1. WELL COME TO WONDERLAND(4)

 疲れていたのか、いつの間にかうとうとしていて、階下から空腹を刺激するいい匂いが漂ってきて意識が浮上した。

 ここ数年、大学生になって実家を出てからめっきり縁がなかった煮物らしき匂い。誰かがキッチンを使っているんだろうか。

 スマホを見ると、午後六時過ぎ。

 コートを羽織りお財布を手に部屋を出て、意味があるのかわからない小さな鍵で部屋を施錠した。夕飯の買いものついでにキッチンを覗いて、ほかの住人の人にも挨拶しよう。

 気を抜くと滑り落ちそうな狭くて急な階段をゆっくりと降り、廊下の角を曲がって突き当たり、ダイニングのドアを開けた。

 エプロン姿で二口コンロの前に立ち、お玉を手に鍋の様子を見ているのは意外にも前園さんだった。

 前園さんはあ然としている私に気づくと、不愛想な表情をピクリとも変えずに「匂いにつられたのか?」と訊いてくる。


「前園さん、料理なんてするんですか?」


 あの偉そうな態度から、誰かに給仕させる姿は浮かべど自ら腕をふるう姿なんて想像できるわけがない。しかも、漂う香りはよだれが垂れそうなくらいにおいしそう。


「食事は自炊に限るだろ。コンビニ弁当とか高いし栄養偏るし、何よりコスパが悪い」


 料理が好きとかそういう話ではないらしい。

 ダイニングにほかの住人の姿はなく、挨拶するという目的は達せられなそうだった。出直すかと思っていたら、前園さんは鍋に目を戻してから訊いてくる。


「食べるか?」

「え。いいんですか?」


 初対面の人間を借金のカタに手足に使ってやろうなどという暴君だけど、意外といいところもあるのかも。

 なんて思っていたら、前園さんはこっちを向いてカウンターの方、ピンクの豚の貯金箱を指差した。


「一食五百円。喰いたかったらそこに金を入れろ。釣りは払わん」

「あ、やっぱりお金取るんですね」

「文句があるなら喰わんでいい」


 とはいえ、煮物の匂いがさっきから空っぽの胃をひくつかせているという事実には変わりない。それに、汁もののお鍋もあるようだ。


「五百円定食のメニューは?」

「豚肉と里芋の煮物、なめこの味噌汁とご飯、ひじきの小鉢つき」


 私は迷わず豚の貯金箱に五百円玉を投入した。コンビニ弁当よりずっと栄養バランスのいい食事が取れそうだ。

 私はコートと財布を部屋に置きに戻り、ダイニングに向かうと前園さんに指示されるまま食事の準備を手伝った。

 食器棚からトレーとご飯茶碗、小鉢などを四つずつ取り出す。私と前園さんを含め、ワンコイン定食を食べるのは四人ということらしい。


「ここに住んでる住人の方って、あと何人いるんですか?」


 ご飯が炊けたばかりの炊飯器の蓋を開け、しゃもじ片手に前園さんは答える。


「一階と二階にあと一人ずつ」

「じゃ、住人は三人なんですか」

「俺もここに住んでるから四人だ」

「大家さんも住んでるんですか……」

「文句でもあるのか?」

「いえ、ございません」

「おい、茶碗を三つ寄越せ」


 茶碗二つにご飯をそれぞれ大盛り、小盛りによそい、そして前園さんは訊いてくる。


「あんた、どれくらい食べる?」

「え……普通です」

「俺は『普通』って答える奴が死ぬほど嫌いだ」


 死ぬほど嫌い宣言をされ、「じゃあその二つの真ん中くらいで」と答えた。

 前園さんは小盛りのご飯茶碗をトレーに載せると、手早く小鉢と味噌汁も用意し、小皿にやや控えめな量の煮物をよそってトレーを持った。


「茶碗が空のトレーはそのままでいい。残り二つの味噌汁と煮物、よそっといてくれ」


 そう私に指示し、トレーを持ってそそくさとダイニングを出ていく。少しして、階段を上る足音が聞こえてきた。二階の住人の一人は部屋食、ということか。

 ……と、気がついた。私の隣部屋、ずっと人がいたってこと?

 さっきまで部屋にいたのに、その気配にまったく気がつかなかった。

 隣ならさっさと挨拶に行けばよかったと後悔しつつ、味噌汁をよそっていたら前園さんが手ぶらで戻ってきて舌打ちする。


「まだ終わってないのかよ」

「すみません、ちょっとぼうっとしちゃって」

「そんな風にぼうっとしてるから仕事も家もなくなって借金こしらえる羽目になるんだろーが」

「いや、倒産も火事も私のせいじゃないですし」


 前園さんは私の反論なんて無視し、電気ポットに水を注いで湯を沸かし始める。湯飲みを二つ出しているので、嫌みを言いつつも茶を淹れてくれるつもりらしい。

 ご飯茶碗を伏せたままのもう一つのトレーをチラと見る。もう一人の住人は遅れてここに来るのだろう。

 と、いうことは。

 このままだと前園さんと二人きりの夕食……?

 豚のお腹に五百円を納めたことをたちまち後悔した。この王様と二人なんて、おいしい煮物の味がわからなくなる未来しか見えない。


「あの……上の階の方は一緒に食べないんですか?」

「気難しい奴なんだよ」


 気難しいの権化みたいな前園さんにそんな風に言われる住人、という事実に戦慄を覚える。


「一体、どんな方なんでしょう……?」


 前園さんの返答次第では、部屋に挨拶に行くのは控えた方がいいかもしれない。


「どんなって、うちのデザイナーだが?」

「デザイナーって、《EVERYDAY WONDERLAND》の?」

「ほかに何があるんだよ」


 デザイナーってことは、クリエイター気質ってことなのかな。

 あんなにかわいい服をデザインする人なのだし、と気を取り直した。ご飯を食べたら挨拶に行こうと決め、二人分のトレーをダイニングテーブルに運ぶ。煮物の小皿では里芋がほくほくと湯気を上げ、赤だしの味噌汁にはなめこと白ネギが浮かんでいる。

 前園さんの存在は気にせず食事に集中しよう。

 ダイニングテーブルの前園さんの向かいに座ると、緑茶の湯呑みがすでに置かれていた。小さく礼を言い、「いただきます」と言いかけたそのとき。

 古民家が揺れるような音を立ててダイニングのドアが開き、誰かが勢いよく飛び込んできた。


「たっだいまー! お腹空いちゃった、今日のメニュー何?」


 明るく勢いよく元気よく、一人にぎやかに部屋に入ってきたのは、フリフリしたフランス人形みたいな格好をした背の高い女性だった。

 スカートが丸くふんわり広がった白いドレスに白いタイツ。肩に届く髪はくるんと内巻き。いわゆるロリータだ。

 私や前園さんより背が高いようで、すらりと伸びた脚は長い。


「これから飯ってときに、いつもいつもうっせーんだよお前は」

「キングこそ、これからご飯ってときに、いつもいつもむっつりしちゃってヤな感じだよねー」


 よく響くハスキーボイスで、その女性は前園さんの肩をパシパシ叩くと、固まっている私の方を見た。


「あ、新しい住人の人?」

「はい。一宮佳菜と申します」

「カナっていうんだ!」


 前園さんがきゃぴっと笑んだ女性にじと目を向け、「こいつは――」と言いかけたのを、女性は勢いよく遮った。


「ミキってゆーの。カナも『ミキ』って呼んでくれていいからね! よろしくー」

「よろしくお願いします、ミキさん」


 個性の塊みたいな女性だけど、少なくとも前園さんの数百倍フレンドリーで安堵する。

 ミキさんはスカートのレースをフリフリさせつつキッチンに行き、自分で煮物と味噌汁、ご飯をよそって私の隣の席に着いた。箸を持たずにいた私に気づくと、ミキさんはつけまつげの目をぱちくりとさせる。


「先に食べててくれててよかったのに」

「あ、いえ、せっかくなので待とうかなと……」


 待つも何も、情報処理が追いつかなくて固まっていただけとは言えない。一方、前園さんは待つだけ時間の無駄だと言わんばかりに黙々と食している。

「いただきます!」というミキさんにつられ、私も両手を合わせた。そしてミキさんの横顔を見つめ、もしかして、と気がつく。


「あの……ミキさんって、《EVERYDAY WONDERLAND》のサイトに載ってる写真の人ですか?」


 ミキさんは箸を動かす手を止め、私を見てから前園さんの方を向いた。


「《エブラン》のサイト見せたの?」


 どうやら、《EVERYDAY WONDERLAND》は《エブラン》と略すらしい。

 前園さんは箸の手を休めることなく、「ウェブサイトのリニューアル作業頼んだ」と答える。


「へぇ、カナってそういうの詳しいんだ」

「詳しいってほどでも……IT系の企業に勤めてたってだけで」

「倒産したらしいがな」


 要らぬ補足をする前園さんをじとっと見ていたら、「すごいね」ってミキさんは感心したようにふんふん頷く。


「完全に趣味みたいなもんだけど、一応、モデルやらせてもらってるんだ」


 そうこちらに笑むミキさんはとびきりの美人だ。写真でも、あのかわいらしいブランドの服がよく似合ってた。

 感じた親しみはたちまち一歩後退し、「モデルなんてすごいですね」とぎこちない笑みで応える。

 やっぱりこの人も、私とは違う人種だ。

 嫌みと舌打ちがないだけ、前園さんよりはとっつきやすいけど。

 ミキさんは食事の手を時折休めつつ、私に愛想よく話しかけ続ける。


「今日も仕事帰りなんだけどね。昼間は実家の縫製工場で働いてんの」

「ほうせい?」

「洋服を縫う工場。《エブラン》の服も、うちの工場で縫ってるんだよ」


 あのラウンジで、前園さんが服をチクチク縫っている様を想像していたけど違ったらしい。洋服を縫う工程は外注なのか。個人のブランドとはいえちゃんとしてるんだなと内心感心する。


「私、服の作り方なんて考えたこともなかったです」

「さすがモノクロ女」


 またしても前園さんが口を挟んできた。この人、嫌みを言わずにはいられないんだろうか。


「『モノクロ女』って何?」とミキさんが訊く。

「見たまんまだろ。見るからに色のついた服、持ってなさそうじゃねーか」


 図星すぎて瞬間的に頬が熱くなる。

 けど、と心の内で自分を擁護する。私は、服なんて着られればそれでいいのだ。着飾るための布や装飾に手間暇やお金をかけることに必死になる感覚こそ、私には理解できないものでしかない。


「女の子にそんな言い方ヒドくない? だからキングはモテないんだよ」

「女なんて金かかるだけだろーが」

「うわ、出たよコスパキング」


 ミキさんがさっきから時折口にする「キング」とは、どうやら前園さんのあだ名らしいと今さら気づいた。偉そうで時間や効率にやたら口うるさい「コスパキング」、なるほど素晴らしいネーミングだ。

 二人はその後、ロットがどうこう、サンプルがどうこうと、ブランドの話を始め、おかげで私は食事に集中できた。前園さんの嫌みにはうんざりしたけど、豚肉入りの里芋の煮っ転がしはとてもおいしくて五百円の価値はあったと思う。

 使ったお皿を下げ、シンクに置きっ放しになっていた菜箸やまな板などと一緒にまとめて洗ってダイニングの方へ戻る。


「ごちそうさまでした。あの、お先に失礼します」


 いつの間にか食事を終え、二人は緑茶のお代わりを飲んでいた。前園さんは特に反応がなく、ミキさんが「じゃーね」と手をふってくれたのでふり返す。

 そうして廊下に出ると冷たい床板に途端に足先が冷え、ミキさんたちのおしゃべりが遠くなった。

 こんな風に誰かと夕食を囲んだのはいつぶりだろう。ずっと仕事で忙しく、夕飯は適当に済ませることが多かった。たまに外で食べることがあっても、飲み会が大半だったし。

 シェアハウスなんて初めてで、どんな雰囲気なのか不安もあった。アウェイ感はあるものの、思っていたよりは悪くないかもしれない。

 ……いや、五百万の借金で悪くないも何もないか。

 心の中で自分にツッコミを入れ、そそくさと廊下を進んで階段を上る。二〇二号室の鍵を開けようとしたが、思い立ってすぐ隣、二〇一号室の前まで行って、思い切ってドアをノックした。


「あの、私、今日から隣の部屋に越してきた一宮佳菜と申します。ご挨拶にと、思ったんですけど……」


 そこまで話してから気がついた。引っ越しの挨拶なら、菓子折の一つでもあるべきなのでは。

 でもミキさんにも何もあげてないし、などとごちゃごちゃ考えていた私の一方、ドアはきっちり閉まったままで返事どころか物音一つしない。もう夕ご飯を食べてどこかに行っちゃったのかもしれない。また今度出直そう。

 自室の二〇二号室に戻ったものの、暇を潰せるテレビもゲームもないしやることもない。ノートパソコンを起動し、《EVERYDAY WONDERLAND》――《エブラン》のウェブサイトを眺めながらデザインの検討を始める。

 前園さんがウェブサイトの更新に必要なデータ一式をメールで送ってくれたので、それを見ながらまずは現状を確認する。

 かわいい服には、興味がないわけじゃないけどやっぱり気後れする。けど、ウェブサイトのソースを眺め、デザインを考えていくこと自体は予想外に苦痛じゃなかった。突然会社がなくなって、仕かかり中だった仕事も何もかもを放り出すことになってショックだったし、やはり喪失感もあった。

 仕事でできた心の穴は、仕事でしか埋められないのかもしれない。借金のカタではあるけど。

 作業に夢中になっていたら時間を忘れていて、午後十時過ぎに部屋のドアをミキさんにノックされ、「十一時までに風呂に入らないとキングがガスの元栓閉めるよ」と教えられた。聞いてない。

 今日の作業はそこで中断し、慌ててタオルと着替え、バス用品をビニールバッグに詰めて部屋を出る。

 予想はしていたけど、風呂場は心臓が止まるかと思うくらい寒かった。



【次回更新は、2019年10月11日(金)予定!】

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