2.未知なる紅茶〈Iced Tea〉

2.未知なる紅茶〈Iced Tea〉①


 木の板とかなづちを左右の手それぞれに持った秀二さんを前に、言わずにはいられなかった。


「台風より秀二さんの身の方が心配です」

「言いたいことがあるならはっきり言ったらどうです?」

「金槌で指とか打ちつけちゃいそうですよね」


 八月も目前、七月の末。

 学生が夏休みに入ると海水浴場は家族連れでにぎわい、周囲の宿泊施設も空室を見つける方が難しい客の入りとなった。

 そんな房総半島の南西、ほとんど端っこと言ってもいい海のそばに、この紅茶専門店ティールーム《渚》はある。

 リフォームした古民家を使った昭和レトロな趣、というと聞こえはいいが、その趣と引き換えに何かと気を遣うこともまた多い。

 今日も接近する台風に備え、昼過ぎには店じまいしたところだった。今年の台風としては初めて本州に上陸する予報で、ここ館山も暴風域に含まれている。今晩遅くから明日の早朝にかけて台風が通過する予報なので、築数十年のこの古民家でも台風対策をすることになったのだけれども。


「やっぱり私がやりますよ」

「結構です」


 雨戸に打ちつけるための木の板を、秀二さんは私から遠ざける。


「日曜大工は不慣れだと言ったのはあなたでしょう」

「だって、スチールラックの組み立てすらできない秀二さんが大工仕事なんて不安しかないじゃないですか」


 秀二さんが買ったばかりのスチールラックを壊しかけたのは、ほんの数日前のこと。説明書があるから大丈夫だと言って聞かなかったので任せたら、なぜか天板がゆがみかけていて危機一髪だった。

 おかげでこの人が壊すのは家電だけではないということが判明した。


「そういうあなたはなんだって適当じゃないですか。資材棚の中はぐちゃぐちゃだし、風呂もあなたのあとだと入浴剤を目分量で入れるからお湯の色がいつも違います」

「そんなの適当でいいじゃないですか! 資材棚はものをしまえて取り出せれば十分だし、入浴剤なんてちょっとくらい使いすぎても死にませんよ!」

「適当でガサツな人に任せて雨戸が吹っ飛んだら目も当てられないってことを言いたいんです」


 不器用、ガサツ、という不毛な言い合いをくり返し、最後はいつものようにジャンケンで決着をつけた。


「停電したら困るので、懐中電灯が使えるか確認しておいてください」


 グーの手で負けた。

 悔しがる私にここぞとばかりに指示を出し、秀二さんは意気揚々と板を運んでく。懐中電灯のついでに救急箱の確認もしようと決めて家の中に戻った。

 救急箱には消毒液をはじめ、塗り薬、湿布薬までひととおり揃っていたが、肝心の懐中電灯には乾電池が入っていなかった。箱に入ったままなので、秀二さんが買ってそのままにしていたんだろう。

 食費や共同で使う備品の購入その他もろもろに使うお金を入れた、通称〝共同財布〟をトートバッグに入れ、私は店の外に出て買って間もない自転車に跨がった。雨戸の方を覗くと、秀二さんが板を打ちつける場所を念入りに確認しているところだ。


「乾電池、なかったんで買ってきます」


 そう声をかけると、秀二さんはこちらを見てから天を仰いだ。青空は見えず、すでに厚い雲が広がっている。


「そろそろ雨が降り始めるんじゃないですか?」

「まだ大丈夫ですよ。パーッと行ってパーッと帰ってきます。れたら濡れたでいいし」

「それで風邪でも引いたら──」

「風邪は滅多に引かないんで平気です!」


 秀二さんのお小言は流してペダルをいだ。

 ここで暮らし始めて一週間とちょっと。

 慣れないことや嚙み合わないこともなくはないけど、それなりにうまくやれている気がする。ちょっと変わったルールと、不器用で小言の多い同居人のいるシェアハウスみたいなものだ。

 一番近くのコンビニまでは自転車で約十分。数日前、自転車を買ったのはいい決断だった。おかげで自分で買い物に行けるようになったし、行動範囲もぐんと広がった。

 コンビニに到着し、目当ての乾電池とついでにチョコレートを買ってそそくさと帰路に就く。

 常に潮風の吹く海際の町ではあるが、いつにも増して湿度が高く、雨雲が近づいているのを肌で感じる。

 そうして房総フラワーラインを南下し、《渚》まであと少しというところだった。

 その少女は曇天を背負い、人のいない海水浴場を眺めていた。


「何してるの?」


 ふいに吹いた強風に私の声は消え、少女のセーラー服の襟がなびいた。

 灰色の雲は上空の風の強さを物語るように流れ、いつもは穏やかな海も波が高い。台風の接近に伴い、市内の海水浴場は朝から遊泳禁止になっている。

 高校生らしき少女は風で乱れるボブヘアを片手で押さえ、びつきかけたガードレールにもたれて少し声をはり気味に答えた。


「海、見てた」


 セーラー服の襟は紺で白いラインが三本入っており、胸元のリボンも襟と同じ色、この辺りでは見かけない制服だ。私立の女子校っぽいせいなデザインだが、それとは対照的に少女の髪色は明るい。


「……海見てると、時間忘れるよね」


 自転車に跨がったまま答えた私に、少女のぱっちりした大きな目に笑みが浮かんだ。


「お姉さん、この辺に住んでるの?」

「そう。すぐ近くのお店で働いてる。あなたは? 旅行中?」


 などと訊いてから、夏休み中に修学旅行など考えられないし、制服でこんなところに観光に来ないかと自分に突っ込んだ。

 けど少女は私を笑ったりせず、足元に置いていた、清楚な制服とはあまりに不釣り合いなスポーティーなデザインのトートバッグに手を伸ばす。


「そう、旅行中」

「……それなら、早く宿に帰った方がいいね」


 直後、風にあおられて自転車が傾いたもののなんとか踏んばった。都会に住んでいたときは、台風がこんなに備えなきゃいけないものだなんて思ってもみなかった。これでケガなんてして帰ろうものなら、ほれみたことかと秀二さんに笑われるに違いない。

 もうすぐ雨も降りだしそうで、なんだか急に店のことが心配になってくる。いくらリフォームしたとはいえ、あのおんぼろ古民家は台風に耐えられるのだろうか。

 秀二さんは雨戸の補強、終わったかな。


「……ない」


 ぼうっとしていて、少女の言葉を聞きそびれた。「え?」と訊き返した私に少女はリップグロスでつやめく唇を尖らせ、焦れたようにくり返す。


「宿、ないの」


 雨粒が頰に落ちてきた。



【次回更新は、2019年8月7日(水)予定!】

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