第48話 俺は彼女を抱きしめたい

 すぐにでも藤安ふじやすさんを救出したい。その思いで、俺はビルを駆け上がった。

 時折現れる監視員を無視してとにかく突き進んだ。


 俺は全力でドアを開け放った。

 部屋にいた者たちの視線が俺に向けられた。

 その中には、俺が一番会いたい人もいた。彼女は驚きと安堵あんどの入り混じった茶色い瞳を俺に向けていた。

 一瞬俺は彼女に目を向けると、彼女は弱々しいながらも微笑んだ。

 俺は心に少しだけ余裕ができた。


 今、君を助けるから。


 そんな中、あの女は一人何かを悟ったかのように俺に背を向けていた。


「遅かったじゃない。あと少しであんたの彼女の変わり果てた姿を拝めたのに」


 振り向いた女――浅木あさぎは悪魔のような笑みを浮かべる。

 物騒な物言いに一瞬、寒気さむけがするも俺は腹から声を出した。


「浅木、お前は間違っている。居もしない犯人の幻影を追いかけているだけだ」

「へえ。藤安さんがやってない証拠でも見つかったの」

「そもそも事件ですらないけどな。遠足で起こったことは事故だった」

「事故ですって?」

「近衛が藤安さんにつかみかかったその時、運悪く藤安さんが足を踏み外したんだよ。それで二人とも一緒に落ちて行った――何人もその様子を見ていたと証言もある」


――藤安さんは手をかけていない。運悪く、近衛は死んでしまった。それだけなんだ


 俺が言い切ると、辺りはまるで時間が止まったかのような沈黙に包まれた。

 だが、静寂はすぐに破られた。


「ふふっ」


――ふふふ……はははははははははははははははははははははははははははははははっ!


 狂ったように浅木が笑い始め、静まった部屋内に響く。

 周りの者は浅木に釘付けになった。


「なんて簡単に罠にかかるのかしら。これを愚か者って言うのね。だからあんたはいじめられてたのよ。相変わらず伊達だて君以下とはね。はははははっ、おっかしー!」


 笑い終え、凶悪な笑みを俺に向ける浅木。

 俺は怪訝な顔を浅木に向けた。


「なんだよ、お前」

「そう、基樹は事故死なの。それはあんたたちにとってよかったじゃないの。……でもね。基樹は戻ってこないのよ。どうしてくれるの? あたしの五年間を奪っておいてあれは事故死って、よくそんなこと言えるわね」


 浅木はゆっくりと動き出す。

 俺の心臓が何故か早く脈打つ。

 時間が、早くなる。


 そして、浅木の動きが止まった。彼女は俺の一メートル先にいた。


――あんたらを解放すると思ったら、大間違いよ


 背筋が凍りついた気がした。浅木の目は、殺意に満ち溢れていた。


「あたしだってね、少しばかりの希望は持ってたわよ。明日にでも基樹が帰ってくるように願ってた。だけど、基樹は死んだ。あの時一緒にいた藤安さんはあんたと楽しそうにしている。あたしにはそれが憎いのよ。少しの希望まで潰しておいて……」


――あんたらも同じ目に遭わせてやる


 氷のような眼差しが俺と藤安さんの希望を貫いた。


 俺はなんとか持ち堪え、浅木を睨み返す。


「初めから俺らを生きて帰すつもりはないと」

「そうねえ。ただ殺すのも面白くないから上げて落とすことにしたわけ。精々、最期の望みも潰された気持ちを味わっておくことね」


 ふふっ、と浅木は悪魔のような笑みを浮かべた。

 俺は怒りを隠しきれなかった。ここで死んでたまるか。望みはまだついえていない。絶対に藤安さんを助けられる方法があるはずだ。

 そういえばこの事件の裏にあいつがいるはず。

 問いただしてみるか。


「なあ、このビルって借りてるんだろ?」

「は? 何関係ないこと訊いてんの? 話題逸らしのつもり? 悪あがきにしてはショボくない?」

「折山って知ってるか」

「……!」


 浅木の表情が変わった。図星のようだ。


「そ、それが何よ……」


 すると、浅木のスマホが音を立てて震え始めた。

 気づいたのは浅木だった。


「誰よ、こんな時に。もしもし? ……え? 約束の時間? もう外にいる?」


 日が落ちかけようとしている京都の街並みを覗き込むと、浅木の顔色が変わった。

 異変に気づいたのか、浅木の兄が妹に駆け寄ると、


陽子ようこ、まさかあのが来たのか?」

「……早いわよ。まだ終わってなんかないのに……」


 状況が一気に変わったのは、一目瞭然だった。俺も、藤安さんも何が起きたのか分からなかった。

 だが、事はすぐに判明した。


――いつまで待たせるのかなあ、陽子ちゃん?


 俺たちの視線の先、ドアの前に数人の大男に囲まれて佇む赤茶色の髪をかき上げる女――演劇部員の一人であり、裏でうごめいていた女――折山おりやま貴子たかこだった。

 俺は驚き半分だが確信した。この事件の裏には折山が絡んでいたのだ。


 折山は一歩ずつ浅木に近づく。


「まだ終わんないの? 早くしてもらわないと、待てないんだけど」

「……ちょっと待ってくれる? こっちも簡単には済ませられないのよ」

「そうかなあ……あそこまでお金を出して全力で陽子ちゃんを応援したのに全然結果出さないんだもん。あなたの計画、面白いと思ったんだけどなあ……」

「……何する気なの?」


 そして、折山は周りに待機していた監視員に目をやると、パチンっと指を鳴らした。


「こいつらを捕まえなさい」


 あたりはいきなり騒然となった。大男たちは容赦なく浅木たちを捕まえようとする。

 俺たちも危なかった。巻き添えを食うかもしれないからだ。

 だが、今が絶好のチャンスであることも知っていた。浅木たちの意識は俺からそれている。ここから逃げるには、今しかない。


「藤安さん、行こう」


 俺は彼女に耳打ちする。

 彼女は初め戸惑っていたが、俺の目を見ると頷いてくれた。


***


 俺は藤安さんの手を取ると、素早く部屋を抜け出した。幸い、浅木や折山絡みの男たちには遭遇しなかった。どうやら俺たちが閉じ込められていた部屋に集められたようだ。

 階段を駆け下りて二階まで下る。

 窓に夕日が差し込む中、俺たちは廊下を走っていた。


「はあ、はあ……ちょっと待って……」


 藤安さんは息を切らせていた。


「……大丈夫?」

「うん……ちょっと意気が上がっちゃっただけ……」


 そして、藤安さんは俺に茶色い瞳を合わせた。彼女は大丈夫と言わんばかりに少し微笑んで見せる。

 俺は少し胸が熱くなった。

 しかし、彼女の目には疲れが見えていた。それもそのはずだ。ずっとあの部屋に閉じ込められていたのだから。


「少し休む?」

「……」


 藤安さんから返事はない。

 だが、彼女の目から涙が溢れていた。徐々に、口元が緩む。


 そして……


――怖かった……本当に怖かった……! どうなるかと思った……! あなたがいなかったら、今頃……


 藤安さんは、嗚咽おえつを交えながらも全力で俺を抱きしめていた。彼女の柔らかく温かなぬくもりが俺の身体に浸透していった。


 ――ありがとう……カズキくん……


 俺ははっとした。彼女は初めて俺を名前で呼んだ。

 これは……。


「うん……は……ハナちゃん」


 俺も初めて彼女を名前で呼んだ。

 そっと彼女に手を回し、俺と彼女は初めて抱き合った。


 今は一刻を争う状況だった。しかし、今だけはそんな時間を忘れたかった。いや、時間が止まってほしかった。


 しかし、現実は残酷すぎた。


 ――君たちを逃がすと思った? ざーんねん!


 俺たちを強制的に現実に引き戻す、冷たい女の声。

 振り返ると、先にやつらはいた。

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