3.紅茶のブルゴーニュ酒〈祁門紅茶〉⑩

 ──そのあとのことは、あまりに目まぐるしくて記憶が判然としない。


 周囲と自分の混乱に、気持ちも理解も追いつかないまま色んなことが進んでいった。目の前の景色も人もかけられた言葉も、すべてが半透明の膜の向こうにあるようで頭に入らず流れてく。

 そんな風にして、どれくらい時間が経ったかもわからずにいたときだった。


「──あやめさん!」


 名前を呼ぶ声が耳に飛び込んできて、深い霧の中でふいに視界が開けたように急に現実が輪郭を取り戻した。

 見慣れた人影が──秀二さんがほとんど駆けるようにこちらにやって来る。

 仮にも病院であんな風に声を出すなんてらしくない、なんて考えてから、そうだここは病院なのだと再認識した。

 秀二さんは待合スペースの長椅子に座る私の前で足を止めた。

 その顔からは心なしか血の気が引いており、走ったせいか髪は乱れてメガネもズレている。


「車が、突っ込んだと聞いたんですが……」


 上がった息もそのままに、秀二さんは私をまじまじと見下ろし、そして目線を合わせるようにしゃがんで手を取った。


「大丈夫なんですか?」


 訊かれるも、いまいち反応できなくて秀二さんを見返すことしかできない。


「どこか痛みでもありますか?」


 焦れたように畳みかけられ、握られている手に視線を落として気がついた。

 ……温かい。

 思考停止していたせいか、自分が心細く思っていたことすら認識できていなかったらしい。安堵で胸がいっぱいになるやいなや、視界が歪んであふれた涙が止まらなくなった。


「痛くないです……かすり傷だけで……」

「そう……ですか」


 秀二さんは気が抜けたのか大きく息を吐き出すと、私にハンカチを握らせてその手を私の頭に乗せた。


「救急車で運ばれたというし、現場には歪んだ自転車が残っているしで、どんなケガかと……」


 目を上げて気がついた。

 秀二さんの腰には、店にいたときのままエプロンが巻かれている。


「お店、大丈夫なんですか?」

「店どころじゃないでしょう、何言ってるんですか」


 頭に乗せられた手で髪をくしゃっとやられ、結んでいた髪がいつの間にか解けていたことに驚いた。

 ゴムはどこに行っちゃったんだろう。

 秀二さんは立ち上がると私の隣に腰かけた。そしてようやくエプロンに気づいたらしい、決まり悪そうな顔で外して畳む。


「心配、してくれたんですか?」


 そっとその横顔に問いかけると即答された。


「心配くらいするでしょう」


 あまりにきっぱりと言われて息を吞む。


「あなたは人をなんだと思ってるんです?」


 不機嫌にも思えるような口調だけど、でもその声は耳に優しく届いた。


「……ありがとうございます」


 また涙があふれてきてハンカチを当てると、幼い子どもにするように頭を撫でられ、目元だけでなく顔や耳まで熱くなってしまう。

 なんだかんだで優しい秀二さんのこと、私にこんな風にするのだって世話の焼ける子どもの面倒を見ているようなものなんだろうけど。

 ……もうそれでいいのかもしれない。

 心配して駆けつけてくれて、こうやって隣にいてくれるなら、もうそれだけでいい。


 ここに──この人の隣にいさせてくれるなら。


 ハンカチで目元を拭い、ようやく落ち着いてきて隣を見た。


「なんか、すみません。大したケガでもないのに……」

「事故のことがショックだったんでしょう」


 その言葉に、あのときのことを思い出して改めてゾッとする。

 ハンドル操作を誤った車が、立ち話をしていた私と原井さんの元に突っ込んだのだ。

 私と一緒に倒れた自転車が跳ねてひしゃげ、次いでものすごい音がして心臓が止まるかと思った。


「治療はすべて済んだのですか?」


 気遣うように訊かれてハッとし、ばんそうこうとガーゼの貼られた手の甲と腕を見せる。


「これくらいのケガですし、あとはお会計だけです。警察の方とも話して、また後日連絡をくれるって。それで──」


 奥の診察室から出てきた原井さんに気づいて私は言葉を切った。一方、秀二さんは目を丸くする。


「原井さんが助けてくれたんです」


 秀二さんに事故のときのことを説明した。

 車が突っ込んでくる直前、咄嗟に原井さんが私を自転車ごと突き飛ばしてくれ、おかげで私は掠り傷程度のケガで済んだのだった。

 原井さんは額と袖まくりした腕にガーゼの絆創膏を貼られており、左足をかばい気味にしてゆっくりとこちらに歩いてくる。

 秀二さんは立ち上がって原井さんを迎えた。

 私がケガの具合を訊くと、原井さんはすっかり見慣れたはにかむような笑みを浮かべる。


「包帯が大げさなんですが、頭も腕も掠り傷で大したことないです。足も骨には異常なくて、捻挫だろうって」

「ありがとうございました」


 秀二さんが深々と頭を下げると、原井さんは笑みを浮かべたまま秀二さんの肩を叩く。


「奥さんが大きなケガをしなくてよかったです」

「本当になんとお礼を言ってよいのか……」

「またおいしい紅茶、ごちそうしてください」


 そのときだった。ポン、と会計待ちの患者を呼び出す電子音がフロアに響く。


『お会計でお待ちの行木さん、行木あやめさん、五番のカウンターまでお越しください……』

「あ、私、呼ばれたみたいです」


 そう立ち上がった私に、原井さんは目をパチクリとさせる。


「行木?」


『本当の夫婦でないことは他言しない』

 そんなルールを思い出したときには遅かった。



【次回更新は、2019年9月20日(金)予定!】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る