2.未知なる紅茶〈Iced Tea〉⑦
◇◆◇
喧嘩とも冷戦とも言い難い状態だったけど、仕事もあるしそもそも一つ屋根の下、互いを無視することは到底できない。
秀二さんはいつもどおり朝にはサンドイッチを作り、仕事中も必要最低限の会話ではあったけど私を無視するようなことはしなかった。かといって話し合いをできるような雰囲気ではなく、おまけに芽依は秀二さんへの反抗心剝き出しで、関係はますますこじれて空気が悪い。
そんな状態が二日も続いた、ある日の閉店後のこと。
「花火、
秀二さんが唐突にそんなことを言いだし、私は持っていたゴミ箱を床に落とした。
「なんで仕事を増やすんですか」
ぶちまけてしまったゴミを慌ててかき集めつつ、「すみません」と謝る。
「驚きすぎて……」
事務連絡以外の会話は久しぶりすぎて調子が出ず、ついつい歯切れ悪くなる。
花火というのは、
一万発の花火を打ち上げるそうで、平日開催ではあるが遠方からも見物客が集まると、配達に来ていたパン屋の
冷戦中なのもあったけど、そもそもお店もあるし、観に行くのは難しいだろうと思ってた。
「今から準備して間に合いますかね」
「打ち上げ開始は七時半ですし問題ないでしょう」
昨日のうちに下調べしておいたらしい。屋台などの並ぶメイン会場の
沖ノ島は陸続きの一周一キロ程度の小さな無人島で、館山湾に突き出していて花火鑑賞の穴場らしい。台風の高潮被害に遭って立入禁止になっていた時期もあるそうだが、補修が終わってそれも解除され、夏の間は人気の海水浴スポットとしてにぎわっている。
そういうわけで、いまだ私の部屋で居候を続けている芽依を連れての花火見物と相成った。秀二さんが飲みものや軽食を用意するというので、私はその間に芽依の髪をセットしてあげることにした。
「あやめちゃん、元美容師なの?」
私の前職を聞くと芽依は目を丸くした。
「まぁ。アシスタントしてただけだけどね」
芽依の明るい色の髪は太くてしっかりしてて、そのまっすぐな物言いを象徴するようなストレートだ。
「もしかして、この茶髪って地毛?」
「すごい、よくわかったね。そうなの、地毛なのにいっつも頭髪検査に引っかかっちゃってさー。黒く染めろって言われたりするのとかマジ勘弁してって感じ」
ヘアピンを使い、ボブヘアの髪を編み込みにしていく。久しぶりの感触にこちらも楽しくなってきた。
「あやめちゃん、あのメガネの髪もいじったりするの?」
一瞬手を止めて、すぐに三つ編みを再開した。私の味方宣言をした芽依はここ数日、秀二さんのことを「メガネ」呼ばわりしている。
「秀二さんの髪はいじらないかな。そういうの嫌いそうだし」
「メガネ、神経質そうだもんね」
棘のある言葉に苦笑する。髪に触れるような関係じゃないだけだ。
「これでおしまい」とヘアセットを終えると、鏡を見た芽依は歓声を上げた。
「すごい、かわいい、ありがと!」
気に入ってくれたみたいでよかった。
花火も気分転換になればいいんだけど。
いい夫婦のお手本を見せるという話もなぁなぁになってしまい、もはや私にできることは芽依の話し相手になることくらいしかなかった。ここに住まわせるにも限界はあるし、せめて芽依が考えを整理する手助けになればいいけど。
「あやめちゃん、また美容室で働かないの? なんかもったいない」
すっかり上機嫌になった芽依に訊かれたが、出てきた理由が理由なだけに、答えは曖昧に笑ってごまかした。
「今はここで働いてるし」
「メガネにあやめちゃんはもったいないなー」
「そんなことないよ」
ここ数日、私なんかがここに住んでいていいのかと、そんなことばかり考えてる。
なんてことはさすがに言えない。
沖ノ島へはスクーターと自転車で向かうことになった。
私の自転車に跨がって「七キロ!?」と声を上げた芽依に、「驚くことはないでしょう」と秀二さんは目も合わせずに言う。
「駅からここまで歩いてきたんじゃないんですか?」
「まさか。あたし、ここまでバスで来たし」
「そうですか」と秀二さんは肩をすくめた。どうやらここまで自分の足でスーツケースを転がしてきた私と同じだと思っていたらしい。
秀二さんはいつものハーフタイプのヘルメットをかぶると、青いスクーターを駐車場から出した。
「車で行けばいいのに」との芽依に、私にヘルメットを渡しつつ応える。
「渋滞に巻き込まれたり、停めるところがなかったりしたら面倒でしょう」
沖ノ島公園には広大な無料の駐車スペースがあるが、それも花火前だと混雑具合がわからない。渡されたヘルメットを受け取りつつも、私は芽依に訊いた。
「私が自転車に乗ろうか?」
「いい。メガネと二人乗りとかナイし」
芽依は自転車に跨がると、店の前の通りで軽く走らせて乗り心地を確かめ始める。文句は言いつつも花火は楽しみなようだ。
芽依の自転車が先に出発し、私は髪をサイドテールに結び直してヘルメットをかぶると、秀二さんのスクーターの後ろに跨がった。二人乗りは初めてだ。首を
「落ちても拾いませんので、ちゃんと摑まっててください」
「そ、そこは拾ってくださいよ」
どこかぎこちない空気ながらも、以前のような会話ができて胸を撫で下ろす。
目の前にある背中は思っていたよりもずっと広かった。にわかに緊張しつつも、何でもない風にその腰に手を回す。
仕事場も住んでいる家も同じなのに、秀二さんからは茶葉の香りがする気がする。
そうしてスクーターは発車し、坂道を下ってすぐに房総フラワーラインに出た。館山駅方面へ向かう車が目立つ。もうすぐ午後六時、辺りの海水浴場に残っている客はもうほとんどいない。
芽依の自転車を追いかけるようにスクーターは走り、赤信号で停まった際に思い切って訊いてみた。
「花火、好きなんですか?」
質問の意味がわからないとでも言いたげな目を向けられる。
「秀二さんから誘ってくるなんて、ちょっと意外だったので」
こんなに海の近くに住んでいるというのに、秀二さんはマリンアクティビティには興味がないようで、海に出ていくところはいまだに見たことがない。人混みの中で花火を観るくらいなら、部屋で読書でもしたいと言われた方がしっくりくる。
「駅に用事があるのでついでです」
「用事?」
「沖ノ島に着いたら私は一度駅へ向かうので、二人で場所取りでもしていてください」
なんだかよくわからないまま信号が青に変わってしまい、会話はそこで中断した。やっぱり必要最低限の会話しかできていない。
スクーターは途中で芽依の自転車を抜き、そのまま速度を緩めることなく航空基地の入口を通過、ずらりと車が並んだ海岸沿いの道を進んで沖ノ島に到着した。
昼間から来ている海水浴客がそのまま残っているのだろう、砂浜はビーチテントを広げた人ですでに大にぎわいだ。海の家もある。
「戻ってきたら連絡します」
スクーターを降りた私からヘルメットを受け取り、スクーターを方向転換させようとする秀二さんに慌てて声をかけた。
「どうやって?」
顔を見合わせる。秀二さんもすぐにそれが難しいことに気づいたらしい。
私には現在通信手段が何もない。
「あ、じゃあ芽依の番号を訊いたらいいですよ」
「嫌です」
即答された。やはり腹に据えかねるものはあるらしい。
「向こうだってこちらに教えるのは嫌でしょう」
「そんなことないですよ。いい子じゃないですか」
「それはあなたの味方だからでしょう? こっちにしてみればクソガキでしかないです」
「芽依と私、そんなに歳離れてないんですけど」
「なら、あなたも
「これでも成人してますし! そっちこそ──」
ヒートアップしかけたものの、秀二さんが「もう行きます」と会話を打ち切った。
「連絡はしません、あまり遠くに行かずにいてください」
「暗くなったら探すの大変そうですけど」
砂浜に外灯などはない。
「その前に戻ります」
やっと芽依が現れて駐輪場に自転車を停めた。秀二さんはそれと入れ違うようにスクーターをUターンさせて去っていく。
「メガネ、どこ行ったの?」
「駅に用事があるって」
ビーチサンダルに履き替え、芽依と一緒にスロープから砂浜に降りた。海水浴場としても人気の百メートルほどの砂浜が、無人島である沖ノ島と本土との橋渡しをしている。砂浜にはカラフルなビーチテントが所狭しと並んでいて、はしゃぎ回る子どもたちはまだまだ元気なようだ。
「海水浴場なんてすっごい久しぶり」
芽依はビーチサンダルで砂を蹴り上げながら歩いていく。そのショートパンツの尻ポケットにはスマホがあり、通知を
「スマホがないのって不便だね」
隣に並んでそう話しかけると、「まぁそーだね」って芽依は明るく応えてから私の顔を見た。
「あやめちゃん、スマホ持ってないんだよね? ガラケー?」
「ガラケーも持ってない。スマホ、ちょっと前に海に捨てちゃったの」
「『壊した』とか『落とした』じゃなくて、『捨てた』なんだ。あやめちゃんって時々ロックだよね」
行けども行けどもビーチテントは密集していて場所が見つからず、駐車スペースからだいぶ離れた砂地に腰を落ち着けることにした。持参してきたレジャーシートを広げ、サンダルを脱いで足を伸ばして座るとピクニック気分が高まる。
芽依が自転車のおかげで汗だくだと言うので、秀二さんが用意した水筒を取り出してプラスチックのカップに中身を注いだ。もちろんアイスティーだ。
「あ、これすごくいい香り」
水筒のアイスティーは、ティーバッグを使って濃く抽出した紅茶に水を加えて淹れたもので、作り置きに向いた水差し方式だと秀二さんは言っていた。
ちなみにいつも店で出しているアイスティーは、熱い紅茶を氷に直接注いで急激に冷ます、味と風味を損なわず、すぐに飲むのに向いたオンザロック方式だそう。アイスティーもただ氷を入れればいいというわけでもなく色々奥深い。
アイスティーに使った茶葉を聞いていなかったことに思い至り、カップに鼻を近づけた。
「アールグレイかな」
「あ、それ聞いたことがある。それも紅茶の産地の名前?」
この数日で、芽依もそこそこ紅茶に詳しくなった。ダージリン、セイロン、ウバ、ディンブラなど、茶葉の種類には産地の名前がついていることが多い。
「アールグレイはフレーバードティーだよ。ベルガモットっていう柑橘系の香りを茶葉につけてるの」
「だから匂いが強いんだ。ベルガモットなのに名前はアールグレイなの?」
「アールは『伯爵』って意味。グレイ伯爵が好きだったお茶なんだって。──なんて、全部秀二さんの受け売りだけど」
芽依はすぐに一杯飲み干し、お代わりを自分で注いだ。
「ムカつくけど、メガネが淹れる紅茶はおいしい」
のんびりしていると徐々に太陽は威力を弱め、空はゆっくりと東から色を濃くしていく。夜が近づいていた。秀二さんと別れてそこそこ時間が経っているような気がするけど、スマホがないと時間もわからない。暗くなってきたし、もしかしたら見つけられないでいるのかもしれない。
そのとき、ふいにレジャーシートが明るくなった。芽依のスマホが四角い光を発している。
「電話? 出なくていいの?」
スマホはしつこくレジャーシートの上で振動を続けている。
「いいよ。どうせ──」
「見つけた!」
その声の方を二人揃ってふり向いた。
レジャーシートから数メートル離れたところに、スマホを耳に当てた高校生くらいの男の子が立っている。
何かのロゴの入った暗い色のTシャツにジーパン、白いスニーカー、潮風に乱れた短髪と、派手さの
「……何やってんの?」
芽依は座ったまま
「迎えに来たんだよ」
芽依は困ったように私を見て、それから少年の後ろに立っている秀二さんに目をや
った。
【次回更新は、2019年8月21日(水)予定!】
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