2. ALICE'S WONDERLAND(8)


          ☆


 そうして十二月下旬、クリスマス目前という日曜日に即売会当日を迎えた。

 帝くんは朝食をとると、準備のためにひと足先にひつじ荘を出ていった。


 ――アリス、本当に来るんだろうな?


 この数日、毎朝毎晩のように帝くんに確認され、「来るって言ってるじゃん!」と私は自信満々に答えていたものの。

 和式便器と対面するように身体をくの字に折り、きながら胃の内容物を吐き出しているアリスさんの背中をさすりつつ、やっぱり無理かもと思いかけていた。

 年上の意地なのかなんなのか、帝くんがいるときは我慢していたようだけど、帝くんがひつじ荘を出ていくなり、アリスさんはトイレに駆け込んで嘔吐し始めた。

 急性の食中毒か何かかと心配したところ、本人いわくストレスによるものらしい。


「高校生の頃も……学校行く前に、こんな風に、吐いて、た」


 息も絶え絶えにそう説明し、さらに酸っぱい臭いのする胃液を吐き出した。

 即売会に顔を出す。

 それだけのことが、アリスさんにとってはどれだけ大きな壁なのかを思い知った。気分が乗らないとか勇気が出ないとか、そういうレベルの話じゃない。アリスさんにとってそれは、文字どおりの決死の覚悟が必要なチャレンジなのだ。

 胃の中が空になって吐き出すものがなくなったらしい、アリスさんは震える手でトイレを流すと、トイレの入口に座り込んでしまった。

 大丈夫ですか? 行けますか? なんて簡単に訊けない。

 青白い顔は土気色に変わり、呼吸は荒く肩が上下し、額には変な汗まで浮いている。

 こんな状態のアリスさんに鞭打つような真似、私にはできない――


「アリス、ほら、水飲みな」


 そう声をかけ、アリスさんの前にしゃがんで水の入ったグラスを差し出したのはミキさんだった。

 今日はいつもの全身ロリータではなく、《エブラン》のカットソーとプリント生地のスカート姿。ウィッグのボブヘアの黒髪が揺れ、アリスさんの顔を覗き込む。


「即売会、行くって決めたんでしょ? だったらがんばりな」


 いつもは優しいミキさんらしくない、厳しい口調だ。アリスさんもグラスを受け取ることはせず、そんなミキさんを無言で睨みつけている。

 見かねた私が「こんな状態ですし」と口を挟むと、ミキさんはその表情を緩めず応えた。


「こんな状態だからだよ」

「え?」

「アリス、一度は自分で即売会に行くって決めたんでしょ? それで行けなかったら、今度こそ自分に失望する。自分が決めたことすらできなかったって、ますます部屋から出てこなくなるのは目に見えてる」


 ミキさんの言葉は容赦なく、でもその眼差しは優しい。


「歩けないなら抱っこでもおんぶでもしてあげる。だから、行こう」


 アリスさんはミキさんからグラスを引ったくるように受け取ると、その水で口をゆすいでトイレに吐き出し、残りは煽るように飲み干した。


「行かないなんて、誰も、言ってない。抱っこもおんぶも要らないし。バカにすんな!」


 ギラつく大きな目でミキさんを見返して立ち上がり、けどすぐにふらついて正面からミキさんの胸元に倒れ込む。ミキさんはそれを両腕でしっかりと受け止め、私に指示を出した。


「カナ、キッチンにインスタントのコンソメスープあったと思うから、それ作ってもらえる? アリスに飲ませよう」

「わかりました!」


 ミキさんはアリスさんをしっかり抱きしめ、その頭を優しく撫でる。


「部屋から出てきたアリスはエラいよ」

「……ガキ扱いしないで」


 ほとんどミキさんに抱きかかえられるようにしてアリスさんはダイニングに辿り着き、温かいコンソメスープをちびちびと胃に流し込んだ。

 その間にミキさんは化粧道具一式を持ってきて、スープを飲み終えたアリスさんの顔に化粧を施していく。土気色だった顔はたちまちファンデーションで明るくなり、頬はチークでうっすらピンク色に染まった。


「かわいい!」


 ミキさんの上げた声に、私は全力で同意した。小柄で細いアリスさんは、化粧の力を借りるとお世辞抜きにかわいらしく愛らしさを増す。

 けど、本人はたちまち決まり悪そうな顔になって眉を八の字にしてしまう。


「あ、あたしなんか……」


 すぐに卑下するアリスさんのネガティブさは、私自身にも通ずるところがあって胸を掴まれたように感じた。


「そんなことないです!」


 身を乗り出した私の言葉に、アリスさんが顔を上げる。


「その……モノクロ女の私が言えることじゃないんですけど。でもアリスさん、今、超かわいいです! かわいくて洋服のデザインまでできて絵まで描けて……すごすぎてムカつきます!」

「大げさな……」


 アリスさんは謙遜しながらも、その表情はわずかに緩んだ。


「でも、それくらいすごいよ、アリスは」


 ミキさんもにっこり笑んで同意する。


「アリスはかわいいし、すごい才能も持ってるんだから。ビビる必要なんてないんだよ」


 言葉が出てこないのか、アリスさんは口を開きかけたもののすぐに閉じた。

 その目にわずかに滲んだものがあり、ミキさんがすかさず「泣いてる?」なんて突っ込んだものだから、「なわけないし!」と膨れてしまう。

 きっと、これなら大丈夫だ。



 ミキさんがタクシーを呼んでアリスさんと二人で乗り込み、一方の私は自分のスクーターで即売会の会場である《WKWKコーヒー》に向かった。

 《WKWKコーヒー》は押上から錦糸町方面へ行く途中にあり、ひつじ荘からは徒歩でも二十分ほど、スクーターなら五分ほどで着いてしまう。

 店の前に私がスクーターを停めると、ちょうど先に到着していたタクシーのドアが開いた。たった五分のタクシーで酔ったらしい、顔色を悪くしてよろけつつ車外に出たアリスさんを、帝くんが迎える。


「よく来たな」


 決死の覚悟で現れたアリスさんを前に、帝くんも唇に笑みを浮かべた。


「……誰かがバカだから、仕方なく」


 ふらつくアリスさんに帝くんが手を貸し、店の中へ連れていく。

 それを見送ってから私とミキさんはタクシーに積み込んだ荷物を下ろし、ふと顔を見合わせて笑った。


「おつかれさま、カナ」

「本番、これからですけどね」


 気がつけば自分の転職活動すらおざなりのまま、今回も何かと働いてしまった。

 でも、気分はとっても清々しい。

 ミッションコンプリートだ。



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『訳ありブランドで働いています。 ~王様が仕立てる特別な一着~』

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次回更新は、2019年10月30日(水)予定!

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