2.未知なる紅茶〈Iced Tea〉②


 四人がけのテーブル席を陣取った少女の前に、秀二さんは黙ってグラスを置いた。


「麦茶?」


 無邪気に首を傾けた少女に、秀二さんは銀縁メガネの奥に精いっぱいの愛想笑いをはりつける。


「アイスティーです」

「ガムシロップある?」

「必要であれば出しますが、まずはひと口、そのままでどうぞ」


 ふーん、と答えて少女はグラスに挿したストローに口をつけた。たちまちその顔が明るくなる。


「ちゃんと紅茶の味がする!」

「当然です」

「でもでも、コンビニで売ってるアイスティーってなんかもっと違う味するじゃん。これ本物の紅茶なんだね。すごい、紅茶のお店って感じ!」


 すっかりご機嫌な様子の少女から離れ、こちらにやって来た秀二さんは私を店の奥に引っぱって店と居住エリアを区切っているドアを閉めた。

 そのまま二階へと続く階段を上り、半ばまで来たところでようやく足を止める。


「買い物ついでに、なんで家出少女を拾ってくるんですか?」

「だって宿がないって言うし、台風が来てるのに放っておけないじゃないですか」


 この短時間で風はますます強くなり、古民家は悲鳴を上げ始めている。さっさと買い物に行っておいてよかった。

 眉間を揉んだ秀二さんについつい突っ込んだ。


「前から思ってたんですけど、それ、すごくおっさん臭いですよ。手前なのに」

「誰のせいだと思ってるんですか」

「すみません」


 小さくなった私に、秀二さんは諦めたように肩を落とす。


「駅まで送り届けたところで、もう電車も運休が決まったみたいですしね。仕方ありません。今晩はうちで預かるにしても親御さんに連絡を──」

「あのさ!」


 その声に二人揃って階下を見た。いつの間に来たのか、うわさの家出少女がにっこりと笑んでいる。


「親には適当にメールしとくから気にしないで。あとあたしの名前、鹿しまだから。『家出少女』じゃないのでよろしく」


 言うだけ言って店の方へ戻ろうとしてから、少女──芽依は「そうそう」とつけ加え、手に持っていた何かを私に押しつけた。


「駅前のお土産屋さんで買ったからあげる。おいしかったよ」


 個包装のびわゼリーだ。びわはこの辺りの名産で旬は五月から六月だが、ゼリーや菓子類なら一年中買える。

 今度こそ芽依は去っていき、秀二さんは再び眉間に手を当てる。


「珍獣は一匹で十分です……」


 店に立っているときはわからないものの、一歩店の外に出ると意固地なまでにパーソナルスペースを守ろうとするのが秀二さんという人だ。

 『互いの部屋には入らない』というルールはその意味でも理にかなっていて、仕事が終われば食事や風呂以外では秀二さんは自室にこもっていることが多い。

 そんな秀二さんがどうして接客業をやろうと思ったのかと、私がここで暮らすことを許可したのかというのはいまだに謎だ。


「ひと晩だけですし」


 私の慰めに、「わかってます」と秀二さんはため息交じりに応えた。


「この台風の中、放り出すほど私も鬼ではありません」


 階段を降りる秀二さんについていく。

 一階の店舗側のドアに手をかけ、秀二さんは忠告するようにひと言だけ言った。


「なので、

「うまくって?」


 決まってるじゃないですか、と秀二さんは目を細める。


「ちゃんとルールを守ってくださいという意味です」


 店の片づけを終わらせて夕食を済ませ、私の部屋に案内して早々、芽依は素っ頓狂な声を上げた。


「え、寝室別なの? 夫婦生活ってそれで成り立つの?」


 秀二さんが言っていた「うまくやってください」はこのことだったのかと遅れて理解した。

 この古民家には、一階に店舗とバス・トイレがあり、二階に居住スペースがある。二階にはリビング・ダイニング含め四部屋あり、そのうちの一部屋ずつを私と秀二さんがそれぞれの個室として使っている。

『互いの部屋には入らない』というルールを説明するわけにもいかないし。


「実は……ああ見えて、秀二さんっていびきと歯ぎしりがすごいの! それで寝られないから泣く泣く」

「へぇ。じゃあ家庭内別居なんだ。あやめちゃん若いのに大変だねー」


 出会ったときの物憂げな様子はどこへやら、芽依は私の名前をちゃんづけで呼び、よくしゃべってよく笑い、そしてシャワーを浴びると疲れていたのかすぐに眠ってしまった。

 芽依は高校三年生だそうで、三歳しか違わないことに驚いた。三年前、高校生の頃の私は他人からどう見えていたんだろう、などとつい考える。

 私もシャワーを浴びて寝間着のジャージとTシャツに着替えたが、台風で家は軋むしうるさいし、時計を見るとまだ日付も変わっておらず眠るには少し早い。

 そっと部屋を出て廊下を進むと、橙色の吊り照明がぼんやりとリビングを浮かび上がらせていた。この時間は自室にいることの多い秀二さんが、珍しく二人がけのソファに座って本を読んでいる。

 秀二さんがここで寛いでいる姿を見るのは初めてかも。

 風呂から出たばかりらしく、耳を半分覆う黒髪は半乾きで束になっており、ラフなTシャツ姿だ。もしかしたら台風で落ち着かないのではと思い当たる。

 見慣れない姿に声をかけるのをわずかにためらったものの、そういえばこちらも寝間着にスッピンであることを思い出し、まぁいっかという気になって声をかけた。


「髪、ちゃんと乾かさないと傷みますよ」


 クールな目がこちらを向いた。

 顔がよければラフな格好でもなんでも様になるのだと思い知らされ、たちまち安易にスッピンをさらした自分を呪いたくなる。

 が、秀二さんは私の見てくれなどには興味がないらしい、「ドライヤーは苦手なんです」とだけ返してきた。ドライヤーを壊したこともあるんだろうか。


「それなら──」


 乾かしてあげましょうか? と喉元まで出かかった言葉を吞み込んだ。


「『それなら』なんです?」

「なんでもないです」


 美容師だし人の髪に触れるのは日常だったけど、普通はそうじゃない。気をつけないと、ついつい距離感を間違えそうになってしまう。

 他人と暮らすのは難しい。

 強風で家はひっきりなしに揺れていて、雨粒が雨戸を叩く音が響く。ローテーブルを挟んで秀二さんの向かい、キルト生地のカーペットの上に私は直接腰を下ろしてテレビをつけ、台風情報をチェックして消した。


「台風、関東に上陸はしなかったみたいですね。朝には暴風域から抜けるみたいです」


 本に集中していたのか、一拍遅れて顔を上げた秀二さんは「そうですか」と応えた。読んでいる本はミステリー小説のようで、表紙に「事件」の文字がある。

 秀二さんは本に目を戻すのかと思いきや、そのままじっとこちらを見ていた。


「なんですか?」

「話でもあるのかと思いまして」


 この人は変なところで察しがいい。

 私はその場で正座をして秀二さんにたいした。


「『共同生活に関わることは一人で判断しない』ってルールがあったのに、勝手に人を連れてきちゃって、申し訳なかったかなって」

「家出少女のことは、台風だし仕方ないです」

「ならいいですけど……なんか放っておけない感じがしちゃって」


 芽依はただ海を見ていただけなのに、それがあんなにも気になるとは思わなかった。

 とはいえ、自分でも理由はわかっている。

 初めて秀二さんに話しかけられたのも、あの少女と同じように海を見ていたときだったからだ。

 ──自殺でもするんですか?

 いきなりそんなことを訊いてくるのはどうかと思ったけど、訊きたくなる気持ちもわからないでもない。


「あの制服、おそらく埼玉の高校のものだと思います」


 秀二さんの言葉に、「制服に詳しいんですか?」と目を丸くした。


「誤解を招くような言い方はやめてください。校章から学校名がわかったんでネットで調べただけです」


 芽依が埼玉から来たのだとしたら、東京を通過してきたことになる。


「なんでこんなところまで来ちゃったんですかね。ここから先には進めないのに」


 房総半島の南端。

 温暖な気候に恵まれたこの場所は、つまるところ行き止まりなのだ。留まるか、そのままぐるっと房総半島を回って引き返すかの二択。


「明日には電車も動くでしょうし、駅まで車で送ります」

「ありがとうございます」


 大きな音がしてまた揺れた、直後。

 ぷつっと音がしてリビングが闇に沈んだ。停電だ。


「……乾電池、買っておいてよかったですね」


 とはいえ、部屋は雨戸をきっちり閉めているのであまりに暗く、懐中電灯をしまってある棚まで辿り着くのが難儀そうだ。

 ゆっくり立ち上がって手探りで前に進もうとすると、頭から温かな何かに突っ込んで転びかけた。風呂上がりの石けんの香りがしてドキッとする。


「秀二さん?」

「動かないでください!」


 と、緊迫感のある声が降ってきてビクついた。


「……何かあったんですか?」

「立ち上がった拍子にメガネが落ちました」

「メガネ……え、何やってんですか」

「だから動かないでくださいと言ってるでしょう! 踏んだらどうするんです!」

「そんなこと言ったって、懐中電灯取りに行かないと──」


 進もうとする私を秀二さんが阻み、それを避けようとしてまた阻まれ、腕を摑んで摑まれしまいには二人してカーペットに足を取られた。

 私は音を立てて仰向けに倒れ、それから間もなくして天井の蛍光灯が瞬いた。打ちつけた腰をさすりつつ上半身を起こす。


「もう、何するんですか──」


 文句を言おうと隣を見てギョッとした。すぐ隣で秀二さんがうつ伏せに倒れていてピクリともしない。


「あの……え、大丈夫ですか!?」


 血の気が引いてその身体を揺さぶると、秀二さんが額を押さえつつ起き上がったのでひとまずホッとする。

 メガネを外したその顔は思っていたよりも目元がはっきりしていてまつ毛が長く、いつものクールさが影を潜め予想外に甘さのある面立ちだった。

 これでにっこり微笑ほほえむようなら完璧なのに。

 ついまじまじと観察してしまい、我に返って身じろぎした私の膝が何かを押し潰し、パキッと小さな音がした。


「あ」


 思わず声を漏らした私の視線の先にあるものを見て、秀二さんが悲鳴を上げる。

 台風が去るにはまだ時間がかかりそうだ。


【次回更新は、2019年8月9日(金)予定!】

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