1.花咲く紅茶〈Shalimar Tea〉③

 おなかも満たされ、すっかりくつろいでしまった。

 紅茶のお代わりまでもらった私に、カウンターの向こうに立った佐山さんが訊いてくる。


「本当に房総半島の南端まで歩いて行くつもりだったんですか? 南端だとじまさき灯台ですが、ここから二十キロくらいありますよ」

「え、そんなにあるんですか!?」


 アプリでざっと地図は見たものの、ハイで無双だった私は海沿いの道を行けば辿り着くのを確認しただけで縮尺までちゃんと見ていなかった。

 そして、その地図アプリの入ったスマホはもう海の底だ。


「房総フラワーラインっていうの、ひたすら歩いていけば行けるかなーって思ったんですけど……」

「この辺りはまだ歩けますが、もう少し先に行くと歩道はほとんどありません。本数は少ないですがバスに乗るか、いっそタクシーを呼んだ方が確実です」

「その、そこまでして行きたいわけじゃないというか……」


 房総半島の南端に行ったところでどうせ天竺はないし。


「それなら駅に戻ったらどうです? 少し待ちますが近くのバス停から駅に行くバスがありますし、暇ならしろやま公園でも行ったらいいですよ。天気もいいし、城からの眺めもいいんじゃないですか?」

「へぇ、お城なんてあるんですか!」

「館山城です。……あなた、本当に何しにここまで来たんですか?」


 ここに来る観光客なら誰でも知っているような観光地だったらしい。

 何をしに、と問われても答えようがない。

 それに駅に引き返したところで、どうしようもないことには変わりないし。行きたいところも戻りたいところもない。

 母が暮らしているマンションに行くことも考えたけど、新しい彼氏に鉢合わせしそうで気が進まない。かといって長期間ホテルなどに腰を落ち着けられるようなお金の余裕もないし……。

 そのときだった。ボコッという鈍い音がどこかから聞こえてきてビクついた。


「──またか」


 舌打ちでもしそうな苦々しい面持ちで、佐山さんはカウンターを飛び出して店の奥へ駆けていってしまう。

 ……なんの音だったんだろう。

 乱雑な店の中に一人残され落ち着かないまま座っていたが、すぐに私も席を立った。

 何かトラブルかもしれないし、と好奇心に言い訳しつつ、開けっ放しになっている店の奥のドアから中をそっとのぞいてみる。

 ドアの向こうには狭いがあり、佐山さんのスニーカーが脱ぎ捨ててあった。


「佐山さーん……」


 呼びかけてみるも返事はない。

 半開きのドアから中に入って私もスニーカーを脱ぎ、きしむ廊下を進んで角を曲がると無表情で立ち尽くしている佐山さんを発見した。洗面所と浴室の入口らしき戸が見える。

 佐山さんの背後から中をうかがうと、洗面所の床一面が白い泡だらけになっていた。


「どうしたんですか、これ」

「……洗濯機がポンコツなんです」


 見ると、閉じられた蓋の隙間からカニのように泡を吐いている洗濯機があった。そのボディはなぜか傾いて壁に寄りかかっている。

 先ほどの音は洗濯機が壁にぶつかった音らしい。


「洗濯機、泡は吐いてるけどそれなりに新しそうですよ」

「当たり前です、買ったばかりなんですから」


 足元の泡に気をつけつつ手を伸ばし、洗濯機の傾きを直して蓋を開けた。

 びっくり箱の中身よろしく、泡だらけになった衣類が勢いよく飛び出してきてあとずさる。


「どうしたらこんなことになるんですか!?」

「ポンコツが……」

「ポンコツなのは洗濯機を使った人間です!」


 ひとまず廊下の方に避難したら、今度は壁際に転がっている何かに気がついた。

 丸いボディ、筒状の何か、見覚えのある形状のノズルなどがバラバラになって積み上げられている。


「これ、もしかして掃除機ですか?」

「こっちもすぐに壊れたんです」

「それで分解して、戻せなくなったと?」

「……ポンコツぞろいだったんです」


 佐山さんは唇をとがらせた。

 この古民家には、もしかしたらほかにもひんの家電が転がっているのではあるまいか。


「あの……お昼も用意してもらいましたし、よかったら洗濯機の片づけ、お手伝いしましょうか? あ、私、こう見えても家電とか強いんですよ」


 機械音痴な母を反面教師に家電やパソコンの扱いは自分で覚えたが、こんな風に役立つ日が来るとは思わなかった。


「結構です。自分でなんとかします」

「でも、お店も開店直前で忙しいんじゃないですか?」


 佐山さんが答えないので続けて訊いた。


「ちなみにこのお店、いつオープンする予定なんですか?」

「来週──五日後の予定です」


 思わず店の方をふり返った。

 看板やメニューなどがないのはともかく、フロアの半分は段ボール箱やカバーのかかったテーブルや椅子で埋まっていたような。


「間に合うんですか?」


 私の言葉に佐山さんはむっとしたように返してくる。


「なんとかします。それに遅れたら遅れたで──」

「遅れちゃダメですよ! 接客業そんなに甘くないですって!」

「告知もあまりしていないので、遅れるも何もないというか……」


 昨日まで働いていたサロンがオープンしたときのことを思い出す。

 ウェブサイトやチラシなどなど、何ヶ月も前から色んな準備をして告知をして、やっとオープンにこぎ着けた。

 うっかり感傷に浸りそうになって慌てて記憶をふり払い、目の前の佐山さんに意識を戻した私は妙案を思いつく。

 我ながら非常識極まりない思いつきだとわかっていたが、ダメ元で訊くだけ訊いてみた。


「あの、もう一つつかぬことをお伺いしますが、」

「なんです?」

「このお店、二階が居住スペースなんですか?」

「そうですが……」

「何部屋あるんですか?」


 質問の意図がわからないと言いたげな顔をしつつも、「四部屋」と佐山さんは答えた。そしてそんな佐山さんの左手を見る。

 指輪はない。


「お一人暮らしですか?」

「だからなんです?」

「もしかして、部屋、余ってたりするんじゃないですか?」

「さっきから何を訊きたいんですか?」


 完全に不審者を見るものに変わっている佐山さんの目にたじろぎそうになったが、ここで引いたらあとがない。思い切って提案した。


「私に一部屋貸していただく、っていうの、どうですか? その代わり、全力で開店準備をお手伝いします! あ、もちろん、掃除も洗濯も引き受けます! 家電の修理もお任せください!」


 数秒の間のあと、佐山さんは深々と嘆息してつぶやいた。


「……ずっと思ってましたけど。あなた、暑さに頭やられてるんじゃないですか?」


 けどこちらも必死なのですがりつく。


「無茶苦茶言ってるのはわかってます! 勢い余ってこんなところまで来ちゃったんですけど、実は泊まるところがないんです!」

「宿がないならホテルかペンションにでも泊まってください。この辺りでしたら宿泊施設には困りませんよ」

「お金もあんまりないんです!」

「若そうですけど、大学生か何かですか? 大人しく家に帰ったらどうです?」

「こ、子ども扱いしないでください、二十一ですけど学生じゃないです! これでも美容室で働いて……ました。昨日までですけど。お願いします! 開店までの間、五日間だけでいいんで!」


 佐山さんは泡を吐き出し続けている洗濯機とバラバラ遺体と化した掃除機を見つめ、最後に何かを諦めたような顔で私を見た。

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