第九話 まぼろしの海

第9話 まぼろしの海 1



 ディアディンにとって現実はつねに厳しいもので、それはいつになっても変わらない。

 たぶん、心によどむ、いくつかの記憶があるかぎり、ずっとそうなのだろう。


 金色の髪のリック。

 青い瞳のリック。

 誰もが羨むようなきれいな少年だった。

 貴族の家に生まれ、前途洋々ぜんとようよう

 なに不自由なく、彼の人生は続いていくはずだった。


 時計の長老と人間の友情を見たせいだろうか。

 このごろ、ことに思い出がつらい。


「ねえ、ディアディン。僕、結婚することになったよ」

「えっ? でも……まだ十六だろ。ずいぶん急なんだな」

「親が決めた許嫁いいなずけなんだけど。それがさ。この前、初めて会ったら、顔も可愛くて、けっこういい子でね。僕ってラッキーだよね」


 ラッキー?

 そんなこと、あっていいのか?

 ミュルトを結婚できない体にしたのは、セオドリックなのに……。

 リックだけ、こんなに幸せな結婚話に浮かれてるなんて。

 だって……だって、ミュルトは、リックを……。


 それは三人で遊んでいたころから気づいていた。

 ミュルトは自分があんな体になってから、その気持ちをかくしていたが、今でも思いが変わらないことを、その目が告げている。


 どうして、リックにばかり幸福がおとずれて、おれたち兄妹はどんどん不幸になっていくんだろう。


 神さまは不公平だ。


 それでもリックの恩情にすがらないと、高い薬代を一家のかせぎではまかなえない。


「そんな……でも、リック。じゃあ、ミュルトは……? ミュルトはどうしたらいいんだ? あいつは、おまえを……」


 リックは長いこと考えこんだあと、言った。


「ミュルトは僕がひきとるよ。結婚すれば、自分の城をもてるから。形は愛人になるけど。そのほうが、ディアディンたちも手がかからなくてすむだろ」


 友情のくずれおちる音を聞いたのは、このときだったのかもしれない。


(違う。やめろよ。そんな言葉、聞きたかったんじゃない。おまえがミュルトを壊したくせに。まるでキズものみたいに、ミュルトのことを……)


 バカにして——


 怒りにふるえた、あの日。


 思い出を消せたら、どんなにいいだろう。

 あの記憶があるかぎり、ディアディンは友情なんて信じられない。


 物思いにふけっていると、どこか遠くで潮騒が聞こえた。近辺はどこまで行っても、森が続くだけの樹海だというのに。


「おかしいな。波音が聞こえなかったか?」


 ディアディンはつぶやいた。


 任務時間外のたいくつな午後。

 自室にはディアディンのほか、アンゼルしかいない。


「夏にだけ聞こえるってやつですね。砦の七不思議のひとつですよ」

「そうなのか。初めて聞いた」


「そういえば、今年はあまり聞きませんでしたね。もうすぐ秋になるっていうのに。まあ、森のなかをふきぬける風が、そんなふうに聞こえるだけなんだとは思いますが。ウワサでは砦の地下に幻の海があるとかなんとか」

「幻の海か。あれば、見てみたいな」


 ざれごとに話した。


 その夜は、満月。

 使いは以前にも来たスノーホワイト族の少女だ。


「今度はまた、おまえたちの願いか?」

「違いますよ。おかげさまで、われらは小麦をおなかいっぱい食べられて満足しています。そのせつは、ありがとうございました」


 ぴょこんと腰を半分ほども折って頭をさげる。

 やっぱり、カラクリみたいな連中より、こっちのほうが微笑ましい。

 彼らと話していると、少し気分がほぐれる。


「そうか。じゃあ、なぜ、おまえが迎えに?」

「今夜の一族は、われらのように歩くことができないんです。だから、ぼくがお使いに来ました」

「歩けない種族か。また難題をだされそうだな」


 少女は前歯の目立つ子リス(ネズミだから、似たようなものだ)みたいな顔に、ぱっと明るい笑みをうかべる。


「今日のは難題です。でも、これまでで一番、おいしいかもしれませんよ。うまくすればね」


 それ以上はどうくどいても、ニパニパ笑うばかりで教えてくれない。

 まあ、そんな会話を楽しんでいるうちにも、長姫のいる月光のふりそそぐ一室へついた。


 いつもどおり、長姫は美しい。

 いや、このところ、とくにその美が水ぎわだってきたように見えるのは、気のせいだろうか?


「いらっしゃいませ。ディアディンさま」

「ああ」


 つかのま、見つめあい、どちらからともなく、ぎこちなく目をそらした。

 なんだか、てれくさい。


「今日のは難題らしいな」

「危険がともないます。お覚悟を」


 覚悟のいるようなことなのかと、ディアディンが思っていると、長姫はディアディンの前に、狩りの角笛くらい大きな貝をさしだした。二枚貝の片方に脚がついて、さかずきのようになっている。


 なかには水が満々と張られ、ほんのり潮の香がした。海水のようだ。

 そこに一尾の魚が泳いでいた。銀のウロコの美しい魚だが、どことなく元気がない。


「これは、われらの眷族というよりはお客さまなのですが、困ったことになっております。お力をお貸しください。彼女は——」

「女なのか」

「はい。彼女はここへ来るとき、地下で大切なものを落としてしまいました。その品物をさがしだしていただきたいのです。が……」


 と、これまでになく、長姫は躊躇ちゅうちょする。


「地下にはトレジャー族がいるのです」

「トレジャー。宝の一族か」


「彼らは宝石や黄金などの宝が大好きなのです。地下の洞くつに宝物を集めて暮らしています。一族の数は多くはありません。今は一人だけ。われらの眷族のなかでは、ずばぬけて腕力も魔力も強い種族です」


「姫の眷族なら、お客人の大切なものを返しておくれと、言えばいいんじゃ?」

「それができればいいのですが」


 長姫は美しいおもてをなやましく曇らせる。

 いったい、なんだっていうのだろう。

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