、それはいいです。私のメンタルの問題なんで!」

「……面倒な人ですね」


 肩をすくめた佐山さんに、内心でガッツポーズをする。佐山さんの扱いが少しだけわかったような気がする。面倒なのはどっちですか。

 食べ終えた朝食の食器をシンクに下げ、キッチンにある冷蔵庫の扉を開けてみる。冷蔵庫、と一応表現したけど、中に冷凍コーナーがあるだけのビジネスホテルなどによくある小さな箱形のものだ。

 予想はしていたけど、一リットルパックの牛乳とヨーグルトのパック、ハム、ラップに包まれたレタスしかない。


「あの、近所にスーパーとかあります?」

「駅の方まで出ないとありませんね。車で十五分といったところでしょうか」

「ですよねー……」


 佐山さんは軽自動車とスクーターを持っている。借りられればよかったけど、残念ながら私は免許を持っていない。

 なんとか佐山さんが食材調達に出かけたくなるよう仕向けよう。

 冷蔵庫から離れ、食後の紅茶を味わっている佐山さんに話しかける。


「今日は洗濯して、終わったら開店準備を手伝いますね」


 私の言葉に、佐山さんは何かを思い出した顔になった。


「実は、見てもらいたいものがあります」


 かくして、リビングスペースで佐山さんが私に見せたのはノートパソコンだった。


「パソコンは使えるんですね」

「これくらい使えて当然でしょう」


 洗濯機や掃除機の惨状について触れるのはやめておき、私はソファに腰かけてローテーブルに置かれたノートパソコンの画面を覗き込んだ。


『Tea Room 渚』


「これ、お店の名前ですか? かわいいですね」

「知り合いに作ってもらったチラシのデータです」


 それには手書きのような丸みを帯びた文字で店の名前やメニュー、オープン予定日などが記載されている。


「ちゃんと告知する気はあるんですね」

「当たり前でしょう。──そこで、これを印刷したいのですが……」


 佐山さんの視線の先を追った。壁際にプリンターの箱が置いてあり、箱の上にはコピー用紙の束もある。


「……もしかして、プリンターも壊したんですか?」

「人聞きの悪いことを言わないでください」


 接続しようとがんばった形跡はあったものの、幸いなことにプリンターは無傷でホッとした。



 こうして洗濯とチラシ印刷の任をまっとうしているうちに午前中は過ぎ去った。

 食材調達に行く時間はなく、四食連続のサンドイッチでお腹を満たす。すでに心が死にかけている、夕飯こそなんとかしなければ。


「チラシ、印刷したらどうするんですか?」


 サンドイッチを平らげた私の質問に、一拍遅れて佐山さんが顔を上げた。


「どこかに貼るに決まっているでしょう」


 そんなこともわからないのかと言わんばかりの目で見られたので反論する。


「わかってますよそれくらい。せっかく紙がたくさんあるんだし、たくさん印刷してポスティングするのはどうかなーって思ったんです。ご近所に挨拶ついでに持っていってもいいですし」

「必要最低限の挨拶は済ませてあります」

「……その口ぶりだと、いつオープンなのか伝えてないんじゃないですか?」


 佐山さんの沈黙を是と理解した私は、昼食の片づけのあとに早速チラシの増刷に取りかかった。

 そうして印刷したチラシの束と財布などをトートバッグに入れて身支度を調ととのえ、一階のカフェスペースを覗く。


「一時間くらいで戻りますんで!」


 何かの段ボール箱を開封していた佐山さんが訊いてくる。


「どこに行くんですか?」

「チラシいてきます」

「そんなこと頼んでいません」

「なんのためのチラシですか! 宣伝しなきゃもったいないですよ、紅茶もサンドイッチもおいしいのに!」


 私は佐山さんのため息を了承の意と受け取って店を出た。

 店の前の通りに出て、山側と海側どちらへ行くか迷う。この辺りの地図を持っていないか佐山さんに訊けばよかった。

 まだ行ったことがないしと、まずは上り坂になっている山の方へ行くことに決め、畑や林の間に点在する民家のポストに二つ折りにしたチラシを入れつつ歩いていく。

 別荘も少なからずあるようで、リゾート地なんだなと改めて実感した。平日の午前中、人や車の往来は多くないけど、夏休みになったらもう少しにぎやかになるんだろうか。

 そうして数分も歩かないうちに、ほかの民家と比べて明らかに大きな白壁の建物が現れた。

 背の高い生け垣が青々と茂っている。入口には『ペンション ミサ』との立て札。


「何かご用?」


 突然背後から声をかけられて飛び上がった。

 ふり返ると、畑仕事でもしていたのか、エプロンに長靴に帽子という格好の六十代くらいの女性がいかにも人のよさそうな笑みを浮かべている。


「あの……すぐそこにお店を開く予定でして。チラシができたのでご挨拶にと」

「あら、もしかして佐山さんのところの?」


 最低限の挨拶は済ませてあるという佐山さんの言葉はうそじゃなかったらしい。

 女性はにいやまと名乗った。夫婦でこのペンションを切り盛りしているという。


「お店を開く予定だとは聞いていたんだけど、どうなってるのかなって気になってたのよ」

「すみません、お知らせが遅くなってしまって」


 チラシを受け取ると、「あら」と美沙さんは目を少し丸くした。


「紅茶のお店なのね。もしかして、紅茶の葉っぱ、買えるのかしら?」

「あ、かもしれません。訊いてみます!」

「うちのお客さんに出す紅茶、何かいいのがないかなって思ってたところなの! 前は近所に紅茶好きな人がいて色々教えてもらってたんだけど、それもできなくなっちゃってどうしたものかと思ってたのよ」


 それから美沙さんは、近くのお店などの情報を教えてくれ、自治会の掲示板にチラシを貼ってもいいか問い合わせてくれると言った。


「色々教えていただいて助かります、ありがとうございます!」

「いいのよー、ご近所に若いご夫婦が越してきてくれてこちらも嬉しいし。お店のオープン楽しみにしてるから!」


 じゃあまた! と美沙さんはさつそうと去っていき、言葉を返す間もなかった。

 若いご夫婦。

 そういえば、話に夢中でちゃんと名乗っていなかったような。

 ふり返るももう美沙さんの姿はない。今から誤解を解きに行くのもなんだし、また今度にしよう。

 店に戻ってチラシがはけたと報告すると、佐山さんは「おつかれさまです」と応えた。


「そこの段ボール箱の中身、棚に移してもらえますか?」

「あ、はい……」


 なんだか拍子抜けしてしまい、佐山さんをじっと見ていたら気づかれた。


「なんです?」

「勝手なことしたし、チラシのこと、怒られるかなって思ってました」


 佐山さんはじとっとした目をこちらに向けたものの、すぐに眉間をんだ。


「珍獣とやり合っても体力の無駄ですし」

「ち、珍獣ってなんですか!」

「そのままです。日本語もろくに通じませんし」


 いやいやいやいや。


「どっちの台詞だと──」

「ほら、無駄口たたいてないで、寝床と食事代の分は働いてください。この段ボール箱の山がなくなったら車でスーパーに行きます」


 え、と思わず動きを止めて佐山さんを見返した。


「車、出してくれるんですか?」

「私も用があるってだけです」


 佐山さんに顎で示され、私は早速指示された箱に駆け寄った。

 ……失礼だしよくわからない人ではあるけど。

 なんだかんだでいい人っていうかおひとしっていうか、私みたいなよくわからないであろう人間も意外とあっさり受け入れちゃうし……。


「佐山さん、そのうち詐欺にでも遭いそうでなんだか心配です」


 思いっ切り舌打ちされた。


「沸いた頭でわけがわからないことばかり言わないでください」

「沸いてません」


 やっぱり失礼だ。

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