1. WELL COME TO WONDERLAND

1. WELL COME TO WONDERLAND(1)


 仕事もない、家もない、そしてもちろん夢もない。

 気がつけばないない尽くしになっていたそんな私の新しい住まいは、築七十年、木造二階建ての「ひつじ荘」と名づけられたこの古民家シェアハウスとなる、予定になっている。

 ここへの道中に買い揃えた下着や最低限の生活用品を詰め込んだ、もらいもののドラムバッグ一つを抱え、乾いた風に冷たくなった指先でコートのポケットから折り畳んだメモを取り出し、もう何度も読み返している文字を目で追った。

 ここの住所、そして大家だという男性の「前園(まえぞの)帝(みかど)」という名前と携帯電話の番号が書かれている。

 ……不安しかない。

 東京スカイツリーのお膝元、というと華やかで開けた街かと思いきや、駅から少し歩けばそこに広がるのは狭い小道と背の低い住宅の建ち並ぶ下町だ。

 古民家シェアハウスと謳うだけあって、瓦屋根のひつじ荘はその町によく溶け込んでいる。とはいえ、よく言えば趣のあるレトロな雰囲気、悪く言えば台風が来たら一発でぺしゃんこになりそうなおんぼろ二階建てだ。

 まぁ、今の状況で贅沢なんて言ってられないのだけど。

 インターホンを探したところ門柱に呼び出し鈴を見つけたが、残念ながら押してもボタンはスカスカ動くだけでピンともポンとも鳴らなかった。

 十一月も中旬、冬目前のこの季節、ろくな防寒着もなしに外にいても冷えるだけだと、私は門柱をくぐりその敷地に踏み込んだ。


 住んでいたアパートが全焼した。一昨日のことである。

 折しもそれは、一年半ほど勤めた会社が社長の失踪と同時に倒産し、これからどうしようと思っていたまさにそのときでもあった。

 倒産についてろくな説明もなく、混乱する同僚たちと共に狭いオフィスにあった最低限の荷物を紙袋に詰め、建物の外に出た直後。アパートの管理会社から電話がかかってきた。


 ――一宮(いちみや)さん? あぁ、ご無事で本当によかったです! 燃えてしまったんで心配してたんですよ!


 社会人になってからずっと一人暮らしをしていた家賃五万円のアパートが、住人のタバコの火の不始末だかなんだかで全焼したのだと報された。

 幸いにも出勤していて難を逃れたものの、さして多くもなかったとはいえ家財道具一式を失うこととなった。

 通勤に使っていたスクーターと、持ち歩いていたキャッシュカードとノートパソコンが残っていたのは不幸中の幸いだったが、社会人になってから一年半、貯金なんてたかが知れている。

 そうして途方に暮れていたところ、手を差し伸べてくれたのが大学時代から定期的に顔を出していた行きつけのカフェ、《WKWK(ワクワク)コーヒー》のマスターのコーキさんだった。


 ――知り合いが経営してるシェアハウスがあるんだけど、空きがあるか訊いてみてあげようか?


 コーキさんから連絡を受けた大家の前園さんは、こちらの事情を知るとすぐにでも入居するといいと返事をくれた。コーキさんの紹介というのもあるかもしれないが、こうしてさしたる審査もなく入居が決まった。

 しかも家賃は光熱費と消耗備品費込みで四万円。仮にも東京二十三区内でこの安さとなればいわくつきの物件かもしれないが、今夜の寝床にも困る状況なのもまた事実。

 こうして私は、メールで教えられた古民家シェアハウスにやって来た。



 ガラス戸の玄関脇には錆びついたダイヤル錠つきのポストが並んでいた。一階に三部屋、二階に二部屋で計五部屋あるらしい。

 私の部屋はどこだろう。とりあえず行けばわかるから、とコーキさんに訊いていたんだけど。

 ここまで来て怖じ気づいてもしょうがない、いざ、と玄関のガラス戸を引く。ガラス戸は立てつけが悪く、私の心中など知らない大きな音を立てて開いた。

 両腕を広げたら壁に触れられそうな狭い玄関、そして続く廊下と狭くて急な階段。三和土には茶色いゴム製の健康サンダルが一足出しっ放しになっていて、右手には観音扉のついた靴箱があり、上には歪んだ土器みたいな形の陶器の花瓶が置いてあった。花は活けられていない。

 低い天井からぶら下がった白熱球は今は消されていて薄暗く、ぷんぷんと漂う昭和感。もう平成も終わったっていうのに。


「……ごめんください、」


 廊下の奥に向かってそっと声をかけてみたが返事はない。大家さんに会う前に住人の誰かに鉢合わせたら不審者丸出しでは……。

 ひとしきり困ってから、手の中のメモを思い出した。そうだ、電話しよう。

 ポケットの中のスマホを取り出そうとして身を捩ったら、肩から提げていたドラムバッグが弧を描くように私の背中で大きくふれた。そして――

 ぶ厚いお皿が割れるような低くも鋭い音が、木造古民家に響き渡った。

 えっと思った直後、すぐに事態を把握した。

 靴箱の上にあった土器みたいな花瓶をドラムバッグで吹っ飛ばしてしまったらしい。廊下に落ちたそれは見るも無惨に砕け散っていて、着いて早々にやらかした。


「……なんだ?」


 そして、花瓶が割れる音が聞こえたのだろう。廊下の奥からのっそりと人影が現れ、私は背筋をしゃんと伸ばした。


「今日からここでお世話になることになっている、一宮佳菜(かな)と申します! それであの……」

「あー、コーキさんが言ってた」


 現れたのは、二十代半ばくらいの若い男だった。

 その細さが際立つような濃紺の細身のパンツ、くたっとした生地のオフホワイトの襟つきシャツを着ていて、やや伸び気味の黒髪に右手で触れつつ、太い黒縁メガネの奥から目を細めてこちらを見てくる。

 ラフさが際立っているのに同じくらい清潔感もあるのは、無精ひげなどがないからかもしれない。はっきりした眉に眼光の鋭い目、その表情はどこかむっつりして見えるものの、顔は整った部類だろう。

 そして、嫌みさこそ感じないものの、纏う雰囲気がいかにも「おしゃれ」って感じで、私が苦手な種類の人種だろうなと思った。


「もしかして、大家の前園さんですか?」

「そうだけど……」


 大家という単語から想像していたよりはずっと若いその男は、じとっと私を見つめ、それから廊下で哀れな姿になっている花瓶に目を向けた。


「それ、あんたが割ったの?」

「す、すみません! もちろん、わざとじゃないんです! 荷物がぶつかっちゃって……」


 男は黒いスリッパの足ですたすたとこちらに歩いてくると、花瓶の亡骸の手前でしゃがみ込み、破片の一つを手に取った。


「あー……こりゃ、修復できるレベルじゃないな」

「本当に申し訳ありませんでした! あの、代わりのもの買ってくるとか弁償とかしますので――」

「五百万」


 私の言葉を遮ると、前園さんは手にしていた破片を床に放って鋭い目でこちらを見上げた。

「弁償するっつーなら、きっちり五百万用意しろ」


 家も仕事もなくなって。

 そして、今度は借金が増えそうになっている。


【次回更新は、2019年10月4日(金)予定!】

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