2.未知なる紅茶〈Iced Tea〉⑧


「探すのに手間取りました」


 秀二さんは疲れた顔でそう言うと私の隣に腰を下ろした。


「もっと入口近くにいると思っていたのですが?」

「すみません、うろうろしてるうちにここまで来ちゃって──」

「メガネが連れてきたの?」


 私を遮って芽依が秀二さんを睨んだ。


「もしかして、あたしのスマホ見た?」

「たまにリビングに置きっ放しにしていたじゃないですか。丁度着信があって、彼の番号が表示されたのでかけ直しました。無防備だった自分を責めるんですね」

「サイテー!」

「最低はお前だろ」


 少年はスマホをズボンのポケットに突っ込むと、芽依の前にしゃがんだ。


「いい歳してさまに迷惑かけてんじゃねーよ」

「……働いてたもん」


 唇を尖らせた芽依にため息をつき、少年は「すみませんでした」と私に頭を下げる。


「自分、おおぬきけいろうっていいます。芽依こいつとは腐れ縁っていうか家が近所で」


 いつだかに芽依が話していた幼なじみに違いない。

 恵太郎くんはむくれている芽依に優しく語りかける。


「花火観たら帰るぞ」

「ヤダ」

「ヤダじゃねーよ。友だちの家に泊まってるってごまかすの、もう限界だっつの。俺が芽依を隠してるんじゃないかって怪しまれてるし」

「そこをうまいことやるのがあんたの役目じゃん」

「役目じゃねーし。ってか、なんでこんなとこいるんだよ。交通費で俺の小遣いまですっからかんだわ」

「迎えに来てなんて頼んでない」

「お母さんもさきぬまさんも、心配して毎日俺に電話してくんだぞ」

 恵太郎くんがそう言った瞬間、芽依の白い足が前に伸びて恵太郎くんを蹴った。しゃがんでいた恵太郎くんの身体がごろんと転がり、芽依は勢いよく立ち上がる。

「うるさい!」


 止める間もなく、芽依はそのまま駆けていってしまった。ビーチテントや人を巧みに避けて進み、夕闇も相まってたちまち姿が見えなくなってしまう。

 追いかけようと立ち上がった私を、「そのうち戻ってきますよ」と止めたのは恵太郎くんだった。


「頭を冷やせばいいんだ」


 砂まみれになった恵太郎くんは、身体を起こすと砂の上であぐらをかいて髪をかきむしり私を見た。


「あの、あいつから何か聞いてますか?」

「お母さんの再婚のこと?」

「そうっす。今度お母さんが再婚するんすけど、それが気にわないみたいで。再婚相手の崎沼さん、すげーいい人なんすけどね」

「気に喰わないのもあるだろうけど……『夫婦って関係が理解不能』って言ってたよ」


 おかげでいい夫婦のお手本を見せることになり、色々と失敗したわけだ。


「──そんなの、わかるわけないじゃないっすか」


 思いもかけず恵太郎くんが声を上げた。


「俺らなんて高校生でしかないし。単にあいつがお母さんや崎沼さんのこと信用してないだけじゃないっすか。それで家出して心配かけて……」


 急に怒りをあらわにした恵太郎くんの肩を秀二さんが叩いた。「すんません」と恵太郎くんは怒らせていた肩を落としてうなだれる。


「恵太郎くん、優しいんだね」


 私の言葉に「そんなことないっす」と恵太郎くんは首を横にふる。


「恵太郎くんが優しいから芽依は好きにできるのかもね。きっと、恵太郎くんのことは信用してるんだよ」

「いいように使われてるだけっす」

「でも、芽依はスマホ持ってるじゃない?」

「スマホっすか?」

「うん。本当に縁を切りたいなら、まっ先に捨てるものだから」


 恵太郎くんは「はぁ」と気の抜けたあいづちを打ち、秀二さんは私をチラと見ただけで何も言わなかった。

 私は今度こそ立ち上がってビーチサンダルに足を通す。


「芽依のこと、探してくるよ」


 とは言ったものの、夜目がきかず、足元が悪くて芽依みたいには走れなかった。

 ビーチテントや人を避けていくうちに、気がつけばどんどん波打ち際に寄っていた。サンダルが踏む足元の砂はだいぶ水気を含んでいて波音が近い。


「芽依ー」


 名前を呼んでみるも、すぐに潮風と雑踏にかき消されてしまう。この暗さで転んでケガでもしていたらどうしようと急に不安になってくる。

 やっぱりすぐに追いかけるべきだった。

 ビーチサンダルの足元がひやりとして、波を踏んでいることに気がついた。直後、何かに足を取られて砂の上で引っくり返り、お尻とビーチサンダルの足がぬるい潮水に浸かってしまう。痛いやら恥ずかしいやらで、すぐには動けず天を仰ぐ。

 星が瞬いていた。

 西の空はまだうっすら明るかったが、それでも数え切れないほどの星が見て取れる。ここに来てすぐの頃、秀二さんが私に星を見せてくれたのを思い出した。

 芽依はこの星空をちゃんと見ただろうか。

 ついつい私の方が星空を眺めてしまい、それどころじゃなかったと立ち上がろうとしたそのとき、ふいに波音が大きくなって再び足をすくわれた。身体がふらつき、引き始めた波の上に着水して転がってしまう。


「──何やってるんですか」


 濡れて額にはりついた前髪を左右に分けつつ声の方を見ると、見慣れたシルエットが近づいてきた。芽依のことを見つけられていない上に、全身ずぶ濡れで砂まみれ。合わせる顔がない。


「察してください」


 ふてくされて答えたら、ほら、と秀二さんは手を差し出してきた。星空を背負って身をかがめる姿はハッとするくらい綺麗だ。

 本人にその自覚があるかはわからないけど、こんな風に手を差し伸べられたら大概の女子は反射的に摑んでしまうかもしれない。

 とは思うも、何かに負けるような気がして素直に摑む気になれない。


「私はいいので、芽依のこと探してください」

「家出少女はあなたがいなくなって少ししてから戻ってきました。なので、今探されているのはむしろあなたの方です」


 ますますもっていたたまれなさすぎてうなだれる。


「もう私みたいな面倒な奴は放っておいてください……」


 濡れた砂の上で膝を抱えたら、引き上げるように腕を強く摑まれてドキリとした。


「あなたが面倒で厄介でガサツで適当でどうしようもないことくらい承知しています。さっさと立ってください」

「そ、そこまで言わなくてもいいじゃないですか!」

「それでもあなたに店にいていいと言ったのは私です」


 私の腕を摑むその手に急に意識がいった。それはあまりに温かい。


「私……出ていかなくていいんですか?」

「誰が出ていけなんて言いました?」

「……言ってません。言ってませんけど! 私みたいなのがいても、秀二さんは面倒なんですよね?」

「何度言わせるんですか。面倒なのは承知の上ですし、本当に出ていってほしければそう言っています。『どちらか一方の申し出により、いつでも関係を解消できる』というルールでしょう?」


 私の腕を離し、改めて差し出された手に今度は摑まった。大きくて指の長い手を意識しつつ秀二さんを見上げ、そして。

 その温かい手を思い切り引っぱった。


「──は?」


 秀二さんの身体が私の隣、砂の上に勢いよく倒れる。そしてつんいになって身体を起こしたところを、ゆるりと打ち寄せた波が吞み込んだ。

 腹を抱えて笑っている私を秀二さんが睨みつける。


「情けをかけた私がバカでした……」

「夏だし涼しくていいじゃないですか」

「冗談じゃないです。ベタベタするしいそあそびは好きじゃありません」


 メガネを外して砂を払っている秀二さんに、「ごめんなさい」と謝った。


「人をこんなにしておいて、謝って済むと思ってるんですか?」

「そのことじゃなくて、その……カレーのときのこと」


 秀二さんはメガネをかけ直してこちらを見た。


「秀二さんが大丈夫だって言ってるのに、意固地になりすぎました」


 数秒の間のあと、「あのとき」と秀二さんが口を開く。


「せっかく作ってくれたものを食べないのも悪いと思ったんです。心配してくれているのもわかってはいました。こちらも大人げなかったです」


 素直に謝り合ったらなんだか気恥ずかしい空気になった。

 先に立ち上がった秀二さんが差し伸べてくれた手に摑まると、強く引かれて私も立ち上がる。誰かとこんな風に手をつなぐのがいつぶりかわからないせいかもしれない、思い出したように速くなった自分の鼓動に戸惑った。

 濡れて砂まみれのその手を握ったまま訊いてみる。


「教えてくれませんか?」

「何を?」

「苦手な食べ物のこと。……私たちは他人ですし、ルールに決めた以上のことは踏み込まなくてもいいのかもしれないですけど。一応一緒に暮らしているわけですし、知らないよりは知っていた方が、うまくやれるんじゃないかな、と」


 ここにいるために、対等でいるために、もっと知りたいと思った。

 そしてそれは、口に出さなきゃ伝わらない。

 また面倒なことを、と思われるかもしれない。この手は温かいが、暗くて表情はわからず、繫がれたままの手に視線を落とす。


「……茄子以外だと、メロンやスイカ、バナナ、キウイなども痒くなります」


 目を上げると、こちらを見つめる切れ長の目とかち合った。


「果物がダメってことですか?」

「そういうわけではないです、柑橘類などは問題ないので。それに、濃縮還元のジュースや缶詰めなど、加工してあれば問題ありません。でも、生のフレッシュジュースは避けたいです」


 思っていたより細かい。必死に口の中で復唱していたら鼻で笑われた。


「小さい脳みそで無理して覚えなくてもいいですよ」

「これでも脳みそのサイズは人並みです! それに、教えてほしいって言ったのは私なんで絶対に覚えます」


 そう宣言すると、秀二さんは笑いを引っ込めて訊いてきた。


「それなら、あなたはどうなんです? 苦手なものや好きなものはあるんですか?」


 必死に回転させていた頭が止まる。


「私のことは別に──」

「知らないよりは知っていた方が、うまくやれるのでしょう?」

「……私とうまくやるつもりがあるんですか?」


 わずかな間のあと、秀二さんが舌打ちしたのに気づいて慌てて答えた。


「苦手な食べ物は特にないです! 好きな食べ物は……強いて挙げるならさつまいもとか? あ、でも、基本的になんでもおいしく食べられます!」

「バカ舌なら毎食サンドイッチでいいじゃないですか」

「それとこれとは話が別ですよ!」


 こそばゆさとあんで頰が緩んでしまいそうで、暗くてよかったと思った。



【次回更新は、2019年8月23日(金)予定!】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る