1.花咲く紅茶〈Shalimar Tea〉

1.花咲く紅茶〈Shalimar Tea〉①


 駅を降りたそこは南国だった。


 強い日差しと潮の香り、そして私を見下ろすの木。梅雨が明け、すっかり夏を迎えた七月初旬の東京よりも気温は高そうだが、海が近いからか通る風は心地いい。

 電車に乗ること三時間ばかし。自分はどこに来たのだっけと考えて、白壁にオレンジ色の屋根という南欧風の二階建ての駅舎をふり返る。


『JRたてやまえき


 房総半島の最南端。そんなに遠くに来たつもりはなかったのに、気持ちはすっかり異国に到着したときのそれになっている。

 ショルダーバッグを肩にかけ直し、スーツケースの持ち手をつかむ。

 時刻は午前九時前。ともかく、と自分自身に言い聞かせるようにして一歩前に足を出し、駅前のロータリーを抜けて一本道を歩きだす。二車線の道路は整備されていて、ヨーロッパ風の街灯と椰子の木が等間隔で立っている。

 ……まさか、昨晩部屋を出たときには、椰子の木を見ることになるなんて思ってもみなかった。

 スーツケースを転がしながら駅舎を背に歩いていくと、数百メートルも行かないうちに視界が開ける。

 海だ。



 少ない荷物をスーツケースに詰め込み、部屋を飛び出したのは昨日の午後十一時過ぎのことだった。

 美容室でアシスタントをやっていてまだまだ見習いの身の私は、練習のため閉店後も店に残っていることが多い。けどその日は、ビルの配電設備に異常があったとかで早々に帰らされることになった。

 サロンのオーナーでどうせいもしているあつひささんはオフだったし、久しぶりに部屋でゆっくりするのもいいかもしれない。なんて思いながらマンションに到着し、玄関のドアを開けたら。

 玄関先で、なんとなく見覚えのある女の子がパンプスに足を通していた。


 ──あれ、お帰り早いですね。


 私が何も言えないでいると、「おじゃましましたー」と彼女は明るく去っていき、あとには私と廊下に立っている敦久さんだけが残された。


 ──誰?


 そういてから思い出した。いつも敦久さんを指名しているお客さんの一人だ。


 ──誰でもいいだろ。

 ──よくないし。何してたの?

 ──見ればわかるだろ。


 さも面倒そうに言った敦久さんの髪はらしくないくらい乱れに乱れていて、確かに見ればわかる状態だった。


 ──もう寝るから。


 そうこちらに背を向ける敦久さんのTシャツを私は摑んだ。


 ──ほかに言うことないの?


 けど、謝罪どころか言い訳の一つもなかった。


 ──ここは俺の部屋だ。文句があるなら出てけ。


 そういうわけで、言われたとおりに荷物をまとめて部屋を出た。

 近所の漫画喫茶でどうがんばっても落ち着かない感情を持て余して一睡もできず、どこかへ行こうと思い立って翌朝午前五時台の電車に乗り、とりあえず東京駅を目指すことにして品川駅で快速電車に乗り換えた。漠然と遠くに行こうと決めた結果、東京駅に行けばどこにでも行けるような気になったのだ。


 ──なのに。


 通勤ラッシュにはまだ早く、品川駅からの列車は空いていて、シートに腰かけた瞬間に見事に爆睡、気づいたときには終点・きみ駅に到着していた。聞き慣れない駅名に地図アプリで確認すると、東京湾沿いを走りに走って、房総半島のまん中くらいまで南下していたことがわかった。ならいっそこのまま南下し続けようとすぐに心は決まり、君津駅からさらに南へと向かう、銀色に黄と青のラインが入った車両の内房線の各駅停車に乗り換えて。

 到着した終点がここ、館山だった。



 重たい鈍色の東京湾の海は見慣れていたけど、ここの海はそれに比べると格段に青かった。

 潮風に運ばれた砂が歩道のすみにまり、スーツケースのキャスターがじゃりじゃりと音を立てる。ここは本当に同じ関東なんだろうかと考えてから、頭上の高いところで揺れている椰子の葉を見上げた。

 ここは違う関東だ。

 肌を焦がす日差しのもと、にわかに気持ちがたかぶってくる。漫画喫茶を出てから四時間もたずに、望んでいたどこか遠くに辿たどいた達成感で震えた。

 やればできるじゃないかと、電車で寝ていただけの自分を褒めたくなってくる。

 地図アプリを見ると、館山駅は房総半島で一番南の駅ではあるが、房総半島の南端ではないことがわかった。

 それならと、このまま房総半島の南端を目指すことに決めた。気分はハイで無双で、今ならなんでもできる気がする。下ろしていた長い髪を高いところで結んで気合いを入れた。

 海沿いの道をひたすら行けばいいとわかり、音を立ててスーツケースを転がしながら歩きだす。

 なぎさの駅たてやまを通過し、ずらりと並んだ漁船を横目に進み、途中のコンビニでパンとペットボトルを購入し、黙々と足を進めていくとやがて『房総フラワーライン』という看板が現れた。

 海沿いのドライブコースで、これを進めば南に行けるらしい。右手には海、左手にはこんもりと茂る山。

 てんじくを目指す孤高の冒険者みたいな気分で、ともすればよみがえろうとする記憶をふり払うようにただただ足を動かしてく。



 敦久さんに出会ったのは、美容専門学校時代の研修だった。

 実際のサロンで研修をするというもので、そこで私の担当になって色々教えてくれたのが彼だ。としは十個上。研修の最終日に連絡先を訊かれて、後日こんな連絡が来た。


『卒業したら俺のところでアシスタントやらない?』


 独立して自分の店をかまえるので、使えるスタッフが欲しい。研修で見込みがあるように思えたから、と。

 人と接するのが好きだとか、人の髪をいじるのが好きだとか、色んな理由はあれど私が美容師を目指した一番の理由は手に職をつけたいからだった。手に職をつけ、独り立ちしたいとずっと願ってた。

 そんな独り立ちへの過剰なまでの憧れの反動に違いない、自分のサロンをかまえるという彼がとても魅力的に映ったし、誘いの文言も私の自尊心をくすぐった。

 彼のサロンは私が当時暮らしていた母のマンションからは少々遠く、「それならうちで一緒に暮らせば?」と言ってくれたこともまた私を舞い上がらせた。これで家を出られる、独り立ちができるんだと。

 そんなわけなかったのに。



 ……歩き続けてどれくらい経っただろう。

 やはり何事にも限界はあると痛感した。

 アドレナリンだけで歩くのはもう無理。

 太陽が頭の真上に昇った頃、足の痛みにギブアップした私は丁度到達した砂浜で足を止めた。途端に汗が噴き出して止まらなくなる。

 岩場が多くサーファーには人気がないのか、その砂浜には人っ子一人いなかった。スーツケースを砂の上に倒し、海面に突き出した平たい岩に腰かけてスニーカーを脱いだ途端、足がズキズキと痛みだす。

 足の裏の皮が盛大にけているのを見るなり南を目指す気持ちはすっかり萎え、ただただ自分が何をやっているのか問うてみるも、答えは考えたくもない。

 唯一確かなことといえば、どこまで行ってもここにあるのは房総の海で、天竺じゃないということだけだ。

 ふいに存在を思い出してショルダーバッグからスマホを取り出すと、サロンからの着信がいくつもあってますます現実に引き戻された。

 メッセの通知も複数あり、そこに敦久さんの名前を見つけて瞬間的に身体からだこわばる。

 ……どんな顔でどんなメッセを送ってきたんだろ。

 一緒に暮らし始めたばかりの頃はよかった。でも仕事は忙しくて実務経験のない私にはわからないことも多く、練習に時間を割くことが増えるようになると、すれ違うことが増えて会話は減っていった。

 私は使えない新人で、彼はオーナーだししょうがない。もっと腕を上げて余裕ができれば、関係もまた変わってくるだろうって信じてたのに。


 ──文句があるなら出てけ。


 ふざけんな、と思った直後、考えるよりも先に手にしていたスマホを海に向かって投げていた。

 波音に紛れ、スマホが着水する音は聞こえない。

 波間に沈んでいく端末の姿を想像し、防水機能ついてたっけ、などと考えてから両膝を抱える。

 とんでもなくみじめだった。

 私はカッコいい冒険者でもなんでもない。

 砂にまみれたスーツケースが視界のすみに映る。遠くに来て、スマホを海に捨てて。

 これからどうしよう。

 膝を抱えたままじっとしていると、剝き出しの肌がじりじりと焼けていく音が聞こえるようだった。

 日傘を部屋に置いてくるんじゃなかった。

 このままここにいるくらいなら、当初の目的だった房総半島最南端を目指すくらいした方がマシだと思う反面、疲れた身体は動くことを拒否してる。

 太陽に焼かれつつ、くり返す波音の中で動けないまま、どれくらい経ったかわからなくなった頃だった。


「自殺でもするんですか?」


 背後からそんな言葉をかけられた。


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