1.花咲く紅茶〈Shalimar Tea〉⑧



    ◇◆◇


 辺りはすっかり夜の装いで、通りの外灯が白い光を地面に落とし、海水浴場から人の姿は消えている。

 そして、私は午前中と同じようにバス停の前に立っていた。


「行っちゃったかぁー……」


 新しい冷蔵庫が届き、設置してもらって説明を受けたりなんだりし、すべてが終わったときには午後七時を回っていた。

 わかっちゃいたけど、館山駅行きのバスはもうない。できればこっそり出ていきたかったのに、完全にタイミングを逃してしまった。

 のろのろと店への道を歩く。

 胃は重くて空っぽだ。

 あのドタバタで、ランチを食べ損ねていたのを思い出す。佐山さんもお腹空いてるかな……。

 店の前に到着したところで私は足を止めた。腕を組んだ佐山さんが、開いた店のドアにもたれかかっている。


「バスはもうないでしょう?」


 店内の照明が逆光になっていて、そう訊いてきた佐山さんの表情はわからなかった。


「……私が出てくつもりだったの、わかってたんですか?」

「荷物、まとめてありましたし」

「人の部屋、勝手に見ないでくださいよ!」

「ドアを開け放しておいてよく言いますよ」


 呆れ顔の佐山さんは、うなだれた私に道を空けるように、ドアを開けたまま店の中に戻る。


「さっさと入ってください」


 急に鼻孔の奥がつんとして、それをごまかすように店に飛び込んだ。




 佐山さんに促され、渋々カウンター席に着いた。

 小さくなっている私を、佐山さんはカウンター越しに見下ろしている。


「出ていきたいと言うものを止めるつもりはありません。もともと開店までという話でしたし」


 ただ、と佐山さんは一度言葉を切った。


「ここを出て自殺でもされると寝覚めが悪いなと」


 そういえば、初めて佐山さんに会ったときも「自殺でもするんですか?」と訊かれたんだった。


「……死ぬつもりはないので安心してください」

「では、家出をやめて帰るといったところですか?」


 家出なんてかわいいもののつもりはなかったし、帰るところなんてない。

 けどここでそんなことを言っても仕方ないし──

 そのとき、佐山さんが唐突に「東京都」から始まる住所を口にしてギョッとした。


「この住所には帰らないんですか?」


 敦久さんと暮らしていた部屋の住所だった。


「なんでそれを──」

「あなたの財布に何かの会員証が入っていたので」


 その言葉が意味していることを理解して、瞬間的に頭に血が上った。


「さ、最低! 人のお財布勝手に見たんですか!? プライバシー侵害です!」

「身元のわからない得体の知れない人間を泊めたんです。個人情報くらい調べて当然でしょう」


 言葉が続かない。

 少々失礼なお人好しだと思っていたこっちが甘かったということだ。

 怒りの波が通り過ぎると、途端に脱力してカウンターに突っ伏した。


「そこには帰りません。……同棲してた、カレの部屋なんで」


 意識して「元」を強調して説明してしまい、バカな女丸出しみたいで悲しくなった。いや、事実そのとおりなんだけど。

 私が独り立ちしたい、手に職をつけたいと強く思うようになった理由の一つが母の存在だった。

 うちはいわゆる母子家庭で、女手一つで育ててくれた母には感謝している。けど、男運がないのか見る目がないのか、ことあるごとに男にフラれたとめそめそするのだけは如何いかんともし難く、ああいう風にだけはなるものかと幼心に誓った結果がそれだった。

 なのに結局のところ、今の自分も大差ない。

 部屋を追い出されて一人になれば、行くところも帰るところもなくて、独り立ちなんてほど遠い。

 それどころか、一人でいるのが耐え難くて仕方ない。


「……私、何やってるんでしょうね」


 悔しいやら悲しいやら惨めやらで、いつの間にかえつが漏れていた。涙が止まらなくなっていて、顔を上げるとカウンター越しにティッシュ箱を差し出されている。


「……すみません」


 一枚引き抜いて鼻をかむが、止まらなくてそのまま顔を伏せる。

 必死にやってきたつもりだった。

 うまくやれているつもりだった。

 全然そんなことなかったのに。

 母のことなんて何も言えない。

 ティッシュペーパーを箱から続けて何枚か抜いて目元を押さえる。最後の最後でみっともない。

 ぐずぐず泣いていたら、食器が鳴る音に目を上げた。

 佐山さんがやかんで湯を沸かし、茶器を用意している。私に気を遣って紅茶を淹れてくれているのかも。

 ますます申し訳なくて、再び目元を押さえて俯いていたら。


「──どうぞ」


 予想どおり目の前にティーカップが置かれ、けどそれを目にした瞬間ハッとする。

 カップにヒマワリが咲いている。

 そう思ってよく見たら、カップの表面に浮いているのは輪切りのオレンジだった。


「シャリマティーといいます」


 そう説明した佐山さんに訊いた。


「いただいていいんですか?」

「もちろん」


 ティッシュペーパーで目元を拭い、鼻をかんでからカップに手を伸ばした。そっとひと口含むと、酸味のあるオレンジの香りがふわりと鼻孔の奥に広がる。

 紅茶の渋みも感じるものの、それはすぐにオレンジとわずかに加えられた砂糖の甘みで消えていく。しょっぱくなっていた私の中に、それは清々しいほど爽やかに広がり落ちていった。


「シャリマというのは、インドのカシミール地方の花園の名前だそうです。花が浮かんでいるように見えませんか?」

「あ、わかります!」


 店の入口に置いた鉢植えのヒマワリをふり返った。


「パッと見たとき、ヒマワリが咲いてるかと思いました!」


 そう声を上げてしまってから、すみません、と小さくなる。つい子どもみたいにはしゃいでしまった。

 再び紅茶に口をつけて香りを楽しむ。

 気がつけば身体から力が抜け、さっきまでの渦巻くような感情はどこかに行ってしまっている。


「なんだか落ち着いてきました」

「紅茶には鎮静作用もあるそうですからね」

「そうなんですか? カフェインが入ってるのに?」

「紅茶の茶葉自体にはコーヒーの二倍ほどカフェインが含まれていますが、紅茶として飲む際にはコーヒーの半分ほどに減ります。それに、紅茶に含まれているテアニンにはリラックス効果があると言われていますしね」


 いつになくよどみなくしゃべる佐山さんに、はたと気づく。


「もしかして、元気づけようとしてくれてます?」


 は? と即座に返してきた佐山さんはいつものクールな表情かと思いきや、わずかに目を逸らしてせきばらいした。


「誰かがらしくないからでしょう」

「すみません」

「……少なくとも、この五日間はそれなりに助けられました。洗濯機も直りましたし、何もできないってことはないんじゃないですか?」


 素っ気ない口調ながらも温かい佐山さんの言葉をみしめつつ、姿勢を正して頭を下げた。


「ありがとうございます」


 穏やかな気持ちで花咲く紅茶に手を伸ばす。

 ──ここに来られてよかった。

 短い間だったけど、現実逃避でしかなかったかもしれないけど、それでも楽しかった。

 ご近所さんもいい人たちばかりだったし。

 紅茶もおいしかったし。

 佐山さんもわかりにくいけどいい人だったし。

 最後に元気ももらえたし、どこにいてもそれなりに生きていけるんじゃないかという気もしてくる。

 なんとかなる、多分。


「──では、改めて訊きますが」


 佐山さんの質問が私を現実に引き戻す。


「さっきの住所に戻らないなら、どこか行く当てはあるんですか?」


 なんとかなると思ったばかりなのに、改めて訊かれてしまうと先ほどまでのふんわりした決意がわずかに揺らぐ。


「これといってないですけど……」


 そうですか、と小さく答えて佐山さんは黙った。

 そして、考えるような数秒の間のあと。


「このまま、ここで働きますか?」


 いつもどおりの何気ない口調で、さらりとそんなことを口にした。

 一方の私は何か言わねばと思うのに喉からは変な音しか出せず、瞬時に身体が熱くなって手にしていたティーカップを音を立てて置いた。


「あまり予備がないのでカップは大事にしてください。前から思っていましたが、何かとガサツですよね」

「すみません! でもあの、ちょっと驚いて……」


 短距離走でもしてきたみたいに心臓が音を立て始め、紅茶によるリラックス効果はすっかり吹っ飛んでしまう。


「思いつきなので、流していただいてもかまいません」

「いえあの、違うんです、すみません、とても……とてもありがたいです、けど」


 舞い上がってしまいそうな気持ちを必死に抑え、深呼吸してから問題を一つ思い出す。


「このままここにいると、夫婦だと勘違いされたままになりそうなのは、その、あまりよろしくないような……?」


 とはいえ、それを言うなら誤解されたまま私がいなくなるのも問題かもしれない。結局問題しかなかった。やはり誤解は解いておいた方が──


「正直なところ、誤解を解くのが面倒だという気持ちがあります。なので、いっそそういう設定でここで働いてもらうというのも手かなと思ったところです」

「そんな設定いいんですか?」


 こちらがこんなに動揺しているというのに、佐山さんはまったく動じていない。悪い人ではないとは思いつつ、やっぱりこの人はよくわからない。


「無理強いはしませんし、どこか行くところがあるなら止めません」

「行くところはないです、けど……」


 舞い上がりかけた気持ちがたちまちしぼんで落っこちる。

 佐山さんと敦久さんが同じだとは思っていないし、ましてや恋人関係でもない。

 とはいえ、一つ屋根の下でこのまま共同生活を続けることなんてできるのか。

 私はまた、失敗するんじゃないのか。


「不安です」

「何が?」

「色々と、うまくやっていけるのか」


 言葉にしてみてわかった。

 泣きたいくらい、今の私は自分に自信がない。

 だって、うまくやれなかったから今ここにいるわけだし。期待と不安がない交ぜで叫び出したくなってくる。

 何も言えなくなってしまった私を見た佐山さんは、いっとき思案顔になると「それなら」と提案してきた。


「いくつかルールを決めましょう」


 頭に疑問符を浮かべた私を、そして佐山さんはせっついた。


「けど、それは夕食のあとで、です」


 あ、と思った瞬間、腹の虫が鳴ったのは私の方だった。

 気持ちが落ち着いたせいか、ここぞとばかりに空っぽの胃がその存在を主張する。


「昼食と夕食を任せろと言ったのはあなたですよね?」

「はい……はい、そうです! 今すぐ作ります!」


 佐山さんに見送られ、新しい冷蔵庫のことや、残っている食材のことや、ルールってなんだろうという疑問で頭をいっぱいにしつつ、二階のキッチンへと駆けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る