3.紅茶のブルゴーニュ酒〈祁門紅茶〉⑨


 にこやかな表情で手をふったのは原井さんで、私は慌ててブレーキをかけた。

 精いっぱい取り繕って、「こんにちは」と明るく挨拶する。


「こんにちは。もしかして、今日はお店、お休みですか?」

「いえその……暇だったので、買い出しに」

「じゃあ、マスターはお店にいらっしゃるんですね」


 邪気のなさすぎる笑みを向けられ、なんだか急にいたたまれなくなった私は自転車から降りて頭を下げた。


「すみませんでした」

「え?」

「色々、立ち入ったことを無神経に訊いてしまった気がして」


 認めざるをえない。絶対的に秀二さんが正しい。

 興味本位ってつもりはなかったけど、私は確かに必要以上に原井さんのことを知りたがってた。

 単純に原井さんの力になれたらって気持ちもあったけど、多分それ以上に、一人でここまで来た原井さんのことが知りたかったんだと思う。


「もしかして、マスターに怒られました?」


 どこか愉快そうに訊いてくる原井さんに曖昧に頷いた。


「それもあるし……自分でも、無神経だったかもって思えてきて」

「でも、俺は話し相手になってくれて嬉しかったですよ」


 ぐちゃぐちゃしていた気持ちに優しい原井さんの言葉は沁みた。

「ありがとうございます」って返した言葉が震えかけ、込み上げたものを吞んで顔を上げる。


「私の話、してもいいですか?」


「もちろん」と原井さんは頷いてくれる。


「私、学生時代はずっと独り立ちしたかったんです。家を出て、自分でお金を稼いで、一人で生きていけるようになりたかったっていうか」

「独立心が強かったんですね」

「自分でもそう思ってたんです。だけど、実際は逆だったんだって最近になってわかりました」


 一人でもやっていけると思えるようになりたかった。

 裏を返せばそれは、一人ではやっていけないと自覚しているに等しい。


「今は……一応、一人じゃないですけど。ふとした瞬間に怖くなるんです。また一人になったらどうしようって。だから──」


 一人になってここに来たという原井さんのことを知りたかった。

 あまりに無神経で自分勝手なその言葉は口にしなかったけど、原井さんには何かが伝わったのかもしれない。


「一人になるのが怖いってことは、それだけ今の環境が手放し難いってことですよね」


 頷いた。

 だから、もっと私にもできる何かがあるんじゃないかって気持ちが大きくなった。

 何かしないと、この場所を失わないためにできることをしないとって焦燥感が、日増しに強くなっていった。


「マスターのこと、大事に思ってるんですね」


 思いもかけない言葉をかけられ目を瞬く。


「私が、ですか?」

「ほかに誰がいるんですか」


 原井さんに笑われ、じわりと頰が熱くなる。

 確かに夫婦設定だし、間違ってはない、けど……。


「大事だから失いたくないっていうの、当たり前ですよ。怖くて当然だし、それでいいんですよ。なくしたときに後悔しないように、できる範囲で大切にするしかない」


 口調だけは明るい原井さんの言葉は重くて、その重さの分だけ響いた。

 ……所詮は他人だし、同居人でしかないけど。

 少なくとも私にとっては、秀二さんはそれ以上の存在になっている。なら、私なりにできることをするしかない。


「もしかして、夫婦喧嘩でもしたんですか?」


 顔を覗き込まれて「そんな感じです」と肩をすくめた。


「マスターがあれこれ言うのも、きっと奥さんのことが大事だからですよ」

「それはなんというか、聞きわけのない子どもみたいに思われてるからだと思うんですけど……でも、ちょっと元気出ました。ありがとうございます」

「ならよかったです」


 原井さんの笑みに、美沙さんから聞いた話が思い起こされる。

 穴川さんのこと。

 余計なことは訊かない方がいいんだろうか。

 でも、だけど──

 そう考え込んでいたときだった。

 突然、強い力で横から突き飛ばされた。

 声を上げる間もなく視界が回り、手を添えていた自転車ごと車道のすみに倒れ込む。

 倒れた自転車が音を立て、身体が滑ってアスファルトの地面に手の甲をこすり、熱にも似た痛みを感じた直後、空気が揺れる大きな音がした。


【次回更新は、2019年9月18日(水)予定!】

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