2.未知なる紅茶〈Iced Tea〉⑥

 秀二さんは結局のところまともに協力してくれず、互いを褒め合う作戦は早々に頓挫してなんだかとっても疲れてしまった。

 午後五時に店を閉め、直後、秀二さんは仕事着から着替えると「これから出かけます」と身支度を調えた。


「新しいメガネを作りに行ってきます。申し訳ありませんが、片づけを任せていいですか? 遅くなると思うので夕食も先に食べててください」

「それはかまいませんけど……車ですか?」

「いえ、バスで行きます」


 日に四本しかない路線バスのことだ。それなら安心。


「了解です」


 美沙さんにもらった自家製のやゴーヤがあるので、今夜は夏野菜のカレーにした。大きめにカットした野菜がゴロゴロ入っていて、我ながらデキに満足する。

 私と芽依は先に食事を終え、芽依に先に風呂に入ってもらったところで秀二さんが帰ってきた。新しいメガネはレンズがピカピカで、蛍光灯の明かりをこれみよがしに反射する。


「カレーですか?」と訊かれて頷いた。

「今温め直しますね」


 鍋を火にかけ直していると、秀二さんは冷蔵庫かららっきょうの瓶を取り出した。冷蔵庫を新調したことにより、食材のストックができるようになったのはやはり大きい。先週、カレーには私は福神漬け派で秀二さんはらっきょう派だとわかり、どちらを買うかで議論を重ねて結局両方買うことにした。冷蔵庫が大きくないとそういうことはできない。


「なんのカレーですか?」


 秀二さんに鍋を覗き込まれた。


「夏野菜です。美沙さんに茄子とかゴーヤもらったじゃないですか」

「茄子は避けて盛ってもらえます?」


 鍋をかき回していたお玉の手を止めた。


「え、茄子ダメなんですか? おいしいのに」

「ダメっていうか……話しませんでしたっけ。かゆくなるんですよ」

「それ、アレルギーじゃないんですか? 茄子なんてカレーの中でぐずぐずですよ」


 秀二さんは鍋の中を確認する。


「明らかに茄子じゃない具材をけてもらえれば大丈夫です。少しなら食べても平気ですし」

「何か一品作ります。卵ならありますし──」

「そんな手間かけなくていいですよ」

「でも、」

「私が止めても賞味期限切れのものは平気で食べるくせに、こういうのは気にするんですか」

「あ、当たり前じゃないですか! アレルギーなのに!」

「だから、少しなら平気だと──」


 秀二さんがふいに言葉を切ってリビングの方を見た。いつの間にか芽依が戻ってきていて、ソファに座ってスマホをいじっている。


「……これくらいでやめておきましょう」


 秀二さんはそう声を潜め、カレー皿を手にして炊飯器を開けた。


「でも──」

「カレー、よそってもらえますか?」


 ご飯の載ったカレー皿を渡され、渋々受け取った。けど、鍋のお玉を動かす気にはやっぱりなれない。


「気になります」

「だから、大丈夫だって言ったでしょう」

「だって秀二さん、いっつもできないこともできるって言うじゃないですか」


 新品のメガネの向こうにある目が細められた。


「バカにしてます?」

「してません。……私、風邪も滅多に引かないしあんまり病気しないんで、そういうの聞くと気になっちゃって」

「なんとかは風邪引かないそうですしね」

「そういうことじゃなくて──」

「あやめちゃん、あんたの心配してるだけじゃん。なんでそんな言い方なわけ?」


 芽依はソファの背もたれに半身を預け、秀二さんに冷たく言葉を投げつけた。


「あんたの心配してるあやめちゃんに、ちょっとそれヒドくない?」


 自分の代わりに怒っている芽依に、頭に上りかけていた血は引いた。一方、秀二さんの方は負けじと芽依を睨み返し、私に渡したカレー皿を無言で奪い取る。


「食べなきゃいいんでしょう」


 秀二さんは棚からふりかけを取り出すと、盛りつけた白いご飯の上に雑に撒く。

 気まずい空気の中、私は鍋に蓋をして訊いた。


「あの……何か作りますよ」

「結構です」


 秀二さんは作り置きしてあったアイスティーをグラスに注ぎ、箸とカレー皿と一緒に盆に載せるとそのまま自室に引っ込んでしまった。

 追いかけて謝るべきなのか、話し合うべきなのか、まったくわからない。


「……ごめん」


 いつの間にか、芽依がすぐそばに立っていた。目線を足元に落とし、いかにも決まり悪そうだ。


「ついカッとしちゃった」


 手を伸ばし、芽依の綺麗な茶髪に手ぐしを入れるようにしてでた。


「謝らなくていいよ。私のために怒ってくれたんだし」


 芽依は何かを口にしかけたけど、それは吞み込んで笑みを浮かべる。


「あたしはあやめちゃんの味方だからね!」


 ありがと、と返しつつも内心で嘆息する。

 いい夫婦のお手本を見せるどころではなくなってしまった。これじゃ、芽依を説得して家に帰すなんてまず無理だ。

 そして芽依の方も、もう私にそれは期待していないに違いない。

「あたし明日もがんばって働くから!」と元気よく宣言して部屋に戻っていった。

 一人ポツンと残されて、ダイニングテーブルにもたれかかってから姿勢を正す。残ったカレーを冷凍しようとプラスチック容器に移して熱を冷まし、空になった鍋を水にける。気を紛らわせたくて手を動かしているのに、鬱々とした気持ちはまったく晴れない。

 ルールも決めて、うまくやれてると思ってたのに。

 全然そんなことなかった。

 最後は浮気されたとはいえ、敦久さんと暮らしていたときはこんな喧嘩みたいなこと、したことなかったのに……。

 そう考えてから、すぐに理由に思い当たる。

 食事も生活スタイルも何もかも、私が敦久さんに合わせていたからだ。

 ルールを考えたとき、秀二さんが「平等な条件の下で共同生活をする」と言っていたのを思い出す。

 少なくともここには私が意見を口にできる空気がある。それはつまり、秀二さんが少なからず私を尊重してくれているということだ。私なんて勝手に転がり込んできた他人でしかないのに、お人好しにもほどがある。

 ……他人と暮らすのは難しい。

 どちらかに合わせてしまえれば簡単なのに。平等であろうとすればするほど、意見は嚙み合わないし衝突する。

 無理していい夫婦のフリなんてする必要はないけど、それ以前にいい同居人であるにはどうしたらいいのかわからない。

 話し合いをしようにも秀二さんは自室にこもったままで、『互いの部屋には入らない』というルールもある。スマホがあればメッセでひと言伝えることもできるけど、残念ながら海に沈めたままだ。

 容器の蓋を閉めて冷凍庫に突っ込み、そのまましばらくダイニングに留まっていたけど、結局誰も来なかった。



【次回更新は、2019年8月18日(日)予定!】

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