3.紅茶のブルゴーニュ酒〈祁門紅茶〉⑧


    ◇◆◇


 原井さんが店を訪れた日の翌朝、私は朝食の席で秀二さんに謝った。


「昨日はすみませんでした」


 一緒に暮らすようになって数え切れないくらい喧嘩や口論をしてきたけど、今回はなぜかいつも以上にこたえた。

 昨日はあのあとほとんど会話らしい会話もできないまま夜になり、部屋で一人になったら耐えられなくなって謝ることに決めた。


「謝ってほしいわけじゃありません」


 なのに、秀二さんの態度は軟化しない。


「学習してもらいたいだけです」

「わ、わかってます! だから私も悪かったなって──」

「では、もう原井さんが来ても立ち入った話はしませんね?」

「……努力します」

「努力目標を聞きたいわけじゃありません」


 秀二さんは蒸らしていた紅茶のポットに手を伸ばし、マグカップに中身を注ぐ。


「もう少し大人になっていただけませんか?」


 耳に痛いひと言だった。



 夕刻が近づいてくると《渚》を訪れる客は少なくなり、店内は掃除のしすぎでチリ一つなくなった。秀二さんはまた何かの本を読んでいるし、資材の確認や補充も終わった私もスマホをいじっていると。


「──帰りたかったら帰ってもいいんですよ」


 本から目を上げもせず、カウンターの向こうからそんな言葉をかけられて固まった。


「どういう意味ですか?」

「どういうも何も、そのままの意味ですよ。どうせ店は暇ですし、ご友人からの連絡も多いようですし、」

「別に多くないです。友だちなんてほとんどいないし」

「そうですか」


 本から顔を上げもせずに会話を終わらせようとする秀二さんに無性に腹が立ち、一歩カウンターに近づいた。


「『共同生活に関わることは一人で判断しない』ってルールですよね? 帰りたいから帰ります、なんてあっさり言いませんよ」


 秀二さんは本から顔を上げ、カウンターのそばで動かない私をようやく見る。


「店にいてもこんな調子なら、どこかに帰りたくもなるんじゃないかという親切心だったのですが?」


 謝ったくらいじゃ何も解決しないのを痛感した。漂う空気はあまりにとげとげしい。


「……喧嘩売ってます?」

「そんなものを売るほど暇じゃありません──と思いましたが、確かに売りたくなるくらい暇ではありますね」


 秀二さんは小さく笑ったけど、まったく面白くない。

 スマホをパンツのポケットに突っ込み、着ていたエプロンを脱いだ。


「喧嘩を売れるくらい暇みたいなんで、買い出しに行ってきてもいいですか? 洗剤とキッチンペーパーが残り少なかったので」

「お好きにどうぞ」


 店の奥に引っ込み、二階の自室からジャケットを取ってきて外に出た。自転車に跨がり、ふつふつとわき上がる怒りを発散させるようにペダルを踏み込む。

 ……あんな言い方しなくてもいいのに。

 ここ最近、漠然とした不安ばかりが膨らんで、感情も行動も制御できなくなってる気がする。


 ──帰りたかったら帰ってもいいんですよ。


 脳裏に蘇った台詞に、自転車を道の端で停めてハンドルに突っ伏した。

 さすがにグサリときた。

 行く当てがないことくらい、秀二さんだって知ってるはずじゃないか。

 けど、私が秀二さんの事情を知らないのと同じように、秀二さんも私のことなんてほとんど知らないに等しい。

 文句を言える筋合いじゃないし、おもんぱかれと言っても無理なのはわかってる。なのに気持ちは勝手に沈んでく。

 忌々しい気持ちでスマホを操作し、ふと思い立って乗換案内を調べた。館山駅から東京駅までは三時間もかからない。

 わかってはいたけど東京は近く、ここは世界の果てでもなんでもない。


 再び自転車を漕ぎだすも、足が重くてスピードが上がらなかった。もう閉店まで数時間もないし、買い物は諦めてどこかで時間を潰そうかという考えがぎり始めていた頃、前方からこちらに歩いてくる見覚えのある姿に気がつく。


「《渚》の奥さん、」


【次回更新は、2019年9月15日(日)予定!】

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