3.紅茶のブルゴーニュ酒〈祁門紅茶〉⑫



    ◇◆◇


 原井さんを《渚》に招待したのは、それから二日後の昼下がりだった。


「散骨をしてくれる業者の予約が取れたんです。天気がよければ、数日以内に沖に出られそうです」


 穏やかに話しつつ、原井さんはいつものカウンター席に着いた。これまでと同じ、首から提げていたカメラをカウンターテーブルの上に置いてメニューに手を伸ばす。


「今日はごちそうしたい紅茶があります」


 カウンターから秀二さんが声をかけた。


「おすすめの茶葉でもあるんですか?」

「そんなところです」

「じゃあ、それでお願いします」


 笑んだ原井さんの額には、まだ大きな絆創膏が貼ってある。


「足の具合はどうですか?」


 私が水とおしぼりを出しながら訊くと、「もう全然、大したことはないんです」と原井さんは笑んだ。


「湿布を貼ってたらすっかり腫れもひきましたし。もうほとんど普通に歩けます」

「よかったです。でも、あまり無理しないでくださいね」


 秀二さんに目配せされ、私は店の奥からあるものを取ってきて原井さんに渡した。とある一覧が印刷された数枚の紙の束だ。


「これは?」


 一覧に手書きで記入されているのは、たくさんの本のタイトルと価格。


「古書店に買い取ってもらった本の一覧です。穴川えいすけさんのご両親の遺品整理を手伝ったという方が近所にいまして、話を聞いたら控えをまだ持っていらしたんです」

「古書店? ご両親が持っていた本、ということですか?」


 数百冊の書名が並ぶ一覧は数ページに及んでいる。原井さんはその書名を一つずつ指で追っていく。


「小説がお好きだったんですね。絵本も多い」

「カメラの本や写真集もありますよ。近所の方が教えてくださったんですけど、なんでもお父様が趣味でカメラをやっていたそうで、息子さんが幼い頃は、カメラを持って一緒に出かけていたそうです」

「そうなんですか……だからあいつもカメラを……」


 懐かしむような表情でゆっくりと紙をめくっていく原井さんに、私はさらに口を出した。


「五枚目の下の方です」


 私の言ったページを開き、原井さんの表情が固まった。

 小説や絵本、写真集とは明らかに種類の異なる書名が並んでいた。


『パートナーシップ制度』『同性婚とは何か』『LGBTのこと』……。


「穴川さんのご両親、きっと、原井さんたちのことを理解しようとしていたんですよ」


 私の言葉に原井さんは応えず、その書名を見つめたままわずかに顔を歪めて額に手を当ててしまった。

 私と秀二さんは視線を交わし、秀二さんが静かに原井さんに声をかけた。


「おせっかいだとも思ったんですが……余計なことだったら申し訳ありません」


 謝った秀二さんに原井さんは顔を上げ、「とんでもない」と首を横にふる。


「これ、いただいてもいいですか?」

「もちろんです」

「ありがとうございます」


 秀二さんが用意していた砂時計の砂が落ち切ったのを見て、私は今朝焼いたスコーンを温めてカウンターに出した。秀二さんがカップを出してティーポットの中身を注ぎ、茶葉の香りが辺りに広がった瞬間。


「これ……」


 原井さんの目が大きく見開かれた。


「初めてここに来られたとき、『紅茶みたいな中国茶』とおっしゃっていたでしょう? これのことじゃないかと思いまして」

「そうです……そうです、これです! 香りが独特で、穴川が『中国のお茶だ』って言ってたのを覚えてて、てっきり中国茶なのかと……」


 ティーカップをそっと持ち上げ、原井さんは目を細めて注がれた深い赤褐色の紅茶に鼻を近づけた。クセのあるくんせいのようなスモーキーな香りが私のところにまで漂ってくる。

 秀二さんはその目元を柔らかくした。


「中国茶、というのは間違っていませんよ。これは祁門キーモンという紅茶です。世界三大銘茶の一つで、産地は中国になります。ヨーロッパではエキゾチックな香りが珍重され、『紅茶のブルゴーニュ酒』などと呼ばれることもあります」

「紅茶のワインってことですか」

「そうです。穴川さんのご母様が好きだった紅茶だと、近所の方に伺いました」


 美沙さんに初めて挨拶したとき、「近所に紅茶好きな人がいて色々教えてもらってた」と話していた。それこそが穴川さんの母親のことだったのだ。


「穴川さんもその紅茶を好んでいたということは、ご両親のことを忘れてなどなく、心のどこかで気にかけていたということじゃないでしょうか」


 原井さんは何かをこらえるように下唇を嚙んだが、やがてそっとカップに口を近づけた。


「……そうです、こんな味でした。香りは強いのに、意外とクセがなくて飲みやすくて……。実は、ずっとこの紅茶のことが気になってたんです。俺が『おいしい』って言ったら、あいつがすごく嬉しそうにしてくれたのを覚えてて。──でも俺、あいつと違って紅茶の名前とか全然覚えられなかったから、もうわかんないままだろうなって諦めてました。だから、まさかここで教えてもらえるなんて……」


 口では「忘れた」と言いながらも、穴川さんは父親が好きだったカメラを、母親が好きだった紅茶を大事にしていた。

 そしてご両親も、そんな穴川さんのことを理解しようと色んな本を読んでいた。

 すれ違ったまま穴川さんもご両親も亡くなってしまったけど、でもその事実が原井さんの救いになってくれればと願わずにはいられない。


「よかったら、茶葉も差し上げます。ぜひまた飲んでみてください」


 秀二さんの言葉に、原井さんはカップを置くと深々と頭を下げた。


「ありがとうございます! 本当に……本当に、ここに来てよかった」


 そして原井さんは再びティーカップに手を伸ばそうとしたが、その手で顔を覆って静かに肩を震わせた。



【次回更新は、2019年9月25日(水)予定!】

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