1. WELL COME TO WONDERLAND(2)
「五百……ちょ、え、この花瓶そんなにするんですか!?」
歪んだ土器にしか見えなかったのに!
前園さんはゆっくり立ち上がると、三和土に立っている私を冷たい目で見下ろしてきた。
「今は亡き名職人の遺作だ。五百万でも安いくらいだと思え」
「そ、そんな高価で貴重なものなら玄関なんかに飾らないでくださいよ!」
「ここは俺の物件だ。俺がどこに何を飾ろうが文句を言われる筋合いはない」
そりゃそうだ。
そして、ここは花瓶を割ってしまった私が全面的に悪いのもまた事実。
倒産した会社から退職金がふり込まれるとは思えず、預金残高を思い出す。二百万、もなかった気がする。おまけに収入の当てはなし、一昨日の火事のせいで出費はかさむ一方なのは火を見るよりも明らかだ。
「あの……聞いてると思うんですけど、私今無職で、火事で色々燃えちゃったし、貯金も当面の生活費とここの家賃を払えるくらいしかなくて……。なので時間はかかるかもしれませんが、できたら分割払いでお願いできれば、と……」
両手を合わせて拝むように頭を下げること数秒。前園さんは、「そうだ」と何かを閃いたように手を叩いた。
「なら身体で返せ」
その言葉にぎょっとして顔を上げるとずいと一歩詰め寄られ、本能的な恐怖で一歩あとずさる。
「いやちょっと……私みたいなでかい女なんて需要ないですし! そういういかがわしいのは――」
「何ごちゃごちゃ言ってんだ。うちのブランドで働けっつってんだよ」
「ブ、ブランド?」
動揺している私を放置し、前園さんは廊下を引き返してどこからか箒とチリトリを持ってくると花瓶の破片を廊下のすみに集め、その上にチリトリをかぶせた。
「これはあんたがあとで片づけて処分しろ。――来い、案内してやる」
顎で促され、玄関のガラス戸を閉めた。
「おじゃまします」と一応断り、恐る恐るスニーカーを脱いで廊下に上がる。木目の床は冷たく、靴下の足先がたちまち冷えていく。
「あの、スリッパとか、あったりしませんか? 私、末端冷え性で……」
底の厚い黒いスリッパに靴下の足を通している前園さんは、数歩先で足を止めると舌打ちでもしそうな顔でふり返った。
「そんなの自分で用意しろ。図々しい」
そして実際、舌打ちして再び歩きだす。
「ですよねー……」
名職人の遺作の花瓶を割っちゃったし、私の第一印象が最悪なのかもしれないけど。この人、大家なんて客商売を本当にしているとは思えないくらい横柄だ。というか偉そう。
不安に思いつつも前園さんに一歩遅れて歩きつつ、その後ろ姿をつい観察する。
多分、私より少し背が高い。一七三、四センチくらい?
初対面の人の身長をついつい目測してしまう自分の習性はもう諦めている。そんなことでいちいち自己嫌悪に陥っていたら、一七〇センチという身長を何かと気にしがちな自分とは付き合っていけない。
階段脇の細い廊下を進むと、すぐに突き当たってTの字に左右に分かれた。右手側にはドアが三つ見えたが、前園さんは左に折れる。右手の壁には「御手洗い」というプレートのあるドアと、水色のタイルばりの洗面所と浴室があった。
首を巡らせて覗くと、浴室には五右衛門風呂みたいな小さな木桶の浴槽があるだけで、ほとんどシャワー室と呼んでいい広さだ。冬はむちゃくちゃ寒そう。
「こっちだ」
足を止めている私を急かし、前園さんは突き当たりのドアのノブを回した。
カウンターのあるキッチンがまず目に飛び込んできた。昔ながらの給湯器と換気扇、シンクに二口コンロ。カウンターには電気湯わかし器となぜかピンク色の豚の貯金箱が鎮座している。そしてカウンターのすぐ横には、椅子四脚がある大きめのダイニングテーブル。
「食事はここでも部屋でもかまわない。キッチンを使うのは自由だし、食器や調味料は好きに使っていい。ただし、使った食器はすぐに洗え。あと、冷蔵庫も好きに使っていいが、名前の書いていない食材は俺が勝手に使う。それと忘れるな、俺の食材を勝手に使った奴の命の保証はしない」
物騒な発言はともかく、やはり大家、シェアハウスの案内をしてくれている。
と思っていたら、ダイニングのさらに奥、扉を開けた先に通された。
ダイニングよりやや広く、高めに造られた天井。木の梁が見え、シーリングファンがゆったりと回転し、チェーンでぶら下がったペンダントライトが部屋を明るく照らしている。
けどそれより何より、その部屋を彩る様々な色が、私の視界に圧倒的な情報量を伴って飛び込んできた。
……何、この部屋。
壁際には、ロール状になった花柄の生地、頭と手足がないマネキン――トルソーだったか――がずらりと並んでいた。ほかには大きなミシン、手術台みたいな作業台。そして向かい合って置かれている布ばりのソファの上には何もないが、ローテーブルの上には色見本のカードのようなサイズにカットされた生地が乱雑に広げられている。
なんだろうと思いつつ、わずかに覚えた既視感に記憶の蓋が開く。中学校にあった、被服室みたいな雰囲気だ。
「ここがラウンジだ。もともとは住人の共有スペースのつもりだったが、今は寛ぎたい奴は外のデッキで勝手にやれってことになってる」
前園さんは大きなガラス窓の方を指差しつつそう説明した。外には木製のデッキがあり、一応寛ぐためと思われる白いプラスチックのガーデンチェアが二脚と、揃いのテーブルがぽつんと置いてある。
「じゃああの、ラウンジは今は何に使われているんでしょうか……?」
「見りゃわかるだろ。ブランドの作業場だ」
そういえば、ブランドで働けって言われたんだった。
「あの、ブランドってなんですか? バッグとか?」
「あんたの目はなんのためについてるんだ? ここのどこにバッグがある?」
前園さんはつかつかとラウンジの中に進んでいき、トルソーの肩に手を置いた。空色の、ノースリーブの女性もののワンピース。よく見ると、生地には細かなトランプ柄がプリントされている。
「じゃあ、私に働けっていうのは……」
「うちはこういった服を作るアパレルブランドだ。俺はここの代表をしてる」
まじまじと、ワンピースと前園さんを見比べてから訊いた。
「もしかして、無職になった私に再就職の案内してくれてるんですか?」
「うちみたいなインディーズブランドに、人を雇える余裕なんてあるわけないだろ。借金のカタに使ってやるっつってるだけだ」
「インディーズ?」
「要は自主制作ブランドだ。今はまだどこにも卸してないから、自社販売サイトのみで売ってる」
「はぁ……」
趣味で作ったハンドメイドアクセサリーを、フリマアプリなどでネット販売している人は昨今少なくない。それの洋服版、ってことなんだろうか。にしては、作業場はだいぶ本格的だけど。
ラウンジという名の作業場を見回す。おしゃれとはほど遠い人生だった私は、黒や白の飾り気のないシンプルな服をつい選んでしまいがちで、今日も薄手の黒いニットにくたびれたジーパンという格好だった。ここは、私には縁のない明るい色で満ちている。
「私、服とかアパレルとか、そういうのまったく詳しくないんですけど……」
「嫌なら今すぐ一括で五百万払ってここから出てけ」
「そんな無茶な」
「別に、あんたみたいな『モノクロ女』に服のデザインをしろって言ってるわけじゃない。俺の手足になって働けっつってるだけだ」
私を「モノクロ女」と評する辺り、私のファッションセンスには微塵の期待もされていないことだけは窺える。
とはいえ、この無駄に偉そうな男の手足というのも不安しかない。
「手足って、具体的には何やればいいんですか? 私、ミシンも使えないし、ボタンつけもろくにできませんよ」
「服を作るだけが仕事じゃねーよ。作った服の発送作業とかやることは色々ある」
「あ、事務仕事ってことですか」
ちょっと安心する。それならできそう。
「あんた、IT系の企業にいたんだよな?」
なんでそれを知っているんだと思ったが、おおかたコーキさんに訊いたんだろう。
「ウェブサイトのリニューアルがしたい」
「ウェブサイト……あ、さっき言ってた自社販売サイトですか?」
「そうだ。デザインのリニューアルに加え、在庫管理システムやカート機能を最新のものに入れ替えたい。できるか?」
ひと口にIT系といっても様々だ。やっていたのは企業向けのシステム構築がメインで、ウェブ系の知識もなくはないが仕事で本格的にやったことはない。
けど、払えない五百万を請求され、ここを追い出されて路頭に迷うよりは、少しくらい慣れなくても、やれそうな仕事をして寝床を確保した方がマシに思えた。
「それなら多分……できます」
前園さんは私の答えを聞くと、出会ってから初めて口の端を上げ、笑みらしきものを見せた。
「二週間以内にサイトのリニューアルをしたい。一週間で案作って見せてみろ」
【次回更新は、2019年10月6日(日)更新予定!】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます