3.紅茶のブルゴーニュ酒〈祁門紅茶〉
3.紅茶のブルゴーニュ酒〈祁門紅茶〉①
「自分の存在価値がわからなくなってきました」
私の言葉に、カウンターの奥で優雅に小説を読んでいた秀二さんは顔を上げた。
「なんですか、
「だって! 見てくださいよ、この現状!」
私はフロアを指し示した。午後四時過ぎ、お客さんは一人もいない。
「掃除くらいしかやることがなくて、店の中はもうピカピカです!」
「ピカピカならいいことじゃないですか」
そう応えて本に戻ろうとする秀二さんに訊かずにはいられない。
「お店、大丈夫ですか? 潰れたりしません?」
「そういうのを余計な心配と言うんです。ハイシーズンの夏と閑散期の今じゃ違うのは当たり前でしょう」
「いっそ内職でもしようかな……」
「内職って、造花作りでもするつもりですか?」
「少しでも足しになるなら」
私は大まじめだったのに、秀二さんは吹き出した。
「あなたみたいな雑な人間に、そんな細かい作業は無理でしょう」
「そんなことないですし!」
「バカなことを言ってる暇があるなら、店の外の掃除でもしたらどうですか」
そして秀二さんは今度こそ本の世界に戻っていった。これ以上何かを言っても無駄だろう。
「……わかりました」
パーカーを羽織って
十一月、紅葉の季節になっていた。辺りの山々の木々も色づき、掃いたそばから店の周囲では枯れ葉が舞う。
《渚》での日々にもすっかり慣れ、気がつけば三ヶ月が過ぎた。
夏の間は客足が途絶えることがなく、色々あったものの忙しさで時間はあっという間に過ぎていった。九月も暑い日が続き海水浴場はサーファーで混み合う日々が続いていたが、十月に入ってしばらくするとぱったりそれもなくなった。
近所の常連さんたちは定期的に店を訪れてくれるけど、今日みたいにまったくお客さんが来ない時間帯があると私は不安でたまらなくなる。
……《渚》がなくなったら嫌なだけなのに。
マスターの秀二さんは客がいないと読書に
この数ヶ月は、適度な距離を保ちつつもうまくやってきたつもりだ。些細な口論は絶えないけど、よき同居人でいようと私なりに努力もしてきた。
けど、最近はそれが少々じれったい。
本当はもう一歩踏み込みたい。
もっとできることがあるんじゃないかと思ってしまう。
いっそ叫び出したい気持ちをごまかすように箒を動かした。枯れ葉と乾いた
「ここ、喫茶店ですか?」
大きなカメラを首から提げた男性に声をかけられた。
「こんなところに、こんな素敵なお店があるなんて思いもしませんでした」
「こちらには観光で来られたんですか?」
「まぁ、そんなようなものです」
小さく会釈して原井さんはおしぼりを受け取った。背が高く身体もがっしりとしていて大きいので、丸椅子のカウンター席に収まるとやや猫背になる。俯くと目元を隠す無造作な黒髪は少々伸び気味だ。
原井さんはメニューを見ると、へぇ、と感心したような声を上げる。
「紅茶のお店なんですか」
えぇ、と秀二さんがカウンター越しに応えた。
「もしご希望やわからないことがあればお声かけください」
「ありがとうございます。メニュー、じっくり見させてもらいます」
原井さんが見ているメニューは、二ヶ月前に私が作り直したものだ。以前は紅茶の名前が並んでいるだけのものだったけど、そこに手書きで味や香りといった茶葉の特徴などを書き込んである。名前だけ見ても紅茶の種類ってよくわからないし。
原井さんはたっぷり五分ほどメニューを眺めていたが、やがて顔を上げて秀二さんに訊いた。
「あの……中国茶はないんですよね?」
「中国茶?」
顔を見合わせた私と秀二さんに、「すみません!」と原井さんは慌てた。
「その……うちに紅茶がたくさんあったんですけど、その中に紅茶みたいな中国茶があったのを思い出して……」
「それって──」という秀二さんの言葉を原井さんは遮った。
「気にしないでください! あの、このアッサムティーをいただきたいです。おすすめの飲み方、ありますか?」
「そうですね。アッサムならホットのミルクティーが定番でしょうか」
「じゃああの、はい、それでお願いします」
原井さんは肩をすくめ、「すみません」と小さくくり返した。秀二さんはそんな原井さんの様子を気にした素ぶりも見せず、ティーポットを棚から取り出す。
すっかり恐縮している原井さんに、私は横から訊いてみる。
「紅茶、お詳しいんですか?」
原井さんはハッとしたように顔を上げ、いえいえいえ、と顔の前で手をふった。
「すみません、さっきは変なこと言ってしまって……詳しかったのは一緒に住んでた相方の方で、俺は出されたものを飲むだけって感じでまったく」
「紅茶が趣味なんて素敵ですね」
私の言葉に、原井さんはようやく肩から力を抜いた。
「そうですね……趣味の多い人でした」
そして、カウンターテーブルに置いたカメラに手を伸ばす。
「このカメラも、実は相方のものでして」
「借りてきたんですか?」
「まぁ……」
ふと視線に気がついて顔を上げると、やかんで湯を沸かしている秀二さんがこちらを見ていた。何か言いたげな顔をされたものの、何も言ってこないので私は原井さんのカメラに目を戻す。
「相方さんは、今日はお留守番なんですか?」
すぐに返事があるかと思ったのに微妙な間があった。どうかしたのかと思って原井さんを見ると、複雑な笑みを向けられる。
「亡くなったんです」
「え?」
「相方の実家がこの近くにあって……俺もここの景色を見ようと思って来たんです」
私が何も言えずにいると、すかさず「すみません」と謝られてしまう。
「こんな話されても困りますよね」
「そ、そんなこと! 訊いたのは私ですし……」
息が詰まるほどの胸苦しさに一度言葉を切ってから、私は顔を上げた。
「もし、何かできることがあったら言ってください!」
原井さんは目を瞬いた。
「この辺りなら道案内くらいできますし、もし知りたいこととかあれば──」
私の言葉を遮るように、秀二さんがカウンターテーブルにティーカップを置いた。
「お待たせしました、アッサムのミルクティーです。──ところで、ミルクティーを作るとき、カップに紅茶とミルクのどちらを先に入れるかで、イギリスでは一五〇年も論争になっていたという話があるのですがご存知ですか?」
唐突に秀二さんが紅茶談義を始めて原井さんの関心はそちらに移り、私が口を挟む余地はなくなった。
英国王立化学協会が「低温殺菌牛乳を使い、カップにはミルクを先に入れるのが完璧な紅茶の淹れ方だ」と発表して議論には決着がついた。秀二さんのそんな話をなんだかじれったい気持ちで黙って聞いた。
そのあと、原井さんは終始穏やかに秀二さんと紅茶の話をし、「しばらく近くに滞在しているのでまた来ます」と言って《渚》を去っていった。おかげで原井さんの相方さんのことは聞けずじまいで、私はもやっとした感情を持て余す。
「秀二さん、紅茶のことだけはしゃべると止まらないですよね」
空っぽのフロアを眺めつつ、若干の皮肉も込めてポツリとそう漏らすと。
「誰かがニワトリなせいじゃないですか?」
全力の皮肉を込めた口調で言い返された。
「それ、私のことですか? あ、もしかして珍獣から鳥類に昇格しました?」
「そんなわけないでしょう」と即刻否定される。
「どうせ昇格するなら、せめて人類を目指してください」
「じゃあなんなんですか!」
「三歩歩くと忘れるようなので言っただけです。私が何度、他人に深入りするなと言ったか覚えていないんですか?」
「だ、だって……」
一人でここまで来た原井さんの気持ちを考えたら、黙ってることなんてできなかった。
「恋人か奥さんかはわからないですけど……一緒に暮らしていた大事な人が亡くなって、形見のカメラを持ってここまで来たっていうんですよ? 何かできないかなって思うのが人ってもんじゃないですか」
「いい加減、『余計なお世話』って言葉を学んでください」
「でも──」
「先月、新山夫妻の喧嘩に首を突っ込んで事態をややこしくしたのはどこの誰です?」
ご近所さんで常連の美沙さんが、旦那さんと大喧嘩をしたのは先月のことだ。
二人の仲を取り持とうとあれこれやったがすべて裏目に出てしまい、最終的にはヒートアップしてペンションを出ていくと宣言した美沙さんをいさめ、丸く収めたのは結局秀二さんだった。
「それとこれとはまた別っていうかー……」
「同じです」
しばし睨み合い、私は目を逸らして唇を尖らせた。
「……他人の心配したらダメですか?」
秀二さんは答えてくれず、私は黙って原井さんが座っていた席の片づけを始めた。秀二さんもカウンターの向こうでこちらに背を向ける。
秀二さんのことも心配するな、深入りするなって拒絶されたように感じたのは考えすぎだろうか。
下唇を嚙んで、感情の波が通り過ぎていくのを待った。
【次回更新は、2019年8月30日(金)予定!】
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