第8話 月のしずく 3
「さあ、帰るぞ。きっと今ごろ、おまえの両親が泣いて探しまわってる」
今度は少女も何も言わなかった。しかたなさそうに身をおこし、最後にもう一度、なごりおしそうに丘の景色を見わたした。
「ここがきれいな場所でよかった」
少女がどんな気持ちで言ったのか、そのとき、ディアディンは気づいてなかった。
道をたどっていくと、小一時間で森はとぎれた。 田舎町らしい集落が見える。石造りの町なみは、よくある風景だ。ほんとに時代をとびこえたのか、これだけではわからない。
しかし、ディアディンの服は奇抜らしいので、ひとけのない通りに来たところで少女をおろした。
「おまえのうちは、もう近くか?」
「あの赤い屋根のうち」
わりに大きな家だ。想像していたような貴族の城ではなかったが、やはり、裕福らしい。
街路の向こうから現れた人々が、こちらを見てさわいでいる。
「どうやら迎えが来たみたいだな。おれがつれ去ったと思われたら、やっかいだ。このまま行くよ」
「また会える? ダンスの約束したもの」
「そうだな。じゃあ、いつかまた」
てきとうに言って、逃げるように走りさる。
すると、景色がゆらいだ。
ディアディンは月夜の庭に立っていた。きれいに手入れのいきとどいた庭だ。白壁に赤い屋根の家が目の前にあった。自分の家だと、少女が言っていた館だ。
あの一瞬で、時間のなかを進んできたらしい。
いったい、いつ自分の時代に帰れるのか知らないが、これはあの子に会っていけという意味に違いあるまい。
ほんとは気が向かなかった。
だが、ディアディンは、そこから見える窓辺に近づいていった。
窓のなかは子ども部屋だ。
女の子らしい数々のものにかこまれて、少女は眠っている。
かわいい寝顔をみて、ディアディンはホッとした。
まだ、ぶじだったかと考えて、自分でイヤになる。なんだかんだ言って、けっきょく、少女の安否が気になっている。このままでは、つらい思いをすることになりそうだ。
ディアディンが立ち去ろうとしたとき、少女が目をさました。
とびおきて、窓辺にかけよってくるので、こっちの寿命がちぢむ思いだ。
「ばか。走るな」
少女は平然として、ディアディンの首にとびついてくる。
「来てくれたのね」
嬉しげに頰を上気させている。でも少しやつれた。
寝台から窓までのほんのわずかの距離を走っただけで、もう息をきらしている。容体はよくないのかもしれない。
「ムチャをするなら帰るぞ。ベッドに運んでやるから、おとなしく寝てるんだ」
「うん」
窓から入りこんで、素直に従う少女をベッドへつれていった。寝具によこたえ、みだれた黒髪をなおしてやる。
「あなたが来るとわかってたら、もっとオシャレしとくんだったわ。あたし、変じゃない?」
「いや。カワイイよ」
やつれたことを自分でも気にしてるのだろうか。
少女の成長ぶりから見て、この前、森で会ったときから(ディアディンには一瞬だったが)、一年以上はたっている。
女の子なら異性の目を気にし始める年ごろだ。
ほんとなら、これから美しい花になって、咲きほこる年だというのに、この子はもう衰えを気にしている。
毎度のことだが、この世に神などいないと思う。
いるのなら、なぜ、こんなに小さな女の子を苦しめなければならないのだ。
「今夜は満月ではないが、月がキレイだから会いにきたんだ」
「嬉しいわ。もう会えないかと思ってた」
「ダンスの約束をしたじゃないか」
「うん」
少女は少し涙ぐんで、枕もとに置かれた一冊の絵本を手にとった。
「これがあたしの一番、好きなお話よ。いつも、これを読んで、いろんなことを空想するの。
あたしが花の精になったら、満月の夜に、エルフの丘でダンスパーティーをひらくの。
あたしの国の妖精たちは、まっしろいフワフワのハツカネズミや、小さな緑色のアリ。みんな嫌うけど、あたし、けっこうカラスも好きよ。前に窓の外にいたから、ゆで卵をなげてあげたの。そしたら、あたしのほうをふりむいて、カァって、ひと声ないてから飛んでったのよ。あれは絶対、ありがとうって言ったんだわ。
それから、巻毛のたてがみのポニーでしょ。人魚と友だちになって、バラやユリやヒナゲシの精霊をしたがえるの。ぬいぐるみや、ふだん、しゃべれないものとも話せたらいいな」
少女の話す夢の話はどれも、ディアディンには聞きおぼえがある。なんだか、どこかで聞いたようなものたちばかり。
ディアディンの胸は妖しく
この少女、いったい、なんなんだ——?
「王子さまはあなたよ。ねえ、いいでしょ?」
「ああ……」
「あなたにお願いがあるの」
「おれにできることなら」
「できるわ。今じゃないけど、いつか、きっと……」
「いつ?」
「たぶん、今年の冬くらい。そのときには、かならず、また来てね」
しゃべり疲れて、少女は眠ってしまった。
少女の頰をなでて外へ出た。
すると、風景が変わった。
また時間を飛んだのだ。
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