1. WELL COME TO WONDERLAND(9)

 前園さんは一万円札を受け取り胸ポケットにねじ込むと、「来い」と私を倉庫に促した。

 そして奥まで進み、机にもたれかかって訊いてくる。


「心意気だけは買ってやる。――で? どんな服、見繕ってほしいんだ?」

「どんな、と言われても……そういうのから全部わからないんですけど」


 あーっと前園さんはイラついたように自分の黒髪に手を入れた。


「なんかねーのかよ。普段着とか、おでかけ用とか、デート用とかさ」


 先週末、佐々と居酒屋に行ったときのことを思い出す。


「居酒屋に着てける服」

「居酒屋? 誰と行くんだよ。男か、女か?」

「一応、男」


 すぐさま「あんたみたいなモノクロ女に彼氏なんていんのかよ」と前園さんに鼻で笑われ、「男友だちです」とむくれて返す。


「それも、私のこと、男みたいなもんだとしか思ってない男友だち」


 すると、前園さんはたちまち納得したような顔になった。


「あんた、そいつに好かれたくて男みたいな格好にこだわってたわけ?」

「わ、私のそんな話どうでもいいじゃないですか!」

「見繕えっつったのはあんただろ」


 そういえばそうだった。

 前園さんは嘆息して「わかった」と身体を起こすと書類棚に向かい、何かのファイルをこちらに寄越してきた。


「とりあえずそれでも読んで待ってろ」

「なんですか、これ」

「うちの顧客の声。どんなお客さんがいるか知りたいっつっただろ」


 顧客名簿かと思ったそれは、顧客からの問い合わせやメッセージのプリントアウトだった。

 ざっと見たところ、二十代から三十代の女性が中心のようだ。


『ここのお洋服を着ると、いつもとちょっと違う自分になった感じがします』

『アリスさんの絵のファンで、ここのお洋服もとても気に入ってます! これからもがんばってください!』


「アリスさんって誰ですか?」


 棚の向こうにいる前園さんに声をかけると、「うちのデザイナー」と返ってきた。たまに気配は感じるものの、いまだにその顔を見られていない私の隣人か。

 メッセージを続けて読んでいく。


『EVERYDAY WONDERLANDさんのお洋服大好きです☆』

『着るのがもったいなさすぎて、大事なイベントのときにだけ着てます!』

『不思議な国のお洋服って感じがいいです』


 前園さんが言っていた「うちの客が求めてるのは〝非日常感〟なんだよ」という言葉がなんとなく腑に落ちた。

 特別な一着を身に纏ったら、特別な自分になれるかもしれない――そんな期待をして、お客さんたちはお金を払ってここの服を買うのだ。

 服を変えただけで何かが変わるんだったら苦労はない。

 けど、ここのお客さんたちは、そういうものを期待する。そうなりたいと願って手を伸ばす。

 それを、どうして笑うことができるだろう。

 だって私は、これまで手を伸ばすことすらしてこなかった。

 前園さんは、切り返しのないストンとしたラインのワンピースと、ボタンのついた丈の長い黒の地の花柄のブラウスを手に戻ってきた。


「それ、何色ですか?」


 ワンピースを指差した私に、前園さんは「グレージュ」と答えた。


「グレーとベージュを混ぜた色だな」


 そんな色があるんだ、と素直に感心する。落ち着いた、大人っぽい色。


「一つ訊くが、あんた、ストッキングとかソックスとか、ワンピースに合わせられるようなもの持ってんのか?」

「あ、ミキさんがくれた黒いタイツならあります」

「黒か……まぁいいか。じゃあそのタイツ穿いてこれに着替えてみろ」

「このブラウス、どうやって着るんですか?」


 丈が長いとは思ったが、広げてみるとワンピースと同じくらいの丈がある。


「それは羽織るんだ。それだけで雰囲気が違って見える。せっかくこれだけ背があるなら、スタイルよく見せた方がいいだろ」

「スタイルよく、ですか」

「あんたなら、ミキみたいなかわいい系じゃなくて、カッコよさを出した方がいいと思う」


 黒のロングブラウスは、小さな白の花柄だった。花弁のほかに、ふわりとした羽根も描かれている。そして、グレージュのロングワンピースの裾にも、控えめではあるが似たようなプリントがなされていた。


「花柄なんて私には――」

「花柄なめんなよ。カッコよさを出すっつったが、それは男っぽいってわけじゃない。あんたが男っぽさを大事にしてるっつーんなら別だが?」

「そういうわけじゃ、ないです」


 それしかしようがなかったってだけだ。


「別にあんたがどんな恋愛しようが俺には関係ないが。人に呪縛みたいな言葉を投げつけるような奴はろくなもんじゃないぞ」


 呪縛とはまた、うまいことを言う。自分の軸を定められない私が、ことあるごとについすがってしまった呪縛。

 すがったところで、なんにもならないのに。

 手の中の花柄を見つめる。

 こういうかわいらしい柄だって、似合わないと言われ続けていたから避けていただけ。積極的に嫌いだったわけじゃない。

 一応生物学的には女だし、ミキさんのときみたいにこの人の前で着替えるわけにはいかない。部屋で着替えてくると断ると、前園さんは「着替えたらラウンジに来い」と言ってきた。


「あそこなら姿見があるから自分で見てみろ」


 去っていく前園さんに礼を言い、私もあとを追うように倉庫から出た。

 そうして自室で着替え、タイツの足で滑らないように慎重に階段を下りた。そういえば、スリッパをまだ買ってなかったなと思い出しつつ、ラウンジへ向かう。

 前園さんはパソコンでメールか何かを見ていて、でもすぐにこちらに気がついた。ほれ、と顎で示され、姿見の前に立つ。

 ミキさんがくれたワンピースはかわいらしさが際立っていて、鏡の中の自分が知らない人のように思えた。けど、今鏡に映っているのは私にほかならず、それでいてちょっとクールで洗練された雰囲気の大人の女性にも見える。


「悪くない、気がします」

「悪くないって、俺が選んでやったのにその評価かよ」

「いやあの、すごくいいです! なんというかその、こういう自分もアリだな、みたいな……」


 うまい言葉が出てこず唸っていたら、前園さんが吹き出した。いつも不機嫌そうなむっつりした顔が、思いもかけず緩んでる。

 この人が普通に笑うの、初めて見た。

 なぜか抑えようもなく頬が熱くなり、「ありがとうございました」と小さく礼を言ってから思い出す。


「あの、私も商品購入したってことは、メッセージカードもらえるんですか?」


 前園さんが、発送する商品一つ一つにつけていた名刺サイズのカード。あれもきっと、特別な一着を演出するためのちょっとした心遣いなんだろうと今ならわかる。


「なんであんたにやらなきゃなんねーんだよ。一応スタッフ側だろうが」

「でも、どんなメッセージもらえるのか気になります」

「んなもん、自分で考えろ」


 気の利いた言葉なんてすぐに浮かばない。ましてや自分に向けたものだし。

 たっぷり数十秒悩んでから答えた。


「『自分で決めよう、自分のこと。カッコいい自分ならできるはず』」

「標語かよ」


 それから、私はスマホでメッセを送った。

『今晩飲めない?』と送ると、まだ勤務時間中だと思うのに佐々からはすぐに『いつもの店か?』と返信があった。


「そのカッコ、お披露目してくるわけ?」

「まぁ……」


 前園さんはじとっと私の顔を見ると、ちょっと待ってろ、とラウンジを出て少ししてから戻ってきた。

 そして私の正面に立つなり、睨むような目のまま顔を近づけてくる。


「あの、なんでしょう……」


 距離の近さにたじろいだ。


「あんた、化粧とかまったくしてないのか?」

「してませんが何か?」


 そんなもの持ってもいないし、やり方もわからない。


「すみませんね、顔が服に負けてて――」


 ふいに左手で顎を掴まれ、言葉を切って固まった。メガネの奥、前園さんの目蓋に生え揃った睫毛まではっきりと見える至近距離。


「そのまま黙って口開けてろ」


 吐息のかかりそうな近さに思わずきつく目をつむり、もしやこれはデコピンの流れでは、と身がまえた瞬間。

 前園さんの右手の指が、私の唇の上を往復して何かを塗りつけた。


「……ま、何もしないよりマシだろ」


 前園さんがようやく離れ、固まったまま私は姿見に目をやった。

 唇が仄かにピンク色に色づいていて、いつもよりずっと顔色がよく見える。

 と、そこで前園さんが小さな丸いケース、赤いリップグロスを持っているのに気がついた。


「それ、どうしたんですか?」


 ハッとした。こんな暴君だけど、実はかわいいアパレルブランドの代表だし。


「まさか女装が趣味とか……」

「誰かと一緒にすんな。ミキの部屋から失敬してきただけだ」

「ちょっ、大家だからって留守の住人の部屋に入って失敬しちゃダメですよ!」

「安心しろ、ここでは俺が正義でルールだ」


 安心材料の何一つない返答だ。あとでミキさんに謝っておこう。

 鏡の中の自分をもう一度だけチラ見したら、鏡越しに前園さんと目が合った。してやったりと言わんばかりの顔だけど、不思議と今は腹が立たなかった。



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発売まであと6日!

発売カウントダウン記念で、1週間毎日更新!

次回更新は、2019年10月20日(日)予定!



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