最終話 月は満ちて 6



(生命のない物体を描いただけで仮の命をあたえ、本物にしてしまう絵筆だ。じゃあ、その筆で現に生きてるおれを描いたら、どうなる? 絵が完成し、そこに新たな命が宿れば、おれは……? 本物のおれはどうなってしまうんだ?)


 思えば、近ごろの倦怠けんたい感はふつうじゃなかった。

 ディアディンの命が絵筆に吸われ、絵のなかに写しとられていたのだ。


「さあ、レイグルよ。絵を完成させるのだ。最後のしあげをするがいい」


 男に命じられ、レイグルはとりつかれたように絵筆をにぎる。


「やめろッ。レイグル。そんなことしたら、おれは——」

「だまれ! ディアディン。そなたとて望んだろう? そなたの友人をよみがえらせたいと。私がその願いをかなえてやるのだぞ。そなたのあとには、そなたの友人をレイグルに描かせればいい。そうすれば、どうだ? そなたも友人も永遠の命をえて、二度と死ぬことはない。わかるか? そなたの罪は帳消しになる」


 ああ、そうか……そうなんだ。

 おれが——おれ自身が魔物になってしまえば、なにも恐れることはないんだ。

 リックも、ミュルトも、父さんや、母さんも、みんなが魔物になれば、彼らを邪悪とは思わない。


「そうだろう? ディアディン。それは幸福だ。ずっと望んでいたはず。私の仲間になるな? 私に忠誠をちかうな?」


 ディアディンはあらがえなかった。レイグルの手がすべるようにキャンバスの上を動くのを、なかば恍惚とながめた。


 これでもう、おれは悩まなくてすむ。

 幸福でいられる。

 過去の罪にうちひしがれることもなく、愛する人たちといられるのだ。


 たとえ、そのために、人であることをすてたとしても、それが何ほどのものだろう?

 たとえ、魔物になりはてたおれが、自分さえ守れない力弱い魔物をえじきにしたとしても。

 長姫のあの愛すべき眷族たちを……。



 ——いやだよ。ぼくは別れたくないよ。



 ディアディンにしがみついて泣いた、白しっぽの姿が思いうかぶ。


 ほんとうにいいのか?


 白しっぽ、ウニョロやムニョロ、カラスの精、アリの精、なによりも、長姫をうらぎることになる。


(……だめだ。おれにはできない。あいつらをえじきにして、自分だけ幸福でいるなんて、おれには……)


 そう思った瞬間、誰かの手が、そっとディアディンの背中をおした。

 やさしい白い手が。


(長姫か……?)



 ——しっかりして、ディアディン。あなたはこんなことでくじける人ではないはずよ。



 長姫の存在を身近に感じる。

 二人の意識がとけあって、ひとつになる。



 ——おれは、おまえにふさわしくないと言ったのに。


 ——いいえ。あなたは今このとき、われらを呼んでくださった。あなたの心のまんなかは無垢で清らかなのです。でなければ、わたくしもここへは来れなかった。


 ——月のしずく。おれは……。


 ——さあ、悪しきものをたおしてしまいましょう。わたくしが力をかしますから。



 どこからか、ディアディンのなかに力がこみあげてきた。

 ディアディンは自分をとらえる邪悪な魔力をふりはらった。全身の力でレイグルに体あたりすると、絵筆をうばいとる。



 ——その筆を折ってください。描かれたすべてのものの魔法がとけます。



 ディアディンは絵筆に両手をかけた。

 絵のなかの男の形相が変わる。


「やめろ! バカなマネをするな。そんなことをすれば、おまえの望みは永遠にかなえられなくなるぞ!」

「知らなかったのか? おれの望みは魔物になることじゃない」


 両手に力をこめると、あっけなく魔法の絵筆は折れた。号泣のような音をとどろかせ、突風がふきあれる。絵筆にかかった魔法が失われていく。

 突風のなかに身をよじるように、絵のなかの男も消えた。


 何もかもが、一瞬のうたかた……。


(行ってしまったのか。長姫……)


 あの人の存在も、もう感じない。

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