2.未知なる紅茶〈Iced Tea〉③

    ◇◆◇


 雨風は明け方まで強く、昨晩はほとんど眠れなかった。

 翌朝、欠伸あくびを嚙み殺しながら朝食の準備をしていたところ、背後からふんわり抱きつかれた。


「おはよー、あやめちゃん」


 芽依はダボついた白いTシャツにショートパンツという、いかにも夏の海に似合いそうな格好だ。持っていたトートバッグに、何日分なのかわからない大量の着替えが詰まっているのは昨晩目撃したばかりだ。


「おはよう。よく眠れた? ──って言っても、台風でうるさかったよね」

「そう? ぐっすり寝ちゃった」

「ホントに?」


 自分で思っていたより私は繊細な生きものだったのかもしれない。

 階下で雨戸をしまう音がし、少ししてから秀二さんが戻ってきた。手すりにしっかり摑まって階段を上ってくる。


「一階も特に問題ありませんでした。外の片づけは必要でしょうが」

「雨戸の片づけ、私がやるって言ったのに」


 愛用のメガネが壊れてしまい、今日の秀二さんは度が合っていない古いメガネを着用していた。おかげで足元が安定しないらしい。


「それくらいできます。それに、代わりに朝食を作ってもらっているでしょう」

「まぁそうですけど……」


 メガネを壊してしまった身としてはいたたまれない。

 秀二さんはシンクで手を洗うと、メガネのせいか少々よろけつつダイニングテーブルの自分の席に着いた。


「何はともあれ、台風の被害がメガネくらいでよかったです」

「……そうですよね! 台風でこんなにドキドキしたの初めてでしたし、本当によかったです!」

「開き直りもそこまでくると清々しいですね」


 私たちのそんなやり取りを眺めていた芽依が口を挟んだ。


「昨日の台風ってそんなにすごかったっけ? 直撃はしなかったんでしょ?」


 私と秀二さんはチラと視線を交わし、質問には秀二さんが答えた。


「ここに越してきてから一年経ってないんですよ。だから台風は今回が初めてです」

「そうなんだ。──あ、だからなのか」


 一人で納得した様子の芽依に「何が?」と訊いてみる。


「あやめちゃんたち、なんか初々しいっていうか、熟練感がないなって思ってた」


 どう反応したらいいのかわからずにいる私の一方、秀二さんはそれを流して自分の腕時計を見た。


「何時の電車に乗る予定ですか? 朝食を食べたら駅まで送りますよ」


 芽依はきょとんと秀二さんを見て、一方の私は「何言ってんですか!」と突っ込んだ。


「そのメガネで車の運転なんてできるわけないでしょう!」

「じゃあどうしろと? あなたが自転車の二人乗りで彼女を送りますか?」

「そっちの方が安全です!」

「あなたの自転車こそ安全運転からはほど遠いじゃないですか。すぐに手離し運転するし注意力散漫だし」

「あのさー」


 と芽依が私たちを止めるように手を挙げた。


「あたし、今日もここにいるから。──あ、安心して。お店の手伝いはちゃんとするし」


 芽依に見つめられ、秀二さんと目が合い、私は窓の外に視線を逸らした。

 台風一過、まっさおな空が広がっている。台風だからという言い訳はもう通用しない。


「あたし、ずっとファミレスでバイトしてたんだ。接客は任せて」



 そうしていつもどおり、午前十一時にティールーム《渚》は開店した。

 悪天候の翌日は混むことが多く、何よりこの晴天だ。正午前には全十五席の客席が満席になった。

 夏になって客足が増えてきたとはいえ、海水浴場から見える位置に看板を出してはいるがすぐそばというわけではないし、満席になることは滅多にないというのに。


「二番テーブル、サンドイッチのセット三つ。アイスティー二つにアッサムのミルクティー一つ。あとテイクアウトのアイスティー三つ」


 エプロン姿の芽依が忙しく立ち回る。芽依は注文を取ったりグラスを運んだりする合間にせっせとテーブルの片づけも済ませ、はっきり言って私なんかよりずっと手際がいい。


「あの子、本当にアルバイトで雇いたいくらいですね」


 食器を洗いながらこそっと話しかけると、アイスピックで氷を砕いていた秀二さんは私を横目でチラと見てすぐに手元に目を戻した。話をする余裕はないのだろうと私も自分の仕事に戻る。

 昼を過ぎても客足は衰えず、慌ただしいまま閉店の午後五時を迎えた。こんなに忙しかったのは開店以来かもしれない。


「パン、途中でなくなっちゃいましたね」


 カウンターの掃除をしながら、棚の在庫を調べている秀二さんに声をかけた。

「明日の分を増やせないか訊いてみます」とエプロンのポケットからメモ帳を取りだした秀二さんに、「牛乳もギリギリじゃないですか?」とつけ加える。


「そうですね……」


 ポツポツとそんな会話を交わしていたら、「あの!」と芽依が声を上げた。


「フロアの掃除終わったから、外、掃除してくるね」


 つけていたエプロンを外し、芽依はパタパタと店を駆け出ていく。あんなに働いていたというのに誰よりも元気だ。


「芽依のおかげで助かっちゃいましたね」


 そう秀二さんに笑んだら、笑みが返ってくるどころか呆れられた。


「アルバイトでもない家出少女に手伝わせて、助かったも何もないでしょう」

「でも助かったじゃないですか。今日、二人だったら回ってなかったですよ。秀二さんも足元危なっかしくてフロアに出られなかったし」


 秀二さんはしばし黙ったものの、「それはそれです」と仕切り直して話を続けた。


「どうするつもりなんですか? 昨日は台風でしたし仕方ありませんでしたが、今日も泊めるつもりですか?」

「だって、このまま放り出すわけにもいかないじゃないですか。何か家出したくなるような事情があるんでしょうし……こんなところまで来ちゃったんですよ? に追い出せません」


 秀二さんは音を立てて資材棚を閉めた。


「自分と重ねるのは結構ですが、大人のあなたと高校生の家出じゃ違うでしょう」


 引っかかる物言いに反論しようとしたが、「ですから」と秀二さんは続けた。


「家出の理由が気になるなら、悩み相談でもなんでもしてさっさと解決してください。『共同生活に関わることは一人で判断しない』、忘れていませんよね? 同居人を増やすかどうかは一人で判断できることじゃないと思うのですが?」


 ルールのことはごもっともで、渋々「了解です」と応えた。



【次回更新は、2019年8月11日(日)予定!】

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