1.花咲く紅茶〈Shalimar Tea〉②

 ふり返ると、数メートル離れた砂浜の入口に、青いスクーターにまたがったハーフタイプの黒いヘルメットをかぶった男性がいた。

 歳は二十代後半くらいだろうか。

 銀縁メガネ。ヘルメットからは、一度も染めたことのなさそうな黒髪が見えている。手足の長いすらりとした瘦身で、襟つきの黒い半袖ポロシャツとジーパン姿だ。

 買い出しの帰りなのか、スクーターの後部には段ボール箱がくくりつけられている。

 男はれたようにメガネの奥で切れ長の目を細め、同じ台詞せりふをくり返す。


「自殺でもするんですか?」


 数秒遅れて気がついた。訊かれているのは私だ。


「しません……自殺なんてしません! なんで私が、」

「この暑い中、駅からここまでふらふら歩いてきて、挙げ句海を見つめてぼうっとしてますよね。自殺志願者だと思われても文句は言えないと思いますが」

「どうして私が歩いてきたってわかるんですか」

「行きに歩いているところをすれ違いました。で、帰ってきたらここにいたというわけです」


 行動を観察されていたようでたちまち居心地が悪くなる。

 ──それにしても。

 自殺志願者だと思われる私に対してなんなんだと言いたくなるくらい、その口調にはとげがある。

 ただでさえささくれ立っていた心に最適な話し相手とは言いがたい。


「房総半島の南端に行きたかっただけです。っといてください」

「南端? あと何十キロ歩くつもりです?」


 言葉に詰まった。

 そんなに距離があるとは思ってもみなかった。

 男はいぶかしげに眉根を寄せ、「本当に自殺しませんか?」としつこく訊いてくる。


「しませんったらしません」

「ならいいです。店の近くだと困るので」


 男は私から興味を失ったらしい。

 道の方に視線を戻すと、スクーターのハンドルに手をかけた。私は素足のまま慌てて立ち上がり、今にも走り去りそうな男に質問する。


「あの、店ってなんのお店ですか? もしかして食堂か何かですか?」


 男は山の方を仰ぎ見て、それから私に視線を戻した。


「喫茶店です」


 男が気のない返事をした瞬間、私の腹の虫が鳴る。

 時刻はとうに正午を回っていた。



 男の店は砂浜から徒歩数分の場所にあった。

 雑木林と民家と畑が点在する緩い上り坂の途中にある、二階建ての木造古民家。ここが何かしらの店だとわかるような看板などは一切ない。


「開店前なので何もありませんよ」


 スクーターを軒先にめながら私の疑問に答えるように男は説明し、荷台の段ボール箱を片腕で抱えると、ジーパンのポケットから取り出した鍵でドアを開ける。


「絶対に砂を払ってから入ってください」


「絶対に」を強調した男に姿勢を正して頷くと、私は穿いていたパンツやスーツケースの砂を払ってからそっと中に踏み入った。

 わずかに渋みのある、香ばしくもすがすがしい匂いが鼻を突く。

 ……ハーブ?

 だいだいいろの温かな明かりを落とすり照明。リフォーム済みなのか外見に比べて内装は整っており、年季の入った色の柱やはりが照明を反射して目をいた。

 フローリングのフロアの端には、ビニールカバーがかかったままのテーブルと椅子が寄せられ、段ボール箱が乱雑に積み上がっている。

 そしてフロアの半分を占めるカウンタースペースの奥で、男は抱えていた段ボール箱の中身を出した。


「適当に座っててください」


 店の中は冷房がきいていてたちまち身体の表面が冷えた。スーツケースを壁際に置き、カウンターのスツールにそっと腰かける。


「あの、お代は払いますので!」


 そう申し出た私に男はメガネの目を向ける。


「当然です。あと、なんでもいいから食べさせてほしいとのことでしたので、メニューは選べませんよ」

「食べ物の好き嫌いはないので問題ありません!」

「観光客ならすしでも行けばいいのに……」


 男はぶつぶつ言いながら私に背を向けると腰巻きのエプロンをつけ、奥にある業務用の大きな冷蔵庫からハムやレタスを取り出して手早く準備を始めた。

 それから、小さなやかんでお湯を沸かし始める。


「手慣れてますね」


 男はカウンターから身を乗り出して観察している私に目もくれず、ついでに返事もくれなかった。

 耳つきの食パンを定規で測ったようなれいな正方形にカットし、ハムとレタスのサンドイッチを作っていく。そしてお湯が沸騰したやかんの火を止め、カウンターの背後の棚から透明なガラス製のティーポットを出した。そこで初めて、私は奥の棚に円柱型の銀色の缶がずらりと並んでいることに気がつく。


「それ、もしかして全部紅茶ですか?」

「ここは紅茶の店ですから」


 思いもかけずなじみのない世界に踏み込んでいたことがわかって胸が高鳴る。


「紅茶のお店なんて初めて!」

「お好きな茶葉などありますか?」


 男の質問に訊き返す。


「メニューは選べないんじゃなかったんですか?」

「紅茶は選べます」


 そうなんだ、とは思うも選べるほどには詳しくない。

 目を凝らしたものの、缶に貼られているラベルの文字は判読できなかった。


「お任せします!」


 男は考えるようにメガネの目を細め、それからとある缶を手に取った。缶の蓋が開いた瞬間、乾いた茶葉の香りがふわりと広がる。

 店内に満ちている香りは紅茶のものだったんだ。

 男は沸かした湯でポットを温め、小さなスプーンですくった茶葉を透明なティーポットに入れると素早く蓋をして砂時計をセットする。

 その間にサンドイッチをこれまた正確に切り分け、皿に盛りつけると私の前に置いた。

 なんだかんだできちんと接客されていることに気がついて、急に申し訳なくなってくる。


「すみません、一方的に押しかけたのに」


 恐縮した私に男はあきれたような目を向けたものの、やがて表情を緩めた。


「軽食程度ですのでお気になさらず」


 クールな目元に控えめではあるが笑みが浮かんでいる。冷たい感じの人かと思いきや、意外といい人なのかもしれない。

 改めて男の顔をまじまじと観察する。

 メガネの奥の目は切れ長で、派手ではないが鼻筋が通った整った顔立ちをしており貴族っぽいと思った。貴族に会ったことなんてもちろんないけど、姿勢がよく立ち居ふる舞いが洗練されていて、どこか浮き世離れしているというか。

 いかにもオフって感じの今のカジュアルな服装も悪くはないけど、えんふくみたいな正装をさせたらすごく似合いそうだ。身長は一七五センチくらい?

 砂時計の砂が落ち切ると、ガラス製のティーポットの中はすっかり色が変わっていた。男は今度は白い陶器のティーポットを用意し、茶こしを使いガラス製のティーポットの中身を注いでく。

 無駄のない身のこなしで手際がよく、優雅さすら漂っている。


「ティーポット、二つも使うんですか」

「最初に使ったのは蒸らし用です」

「紅茶って、ちゃんと淹れると意外と手間がかかるんですね」


 私の言葉に男は顔を上げた。


「新鮮で良質な茶葉を使う。ティーポットを温める。茶葉の分量を量る。沸騰した瞬間の熱湯を使う。茶葉を蒸らす間、ゆっくりと待つ。──ゴールデンルールを守ろうと思えば、それなりに手間はかかって当然です」

「ゴールデンルール?」

「おいしい紅茶の淹れ方ってことです」


 こうして白いティーポットとカップが私の目の前に置かれた。

 ティーカップの内側は飾り気のない白で、外側はティーソーサーとそろいの繊細な花柄が細い線で描かれている。

 カップには淹れたての紅茶が注がれ、ティーポットには保温のための布製のカバー──男は「ティーコジー」と呼んだ──がかぶせられる。


「ダージリンティーです。セカンドフラッシュと呼ばれる夏摘みのものになります」


 白いカップに注がれた紅茶は、透明感のある濃い橙色をしていた。


「ダージリンは知ってますけど、夏摘みなんてあるんですね」

「ダージリンは摘む季節によって味も香りも変わります。セカンドフラッシュには独特の甘みがあるのが特徴です。緑茶でも新茶など季節によって違いがあるでしょう?」

「確かに。そういえば、緑茶と紅茶って同じ葉っぱからできてるんでしたっけ?」

「そうです。緑茶は無発酵茶、紅茶は発酵度が八〇から一〇〇パーセントの完全発酵茶のことを指します」

「すごい、詳しいんですね」


 男のうんちくに素直に感心してカップに鼻を近づけ、そっとひと口飲んでみる。たちまち口の中に広がった香りはほんのりと甘く、そして渇いた喉にうれしいさっぱりした味わいに思わず声を上げた。


「おいしい!」


 予想外に大きく響いた自分の声に恥ずかしく思ったが、男は気にした様子もなく「ならよかったです」とクールに応えた。

 紅茶のおいしさにひとしきり感動すると、身体の奥が温まったせいか段々としみじみした気分になってくる。


「こんな風にゆっくりお茶を飲むなんて久しぶりです。ずっと忙しかったし……」


 男は腰のエプロンを外し、自分の分のサンドイッチなどを盆に載せると私の二つ隣の席に腰かけた。定規でも入れたように背筋はまっすぐに伸びている。

 私も姿勢を正し、その涼しい横顔に話しかけた。


「あの、この辺ほかにお店もなかったし、ここでランチいただけて本当に助かりました。えっと──」


 私の疑問を先回りするように、男は自ら名乗った。


やま秀二です」


 なので私も名乗り返す。


なめあやめです」


 どうぞよろしく、などと言い合うのはなんだかおかしく思え、それ以上は口には出さず、代わりに私たちは示し合わせたようにティーカップに口をつけた。


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